続け!山城探訪

歴史好きで、近江の山城💗!

六角氏の発祥

2020年05月14日 | 武将・武士
六角氏は近江源氏として名高い佐々木氏の嫡流である。佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、 その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのが始まりといわれる。
 しかし、佐々木庄には大彦命の後裔といわれる佐々木貴山氏という古くからの豪族もあり、両者の間には錯綜したところがあって、 確実なところは分からないというのが実情である。

六角氏の発祥
・写真:京六角氏屋敷の西隣にあったという六角堂(頂法寺)
 佐々木氏は成頼の曾孫秀定のとき、沙々貴神社神主系と守護・地頭に任じられた武家系の二家に分かれた。すなわち、 秀定の子行定は神主家のほうを継いで真野氏を称しし、一方、は行定の弟秀義は武士としての佐々木氏のほうが継いだ。そうして、秀義は平治の乱に 源義朝に属して活躍、以来、源氏とのつながりを密接にしていった。
 秀義が仕えた源義朝は平治の乱で敗れ、東国さして逃亡の途中尾張国で横死した。平家全盛の時代になると、義朝に与した秀義は世を隠れて 関東の地に雌伏することになった。治承四年(1180)、源頼朝が平氏打倒の旗揚げをすると、息子たちとともに最初から加わった。 その後の平氏との合戦において佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府が成立すると、各地の守護・地頭職に補任されて一大勢力を築き上げたのである。
 佐々木秀義のあとを継いだ嫡男定綱は、広綱をはじめとして数人の男子があった。承久三年(1221)、後鳥羽上皇の討幕行動である承久の乱が起ると、 惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に付いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。
 信綱には四人の息子がおり、仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人に分割された。長男の重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て 大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏を名乗った。そして、三男泰綱が宗家を継いで近江守護職に任じ、 近江南六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗った。四男氏信は近江北六郡と京極高辻にあった館を与えられて京極氏を名乗ったのであった。
 兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、近江国に強大な勢力を持つ 有力御家人佐々木氏を牽制、分裂させようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
 泰綱のあとは頼綱が継ぎ、頼綱には長男頼明を頭に数人の男子があった。しかし、頼明はなんらかの理由で家督を継がず、二男の宗信も早世したため、家督は末子とも盛綱の子ともいう時信が嗣子に定められたという。延慶三年(1310)に頼綱が没すると、時信が家督を継いだがわずか四歳の幼子であった。 この時信が鎌倉幕府瓦解から建武の新政、南北両朝の対立という動乱期に遭遇することになる。
………

小脇城 近江国(東近江 八日市)

2020年05月12日 | 居館
お城のデータ
所在地:東近江市小脇町  (旧八日市市小脇町)  map:http://yahoo.jp/WjfocE
区 分:山城
現 状:山林
遺 構:土塁、竪堀、削平地(曲輪)、井戸
標 高:150m 比高差:30m
築城期:鎌倉期
築城者:三井氏
初城主:三井新三郎・三井男石見守時高
目標地:緑ヶ丘自治会館・山麓道路に石段(登り口)http://yahoo.jp/o_7a63
訪城日:2020.5.7

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』にか、「蒲生郡 小脇城主 佐々木旗頭 三井新三郎・三井男石見守時高」と記す。
『大洞弁天当国古城主名札』にも「三井新三郎」の名がみえるとある。
小脇城 近江国{八日市}
区分:山城
現状:山林
遺構:土塁、竪堀、削平地曲輪、井戸.
【小脇城・遺跡ウォーカー】で検索!
mapコードは、間違いのようです!が?
滋賀県城郭分布調査10にも記載あり。
小脇山城の山麓館か?
小脇山城は、佐々木六角の重臣三井氏の城。
所在地:東近江市小脇町

お城の歴史
三井氏
三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫藤原右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない。12代三井出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。
慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松阪に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。
屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている。

小脇館
 湖東平野の農業生産力という基盤にくわえ、近江から鈴鹿山脈をこえて伊勢国にいたる中世近江商人にさかんに利用された八風街道という交通の要衝に位置している。
  そのため、すでに鎌倉時代の『源平盛哀記』に「蒲生郡小脇の八日市」とみられるように、定期市場の中心となっていた。現在、「御所」「鳥門」「東風門」などの小字名がつたわる。(後略)(満田良順)」とあります。
なお、八日市小脇町は現在東近江市小脇町になっています。


小脇郷の歴史
  戦国時代となる紀元前4世紀から朝鮮半島を含む中国大陸より、戦乱から逃れる亡命者集団が歴史上主として4つの時期にわたり日本各地に相当人数が漂着して来ています。
   その一事例として、古事記・日本書紀には5世紀前半ころ秦一族等が近江の国に移住したことや、西暦668年の唐と新羅の連合軍により滅ぼされた高句麗の国滅亡の混乱時には、百済や高句麗からの多くの亡命者が日本各地に渡来し、時の政権はこれを受け入れ対応していることが記されているのです。 こうした渡来人は、全国各地で医術、製鉄の技術、鉄製の農具、灌漑(かんがい) 技術、須恵器づくり等の当時の先進技術をもたらしています。               

  その亡命渡来人について、669年に男女700余人を近江蒲生郡に配したとし、滋賀県蒲生郡日 野町から東近江市にかけて渡来人が配されている記録があり、蒲生野と呼ばれていた地域の中にある小脇郷にも高麗人たちが移住しているのです。
又、それ以前の時代の証として小脇町青蓮寺付近の土中3メートルから5世紀末の瓦泉(はそう)が出土しています。又、金柱宮跡付近から太い柱
の一部が発見されており、この直近の小脇山山腹には後期の古墳2基があり、5世紀には人々が住んでいて付近を開拓したと考えられるのです。 此処、東近江市の小脇郷は今も同じように、若干の表土の下には丸い河原の石と砂が混合した砂礫地層となっており、元来、農耕不適の土地だったのが渡来人達の開拓によって稲作が出来るようになったと言い伝えられています。          

このことは現代まで、小脇郷の 「狛(こま)(狛=高麗人)の長者伝説 」 として残されているのです。
  伝説というのは、これまで生きつづけてきた人々の口から 代々語り伝えられるものです。そして、この伝説を物語るようにしてその遺蹟や跡地が残されており、小脇郷に残っている           
                   
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査10、遺跡ウォーカー、ウィキペディア

龍王宮秀郷社

2020年05月12日 | 神社
龍王宮秀郷社/雲住寺 百足供養堂

近江八景の1つに数えられる景勝地であり、京の都にとって軍事上の要衝でもある瀬田唐橋にまつわる伝説で最も有名なものは、俵藤太の百足退治である。これにまつわる伝承地が唐橋の東端にある龍王宮秀郷社と雲住寺である。
瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして
永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。
寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。

神社の隣にあるのが、雲住寺である。
創建は応永15年(1408年)、蒲生郡日野に小御門城を構えていた蒲生高秀によって建てられている。
高秀も俵藤太から数えて15代目の子孫であり、先祖の功績のあった場所に追善供養のために寺院を建立したのである。さらにこの境内には百足供養堂があり、藤太によって退治された百足を供養している。この地に伝説の全て祀られている。

俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。

闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。
その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。

雲住寺 近江国(大津 瀬田)

2020年05月12日 | 平城
雲住寺(うんじゅうじ)
民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

瀬田の唐橋
都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。
武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。
この寺を開いたのは、近江・日野の小御門城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太)により退治されたむかでの供養堂なのだ。

醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。
蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。


膳所城 近江国(大津 膳所)

2020年05月12日 | 水城
 近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、
築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。
 城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。
この美観は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。
 戸田・本多・菅沼・石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、

明治維新で廃城になり楼閣は取り壊されました。
城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。
 現在、本丸跡は、膳所城跡公園として整備され、春には桜の名所として花見客を多く集めています。

膳所城の歴史
膳所城は徳川家康の命により、天下普請によって築かれた城です。
築城の名手と謳われた藤堂高虎に最初につくらせた城で、日本三大湖城のひとつに数えられます。
大津城にかわって京都の東の守りを固める目的で築かれ、戸田氏や本多氏など譜代大名が城主として配置されました。
また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」のひとつでもあります。
本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われました。
現在は膳所城跡公園として整備され、往時の石垣を見ることができます。
また、城門は膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎神社(南大手門)に移築されて現存しています。


膳所城の移築城門(移築櫓)をチェック
すべての移築城門の場所をGoogleマップでチェック


本丸大手門(膳所神社表門)
※重要文化財

城門(膳所神社北門)

城門(膳所神社南門)

お碗倉(十六体地蔵堂)

北大手門(篠津神社)
※重要文化財

南口総門番所・粟津番所(民家)

犬走門(若宮八幡神社)

お倉門(御霊神社)

米倉門(近津尾神社)

本丸二層隅櫓(茶臼山公園芭蕉会館)

南大手門(鞭崎八幡宮)
※重要文化財

水門(新宮神社)

南口総門・瀬田口総門(民家)
そのほか、草津宿本陣は、膳所城藩主別邸瓦ヶ浜御殿の一部だとする話が伝わっていた。享保3年(1718)の草津宿大火の後に、膳所城藩主別邸瓦ヶ浜御殿の一部を拝領し、再建したと伝わっていたが、平成元年度以降の保存修理によってその建物でないことが判明したそうだ。

南口総門・瀬田口総門について
大阪府泉大津市松之浜に膳所城の移築城門がある(場所は上記Googleマップを参照)。この高麗門は、膳所城の南総門。膳所城は東海道を取り込むかたちの城だった。西の大津口(西総門)から、この南総門を通行するといった具合だ。

明治5年(1872)に膳所城から滋賀県大津市内の建部神社に移築され、その後、細見家が購入し大阪府泉大津市に移築された。特別に門の内側も見せてもらった。細見家の方の話によると、昭和12年(1937)に、トラック40〜50台で資材を運搬したそうで、その時に瓦の大半が割れてしまったそうだ。よく見ると一部を残し葺き替えられている。鯱瓦もその時に小ぶりなものに替えられた。
また、太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れ多いとして塗り込められている(門の内側に見られる)。膳所城の移築城門の中では、その保存状態から堂々たる風格が香る門ではないかと思われる。普段は門の内側に入ることはできないが、岸和田城散策ついでにちょっと足を伸ばして訪ねてみるのもいいかも。
南総門の外観。よく見ると柱下の飾板や釘隠が一部、無くなっている。

門の内側。高麗門であることがよく分かる。特別に入らせてもらった。

熨斗瓦の間に菊丸瓦が入っている(茶色の部分)。太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れ多いとして土で塗り込められた。

鬼瓦や軒瓦に本多家の立葵の家紋が見られる。この写真では分かりづらいが、後に付け替えられた鯱の尾がちらりと見えている。

瀬田城 近江国(大津 瀬田)

2020年05月12日 | 平城
お城の概要
瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋の南側付近に築かれていたという。 現在は宅地などとなり遺構はないが、県道29号線沿いに石碑と案内板が建っている。
瀬田唐橋東詰交差点を南へ曲がり南下する。緩やかなカーブを描いて川沿いに出る辺りにマンションがあるが、その壁際に石碑と案内板がある。



お城の歴史
近江・瀬田城は、滋賀県大津市瀬田にある平城で、別名は勢多城、山岡城とも言う。
東海道・中山道から京都に出入りするためには、琵琶湖を船で渡るか、北側から迂回しないかぎりは、琵琶湖から大阪湾に流れている「瀬田川」を渡る必要があります。古来より交通の要所として瀬田は栄えました。

飛鳥時代の667年に天智天皇と中大兄皇子が、近江大津宮に都を移した頃には、瀬田の唐橋(瀬田の長橋)があったようです。

東国から京に入る際には、必ず通行する場所でもあったことから、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、京に関係する戦乱では、瀬田でいくども合戦になりました。
「急がば回れ」と言うことわざも、瀬田橋のことからのようです。

永享年間(1429年~1441年)に山岡資広によって築かれたと云われる。 山岡氏の出自は詳らかではないが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされる。
参考に甲賀の山岡城https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4f0aa6e5ad6db2238a35d36c3789f8a2
永享年間(1429年~1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広が、瀬田に城を築いて移ったのが始まりと云われる。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていた。永禄11年(1568年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降った。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍している。天正10年(1582年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れた。その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したという。

山岡氏は、観音寺城の六角氏に仕えていましたが、戦国時代には、江南の旗頭ともされる山岡景之(かげゆき)がいます。
その子・山岡景隆(かげたか)は、六角氏と足利義輝に仕えており、山内一豊が浪人していた際には、家臣として召し抱えていたこともあるようです。
1568年、織田信長は、足利義昭を奉じて京へ登ろうとした際に、山岡景隆に対して織田家に臣従するよう促しました。
山岡景隆は、織田勢に抵抗したため、1569年に攻撃を受けて、山岡景隆は松永久秀の家臣・柳生宗厳を頼って逃れた模様です。
その後、山岡景隆は織田家に降伏して、弟・山岡景友と共に佐久間信盛の与力となりました。
山岡景隆は織田信長にかなり忠実につくしたようで、甲賀衆を任されたりしています。
1575年には、長さ約324m、幅約7.2mの立派な瀬田橋が完成しました。
織田信長が足利義昭と対立するようになると、山岡氏は織田勢として槇島城も攻撃しています。
1577年の雑賀攻め、1581年の伊賀攻めにも参じました。

1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、近江・瀬田城は明智勢に狙われるようになりました。
明智光秀に味方することもなく、山岡景隆と山岡景友は瀬田橋を落として明智勢の進軍を妨害しています。
そして、山岡氏は、一族で山中へ逃れましたが、羽柴秀吉に随時、明智勢の行動を報告しています。
また、明智勢は、瀬田川に仮橋をもうけるのに、3日間要したともあります。

その後、瀬田の唐橋を復旧させたのは、豊臣秀吉で、現在の大小2橋の橋の位置に架けたとされています。

清須会議のあとは、山岡家は織田家に忠節を誓う立場から柴田勝家に味方して、羽柴秀吉とは敵対しました。
しかし、1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れると、羽柴秀吉に降伏しました。
山岡氏の所領は没収され、以後は甲賀にて隠遁しています。

瀬田城は廃城になったと推測され、江戸時代には膳所城が瀬田橋を管理しました。
山岡景隆は1585年に、甲賀郡毛牧村(もひら)にて死去しています。享年61。
ただし、山岡景隆の7男・山岡景以(かげもち)は、1588年に、豊臣秀次の家臣として3000石になっており、のち甲賀・水口城を徳川家より任されています。
また、弟の山岡景隆は、豊臣秀吉の直参になると御伽衆に加わりました。
大津城の京極高次とも親しく、豊臣秀吉が死去したあとは、黒田長政を通じて徳川家康に従っています。
関ヶ原の戦いの際に、山岡景隆は、伊勢・長島城の福島高晴を助けて、東軍として戦いました。
これらの功績が認められ、常陸・古渡藩1万石となっています。
瀬田城跡には、膳所城の別邸で臨湖庵という。その後、臨湖庵という料亭がありました。
その西側の一角に、城址の石碑があります。

2008年にグランスイ-ト近江・臨湖庵と言うマンションが建てられました。

駐車場はありません。
石碑の川側(道路の西側)に、路側帯があり、短時間であれば停車が可能。
駐車になると駐車禁止ですので、車からは離れなで。

鯰江城  近江国(愛東・鯰江)

2020年05月01日 | 平城

鯰江町自治会館の説明板
専修院境内土塁

鯰江町自治会館内の地割図 
『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」
 『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。
現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」
志士「丹羽雅雄(福田卯之助)の顕著碑」明治18年(1887)故郷の鯰江村に建立された。(愛東の歴史ダイジエストより)
丹羽正雄之碑
 愛知川右岸沿い、県道・外八日市線から鯰江集落へ入る坂道の東側に小さな緑地がある。「鯰江城趾」の説明板とともに、目をひくのが高さ三メートルちかい石碑である。もとは坂道西側に建っていたが、平成初年の緑地整備で現在地に移された。
 石碑上部に、「丹羽正雄之碑」の題字。明治新政府で太政大臣をつとめた三条実美の書である。三条家は平安時代からつづく公卿の名門で、実美は二十一代目。
 幕末の激動が、鯰江に生まれた一人の青年を、三条家の諸太夫(しょだいぶ=公卿の事務全般を司る職掌)丹羽家の嗣子に仕立て上げたのである。「丹羽正雄」の生い立ちから紹介する。
■青少年期の「正雄」
 天保五年(一八三四)、鯰江村・福田市右衛門に二男が生まれた。卯之助と名付けられる。のちの丹羽正雄である。
 卯之助は幼少期から向学の志がつよかった。金屋村(東近江市八日市金屋)瓢箪小路(ひょうたんこうじ=現・大凧通り)の医師・馬淵駿斎の門戸をたたき医学を学ぶ。また、儒学を蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)速水橘園から学んだ。
 当時、浦賀沖に外国船が出没していた。嘉永六年(一八五三)には、ペリー艦隊が江戸湾入り口まで侵入した。世相は騒然。「開国か攘夷(外国を打ち払う)か」の議論が各地で沸騰した。卯之助十九歳、多感な青年の心にどんな思いが去来していたか。
■丹羽出雲守正雄
 安政五年(一八五八)四月、井伊直弼が大老職についた。安政の大獄がはじまる。尊王攘夷派の公卿三条家の家臣・丹羽正庸(にわ・まさつね)が、捕縛・追放された。三条・丹羽両家で、正庸が果たしてきた役割を継ぐことのできる人物が必要となった。
 安政六年(一八五九)、卯之助は丹羽家の養子に迎えられた。正庸と卯之助が尊王攘夷活動をつうじ面識があったためという。二年後、家督をえて卯之助は丹羽正雄を名乗る。同時に、出雲守に叙任。ここに、丹羽出雲守正雄が誕生した。二十七歳であった。
 主家・三条家では実万(さねつむ)のあとを継ぎ、実美(さねとみ)が登場。急進派公卿のリーダー格となる。
 実美は正雄より三歳年下である。実美にとっての正雄は、たんなる家臣というより、頼り甲斐のある相談相手でもあったにちがいない。正雄は実美の意を受け、尊王攘夷派の大名家や志士たちとの間に立ち活躍の場を広げる。
大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

お城のデータ
所在地:東近江市鯰江町
築 城期 室町後期
区 分:平山城
改修者:鯰江貞景
城 主:鯰江貞景
廃城年:1573年
遺 構:土塁・石垣
城  域:400m×250m
戦 い :元亀の乱・・・佐々木六角氏の終焉

お城の概要
鯰江城は愛知川の断崖を活かして築かれ、川から城への上り道は細道1か所という防御に有利な地形であった。現在は県道が通り、川岸は田畑として利用されている。

お城の歴史
室町時代、鯰江氏は六角氏に属して勢力を伸ばしていたが、永禄11年(1568年)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に反抗を企てた。 
鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。
 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。
貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、天正元年(1573年)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城した。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残している。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事
 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し
、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

-小谷落城  
浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----。

経緯
 元亀4年(1573)
  ○織田信長VS六角義治
 鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。
 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。
城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。
『信長公記』
 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

 元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、
千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

・信長の千種越え https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0a5be4a9b86ed952a3e2e6acd73a4dda

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/c789cb0083a9cf5ec8fed9510d3ad326
発掘調査から
【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。
 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城や小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。
鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

豊臣秀次の側室「鯰江おこほ」。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江駿河守の子「権内」は井伊直政に仕え200石を知行。忠太夫は井元村の春日大社祭礼溝の最高位を務めている。「小倉忠太夫」屋敷絵図。中戸村集落の西部遺構は無く畑地。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江氏の末裔「小倉忠大太夫」
シリーズ「淡海の城」-鯰江城(なまずえじょう)(滋賀県東近江市愛東町鯰江)より
参考資料:『賀県中世城郭分布調査1』、『信長公記』、ウィキペディア(Wikipedia)、『近江愛智郡志』、淡海の城
、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

本日も訪問、ありがとうございました。

野路城(野路陣所) 近江国(草津・野路)

2020年04月21日 | 陣城
野路城

 遺跡ウォーカーの比定地 
お城のデータ
所在地:滋賀県草津市野路6丁目 map:https://yahoo.jp/jbaF13
現 状:神社・寺院
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:野路又三郎
陣 守:小笠原信濃守(鎌倉期)
城 主:野路又三郎、黒川宗次
目標地:新宮神社・浄泉寺
駐車場:新宮神社の駐車場
訪城日:2016.4.21
お城の概要
野路町の旧東海道沿いの草津宿の手前に位置し、野路駅の宿場であった。
野路城は、新宮神社も含む範囲位置していたと考えられる


お城の歴史
野路城は、築城年代や築城者などは定かでないが、『太平記』には、建武3年に小笠原信濃守が守陣している。
9月中旬、足利方の小笠原貞宗が甲斐・信濃両国の一族・軍勢3,000余騎を連れて、東山道から近江国へ進み、瀬田(現在の滋賀県大津市瀬田)まで差し掛かったところ、比叡山の衆徒が瀬田の唐橋を撤回した後だったので、仕方なく野路に陣を張った(『梅松論』下)。
そこに新田義貞・脇屋義助が瀬田川を渡って攻撃を仕掛け、大きな戦いとなったが、最後は貞宗が勝利した(『梅松論』下])。

『佐々木南北諸氏帳』には、「栗田郡 野路 住 野路又三郎」の名を記す。が詳細不明。

黒川宗次の居城。
築城時期は不明だが、黒川宗次は室町時代中期に同地を領していたと思われる。
1460年、当時の城主・黒川宗次が蓮如を招いて城内に道場を築いたとされる。
戦国期に城は廃城となり、道場だけが残された。
現在、城域には蓮如を招いて築いた道場を端とする浄泉寺が建つ。
周囲は寺を南端に北側に緩やかに傾斜しており、その地形に城の名残が感じられる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、 佐々木南北諸氏帳、遺跡ウォーカー、Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす!!

鏡山陣所

2020年04月18日 | 陣所
鏡山陣所
所在地:滋賀県蒲生郡竜王町鏡 鏡山山頂部 map:https://yahoo.jp/XF1DzP
区 分:陣所
現 状:森林
築城期:室町期
築城者:足利氏、佐々木導誉
目標地:道の駅かがみの里、鏡神社
駐車場:道の駅かがみの里
訪問日:2020.4.11

近江の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近江の戦い
戦争:建武の乱
年月日:和暦:延元元年/建武3年9月中旬 - 29日
西暦:1336年10月下旬 – 11月3日
場所:近江国(滋賀県)

結果:足利氏は琵琶湖を擁する近江国を征服して建武政権への補給路を遮断、建武の乱の決着
近江の戦い(おうみのたたかい)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、延元元年/建武3年9月中旬から29日(1336年10月下旬から11月3日)にかけて、近江国(現在の滋賀県)で、建武政権の新田義貞・脇屋義助らと、足利方の小笠原貞宗・佐々木導誉らとの間で行われた戦い。
建武の乱の末尾を飾る戦いで、比叡山に本拠地を遷した建武政権は、この敗戦によって近江側からの補給路を断たれたことで、同年10月10日(西暦:11月13日)に足利方へ降伏した。
9月中旬、足利方の小笠原貞宗が甲斐・信濃両国の一族・軍勢3,000余騎を連れて、東山道から近江国へ進み、瀬田(現在の滋賀県大津市瀬田)まで差し掛かったところ、比叡山の衆徒が瀬田の唐橋を撤回した後だったので、仕方なく野路に陣を張った(『梅松論』下)。そこに新田義貞・脇屋義助が瀬田川を渡って攻撃を仕掛け、大きな戦いとなったが、最後は貞宗が勝利した(『梅松論』)。
足利方の小笠原貞宗は次の攻撃を警戒して、より防衛力の高い鏡山に陣を張り直したが、それにも関わらず新田軍は果敢に攻撃を続けてきたので、これも撃退した(『梅松論』)。貞宗はさらに堅固な伊吹山の山中に立てこもり、伝令を遣わして京都の足利方に事の次第を注進した(『梅松論』下)。
折しも、京では「山徒(比叡山の僧兵)といい新田軍といい、近江国の力によって、東坂本(比叡山の東側=滋賀県側)の敵どもは力を維持しているのだから、足利軍を派兵して近江国を制圧し、東坂本への兵糧の補給路を塞ぐべきではないか」という議論の最中だった(『梅松論』下)。そこにちょうど、貞宗と義貞の戦いの報が入ったので、派兵が決定した(『梅松論』下)。
背景
前年末から続く建武の乱の後半戦は、九州で再起して本州に戻った足利尊氏・足利直義ら足利方が、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に行われた湊川の戦い、および同年6月から8月にかけて行われた第二次京都合戦と立て続けに大勝した。一方の建武政権側は、首都京都と四人の重臣「三木一草」(結城親光、名和長年、楠木正成、千種忠顕)を全て失うという壊滅的状況にあった。しかし、
後醍醐天皇と総大将新田義貞は比叡山に籠城し、山門(延暦寺)の持つ強大な財力・兵力と、交通の要衝琵琶湖を擁する近江国からの補給を背景に、再起を虎視眈々と狙っていた。
経過
9月末、佐々木導誉(高氏)を援軍の主将として足利方本軍が出陣(『梅松論』下)。 27日には今川掃部助(諱不明)も出撃し、導誉の弟佐々木経氏は兄ではなく今川氏の指揮下で戦った(『朽木古文書』)。 足利方本軍は丹波路から若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に出て、導誉はこの周辺の地形・戦略に通じていたため、滞りなく近江北部から進撃し、貞宗との合流に成功(『梅松論』下)。
足利軍ははじめ木浜役所(現在の守山市木浜町)に陣取ったが、新田軍が姿を見せて威圧したため、28日夜、近江国栗太郡大満加里(現在の守山市洲本町己爾乃神社周辺)の河原を、小佐治基氏らが夜通し警護した(『小佐治文書』)。
29日、両軍は伊岐代(現在の草津市片岡町印岐志呂神社)・馬場(現在の草津市馬場町)で開戦(『田代文書』)。これに負けて逃げる新田軍を足利軍は追撃して志那浜(現在の草津市志那町の志那浜湖岸)で散々に打ち破り、足利方の武将田代顕綱も首級一つをあげるなどの武勇を見せた(『田代文書』。

影響
足利方の目論見通り、建武政権・比叡山は大きく力を削がれ、降伏への決定打となった(『梅松論』下)。 10月2日から8日まで和泉国で、10月8日には伊予国で小規模な小競り合いがあったものの、覇権を確立した足利方には何の問題にもならなかった。
延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)、後醍醐天皇は投降して京に還り、ここに建武政権は終焉を迎えた[5]。

一方、新田義貞は後醍醐の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸方面に向かい、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)金ヶ崎城に籠城、南北朝の内乱まで引き続き抗戦した(金ヶ崎の戦い)。
伝説・創作
『太平記』巻17「江州軍の事」では、佐々木導誉が建武政権軍に偽りの投降をして、建武政権の近江における所領を獲得。
小笠原貞宗を近江から追い出した後、今度は建武政権を攻めて、手柄を独り占めするといった、導誉の婆娑羅大名ぶりを引き立てる創作が描かれる。

小倉城 近江国(愛東・小倉)

2019年08月05日 | 平城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)小倉町 map:http://yahoo.jp/VRfpif
区 分:平城
築城期:鎌倉期 承暦年代(1077~1080)
築城者:小倉景実
遺 構:空堀・堀切・土塁・現地説明板
城 域:1000m×500m
目標地:小倉集落の北、段丘上の墓地
駐車場:集落の北、段丘上の墓地駐車場
他の写真は、こちらhttps://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0d2cdde6624c8cdba55b41b402a61ab5

お城の概要
 小倉城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれており、小倉町の公民館前から河岸段丘側へ200mも入ると、
小倉城と清和源氏小倉氏発祥の地の石碑が建てられている。
 ここが小倉城の大手口と考えられており、背後の段丘上に南北30~40m、東西300mほどの範囲に遺構が残されている。
 城域の西側は、河岸段丘が落ち込む自然地形のために城域の境界は明確だが、東側は城郭遺構が延々と続き、
考え方次第では小倉城の出城とされる勝鳥城付近まで城域は広がり、城域は東西400~500mにもなる。
小倉城の石碑前には河岸段丘へ上がる車道が左右に2本つけられているが、大手口からの登城道(大手道)は石碑から右手に延びる道である。
「近江愛智郡志」の挿絵図には、小倉城の北側には【水堀】が青山城の近くまで、存在したようである。
左手の道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。この道は堀切だった地形を利用されている。
大手道を登ると、すぐに河岸段丘を断ち切る堀切(見方によっては横堀ともいえる)が出現する。この辺りが二の曲輪のようである。

 二の曲輪は河岸段丘の東西を堀切った地形の中に、土塁をめぐらせた曲輪が梯郭式に無数に繋がっている。
曲輪は個々に平虎口を設けており、屋敷地のような構えである。
 主曲輪に対する求心性が無いのは、圃場整備で改変をされたのであろう。それとも小倉城そのものが屋敷地のような構えであったのか?

 二の曲輪群の一画に、ひときわ高い土塁をめぐらせた曲輪が幾つかある。
虎口横の土塁の塁線が屈曲するなど他の曲輪とは様子が異なり、後年に陣城として改修の可能性を感じた。

 主曲輪は微高地の地形を利用して周囲に空掘を巡らせ、他の曲輪とは一線を画している。
主曲輪の西約100mほどが小倉城の西端になるが、西側は断崖地形で周囲に空掘を巡らせた30m×40mほどの曲輪がある。
後方は二重の空掘として備えも怠りない。

道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。浅い堀切ひら虎口か、散策路か

お城の歴史
小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077~1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。

 『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。
 ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
 (1)小椋實秀の裔にて菅原氏
 (2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
 (3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、
(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、
(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。

 一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。

『信長公記』
 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事
 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。
信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった--

 小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。--

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査1』、『信長公記』ウィキペディア(Wikipedia)』、『近江愛智郡志』、淡海の城
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

岩熊(やのくま)城 近江国(西浅井 岩熊)

2019年04月08日 | 陣城

その他の写真
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1320607751435130&set=pcb.1320612551434650&type=3&theater

お城のデータ

所在地:滋賀県長浜市西浅井町岩熊
区 分:陣城(砦)
現 状:山林(城山)
築城期:室町期
築城者:熊谷氏
改城期:織豊期(賤ヶ岳合戦時)
改城者:丹羽長秀
遺 構:空堀、東側に虎口、土塁が残残
標 高:382m 比高差:160m
目標地:奥琵琶湖パークウェイ(通行止)
駐車場:奥琵琶湖パークウェイ(通行止)
訪城日:2019.4.7

お城の概要 
西浅井町横波舗装林道出合より、城山登山口(240m)より、城山(4等三角点、点名:立木、アンテナ棟が建つ:標高:415.8m)山頂の南東側中腹(標高:380m)に、高さ2~3mの切岸と4m幅の空堀で囲まれています。東側に虎口があり、周辺に土塁が残ります。

または、西浅井町横波舗装林道を、城山の西側の林道を送電鉄塔まで、『火の用心』の小さな案内板から登城、約比高差100m程堀底道登り頂部平坦が主郭です

お城の歴史
鎌倉期からのこの地の地頭の熊谷氏関連の城という説と天正十一年(1573年)の賤ケ岳の戦いの時に丹羽長秀が陣城として改修したとも伝わるようです。塩津街道、塩津港、琵琶湖の航行の監視の役割を担ったか?若狭の国主の秀長は、賤ヶ岳合戦時は、琵琶湖から兵糧の補給を担った!

https://maps.gsi.go.jp/#16/35.514090/136.142943/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=std&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

他の写真
https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1320612551434650

参考資料;『滋賀県中世城郭分布調査』1、2、3、
本日の訪問ありがとうございす。

陣尾山砦(陣屋山城) 近江国(多賀町佐目)

2019年03月09日 | 
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町佐目/南後谷
現 状:山林、山頂
区 分:砦、詰め城
築城期:室町期❓
築城者:一向一揆衆か❓
遺 構:土塁、平削地(曲輪跡?)、祠
標 高:610m 比高差:430m
目標地:
駐車場:南後谷の登山口
訪城日:

お城の概要、歴史
陣尾山への登山道脇に、陣屋跡に祠が祀られいる。

応仁の乱以降、近江も一向一揆が各地で発生しました。
近江七弘聖寺の一つ、川瀬石畑の弘聖寺多賀佐目へ移転、左女道場が開かれた
ようです?


浦山則宗 上笠(正覚寺)陣所 近江国(草津)

2019年02月27日 | 陣城


お城のデータ
所在地:草津市上笠町 map:https://yahoo.jp/dqjtNY
現 状:個人宅
区 分:陣所
築城期:室町期
築城者:浦上氏
遺 構:
目標地:上笠の西教寺
駐車場:
訪城日:2018.5.26

お城の概要
正覚寺は草津市上笠地区にあったが、現在は消滅している。
西教寺の東側付近にあったとされるも周辺は住宅地となり、遺構跡はない。
お城の歴史
長享・延徳の乱(鈎の陣)における足利義尚方の陣所のひとつ。
1487年、六角高頼討伐のために浦上則宗が布陣した。
浦上則宗は「上笠の正覚寺」に陣を敷き、義尚方の先鋒として甲賀郡に攻め入る。
しかし、六角高頼が姿を眩ませたために長期戦となった。
翌年5月に甲賀衆(甲賀忍者)によって陣を焼かれており、本国の播磨では山名氏との戦闘が続いていたことから浦上則宗がいつ頃まで在陣を続けたかは不明。


参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県の城
本日の訪問ありがとうございす

賤ヶ岳合戦時 羽柴秀吉の本陣(木之本地蔵院)

2019年02月26日 | 陣城


お城のデータ
所在地:長浜市木之本町木之本165 map:https://yahoo.jp/0_iVts

現 状:寺院
区 分:陣城(秀吉本陣)
訪城日:2018.5.25

お城の歴史

1583年(天正11)4月、近江の賤ヶ岳(滋賀県長浜市、標高422m)で、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。近江、美濃、伊勢などで起こった局地戦の一つ。
近江から山路を縫い越前に出る北国街道上の木之本、東野、柳ヶ瀬辺の道路に沿った高地を含む地区での争いの決勝戦。
1582年の本能寺の変ののち、羽柴秀吉の勢力が盛んになると、秀吉と織田家の古老柴田勝家との対立がしだいに表面化した。秀吉は織田信長の次子信雄(のぶかつ)と、勝家は信長の三子信孝(のぶたか)および滝川一益と結び、両者の激突は必至の形勢となった。同年12月、秀吉は勝家の属城長浜を降し、信孝を岐阜城に囲み人質をとった。翌1583年正月、一益が伊勢に挙兵。秀吉は2月伊勢に出陣する。勝家は前将軍足利義昭と後援者の毛利輝元と連絡し、秀吉の挟撃を企てる。
そして一益に呼応し、3月10日すぎには柳ヶ瀬北方の内中尾山に出陣。伊勢から軍を返した秀吉は、3月17日賤ヶ岳一帯の高地を占領し、木之本に陣した。そして岐阜の信孝の動きを知ると、4月16日に大垣に入城。20日正午ころ勝家軍攻撃の報を受け、2時ころ転進、9時ころ木之本に着き、翌21日早朝、佐久間盛政(もりまさ)軍を追って賤ヶ岳で撃破、正午ころ勝家を攻め、これを越前に敗走させた。秀吉の小姓9人、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、桜井左吉、石河兵助らによる「七本槍」の功名はこのときのことである。秀吉軍は長駆、越前北庄(福井市)を攻め、24日勝家を自殺させた。信孝は自殺、一益は降伏、小牧・長久手の前哨戦となる。
 勝家の組下前田利家の裏切り説は?
  激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される

参考資料:Wikipedia
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神宮寺山城 近江国(大津 坂本)

2019年02月23日 | 山城

神宮寺山城(砦)
お城のデータ
所在地:大津市坂本日吉町 map:https://yahoo.jp/p2_vPs
区 分:山城(砦)
築城期:織豐期
築城者:浅井朝倉方
遺 構:土塁、平削地、切り岸 
比 高:477m 比高差:350m
目標地:八王子神社
訪城日:



お城の概要・歴史
元亀年間の志賀の陣において朝倉方が構築した城砦のひとつ。
1570年、朝倉氏による築城。

志賀の陣で朝倉・浅井勢が布陣した八王子山城より北西に450m、神宮寺山(標高447m)の山頂に築かれた山城。
頂部に50m四方の平坦地が見られ、その中央に土塁と思われる土盛りが確認できる。
特に南東側が広く平削され、その先は切岸状の急斜面となる。
斜面には2段の帯曲輪が確認でき、反対の北西方向には約100mに渡って緩やかに尾根が伸びている。
八王子山-三石岳間のトレッキングコースが城域の東側を通り、八王子山との間には土塁や堀切と思われる地形が見られる。
そのことから、八王子山城と連携した城であったことが窺える。



大津市教委は、同市坂本5丁目の山中にある「日吉神宮寺遺跡」から、石垣で囲まれた室町時代の建物跡の礎石などを確認したと発表した。この地は「日吉神宮寺旧跡」と伝承され、室町時代の古図に描かれている建物の位置関係とも一致するため、市教委は「古図に描かれた同寺の遺構である可能性が高い」としている。
 遺跡は「史跡日吉神社境内」の飛び地となっており、八王子山(381メートル)のさらに奥にある。
今回見つかった建物跡は、三方を石垣で囲まれ、広さは南北約20メートル、東西16メートル。その内側に大小の礎石が多数あり、南北12メートル、東西9メートル規模の建物があったと推定される。建物跡の遺物から、室町時代の建物跡と断定した。
 市教委の調査では、室町時代の「日吉山王社古図」(延暦寺蔵)には、織田信長による焼き打ち(1571年)以前の建物が描かれ、遺跡に該当する場所に建物があったことが分かるという。礎石の配置と古図に描かれた建物の形状から、この2つが一致する可能性が高いとみている。
 今回の調査ではまた、建物跡の約20センチ下の地層で平安期の遺構面も確認された。この下層には1メートル以上の土の堆積(たいせき)があり、さらに古い遺構が存在する可能性もあるという。(中日新聞)

参考資料:滋賀県の城(神宮寺山城)(神宮寺砦)、大津市教育委員会
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