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歓喜寺山城 近江国(志賀 大物)

2018年11月26日 | 山城
 

お城のデータ
所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)大物  map:https://yahoo.jp/BrOefb
現 状:山林(山頂)
区 分:山城
築城期:織豊期
築城者:比叡山延暦寺の僧
遺 構:堀切・土塁・平削地(曲輪)・切岸
標高:372m 比高差:122m 
目標地:歓喜寺
駐車場:歓喜寺手前駐車場
訪城日:2016.4.20・2018.11.26


お城・寺院の概要
 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている天台宗の古刹「歓喜寺」があり、今は薬師堂だけ」がひっそりとたたずんでいる。幸い、車で歓喜寺まで舗装の参道がついている。
 歓喜寺は、かつての元亀の騒乱に対処しては、僧坊跡が三カ所豪快に堀切で城郭化されている。いずれも僧坊を破壊して砦化した平削地の作事で建物は城砦・曲郭に転用したのであろう。石垣や堀切で3つに区切られた歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。
 歓喜寺城(歓喜寺)は. 志賀町大物所在した歓喜寺は、 山岳寺院の一角に築造された「平地の城館をモデルとしての山岳寺院」で、僧坊をの城館・廓に転用したのである 。 その 築城契機は明確ではないが、背後山頂の 歓喜寺山城城郭遺構や土塁・石垣・堀切・土橋が残存する。
歓喜山城は、北の遺構はシダの海で確認できず、南の遺構は廓・土塁や竪堀は確認できたが、砦や見張り台の感じで、歓喜山城の城郭遺構とは作事の大きく違う。
しかし、南廓からの眺望は、素晴らしい・・・歓喜寺・歓喜寺城は谷筋に遺構が残る。
 余談ですが、2008年の開帳(33年に一度開帳されて来た)の準備のため、薬師堂を開けたとこと、本尊が消えていたという。警察に被害届を出したが発見されていない。歓喜寺は戦国時代の頃には、土塁や石垣で囲われた山城のような寺だったは、元亀3年(1572)織田信長軍の焼き討ちに逢う。その際、もの際、本尊の薬師瑠璃光如来立像を僧侶が山中に埋めて守り、後に住人が発見。文禄元年(1592)に住民らが薬師堂を建て、志賀地域一帯の信仰を集めていきたという。
お城・寺院の歴史
木戸庄は、木戸城主の所領である。木戸庄には、木戸城・荒川城・歓喜寺城・南比良城・北比良城・比良城がある。
歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されいます。
また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺山城も残存する。
『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。
『当代記』には、木戸城(志賀町)  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」
 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。
『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。
信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事
 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----
信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事
 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、城歩会レジュメ(作図:長谷川博美氏)遺跡ウォーカー、信長公記
 本日の訪問ありがとうございす!!

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