一部のメディアで,覚せい剤密輸事件の最高裁決定が取り上げられています。
裁判員裁判で無罪の被告、逆転有罪が初の確定へ 覚醒剤密輸(日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17049_X10C13A4CC1000/
平成25年4月16日最高裁決定の全文
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20130418095233.pdf
この事件は,裁判員裁判の第一審で無罪となったにもかかわらず,高裁で逆転有罪とされ,最高裁もその判断を是認した初めての事案として取り上げられているのですが,以下に事案の概要を簡潔に示します。
<事案の概要>
被告人(メキシコ国籍)は,平成22年9月にメキシコから日本に入国し,メキシコにいる氏名不詳者と共謀の上,共謀者から被告人宛てに発送した覚せい剤約6キロを受け取ることにより,営利目的で覚せい剤を輸入しようとしましたが,税関職員によって覚せい剤が発見されたためその目的を達成することなく,被告人は警察に逮捕され,覚せい剤取締法違反及び関税法違反の罪によって起訴されました。
被告人は,公判廷において,犯罪組織関係者から脅されて日本に渡航して貨物を受け取るように指示され,貨物の中身が覚せい剤であるかもしれないと思いながら,航空券,2000米ドル等を提供されて来日し,本件貨物を受け取った旨を供述しましたが,覚せい剤輸入の故意及び共謀はないと主張していました。
<第一審判決の概要>
裁判員裁判で行われた第一審は,次のように判示して,覚せい剤輸入の故意は認められるが共謀は認められないとして,被告人に無罪を言い渡しました。
「被告人が,来日に際して犯罪組織関係者から資金提供を受けていること,来日前後に犯罪組織関係者と電子メール等で連絡を取り合い来日後に犯罪組織関係者と思われる人物らと接触していたことなどの検察官の主張に係る事実全体を総合して考えても,故意及び共謀を推認させるには足りない。ただし,被告人は,公判廷で,「メキシコにおいて,犯罪組織関係者に脅され,日本に行って貨物を受け取るように指示された際,貨物の中身は覚せい剤かもしれないと思った。」旨供述し,覚せい剤である可能性を認識していたと自白しており,この自白は自然で信用できるから,覚せい剤輸入の故意は認められる。しかしながら,被告人の供述その他の証拠の内容にも,被告人と共犯者の意思の連絡を推認させる点は見当たらず,両者が共同して覚せい剤を輸入するという意思を通じ合っていたことが常識に照らして間違いないとはいえないから,共謀についてはなお疑いを残すというほかない。」
<控訴審判決の概要>
控訴審判決では,第一審判決が覚せい剤輸入の故意を認定しながら,覚せい剤輸入についての暗黙の了解があったことを裏付ける客観的事情等を適切に考察することなく共謀の成立を否定したのは,経験則に照らし明らかに不合理であり,事実誤認があるとして第1審判決を破棄して自判し,被告人を懲役12年及び罰金600万円に処し,覚せい剤を没収しました。
そして,最高裁は控訴審の判断を是認し,被告人側の上告を棄却したわけですが,具体的事案に照らし,第一審判決の考え方を正しいとする人は,少なくとも法律の専門家の中にはほとんどいないでしょうし,一般市民でもこのような無罪の判断を是認する人は少数派ではないかと思います。
第一審判決がこのような判断をした背景について,大谷剛彦裁判官(裁判官出身)が補足意見を述べていますが,要するに第一審の裁判員たちは検察官から「共謀」という言葉を聞かされて,「共謀」が成立するには暗黙の了解ではなく謀議のような強い意思の合致が必要だと考えてしまい,そのために「共謀」があったと認定するには合理的な疑いが残ると考えたのではないか,という可能性を指摘しています。
「共謀共同正犯」については,法律実務家の間でも,明示的な意思の合致を要するかどうか,確定的な認識を要するかどうか,積極的な加担の意図を要するかどうか等について,長らく議論がされてきたところであり,刑法の中でも司法試験レベルの難しい論点です。
結論としては暗黙の了解のようなもので足りるとされているのですが,法律用語としての「共謀」と日常用語としての「共謀」とはその意味にずれが生じていることもあり,裁判長が法律の素人である裁判員に対し,共謀共同正犯の成立要件について分かりやすく説明するというのは自ずと限度があります。
共謀共同正犯の概念について裁判員が理解あるいは納得できず,「共謀」というからには謀議のような強い意思の合致が必要であると強硬に主張する裁判員が多数派になってしまった場合,裁判長としては自論を強硬に押し通す手段はありません。裁判員事件の判決は裁判官3人と裁判員6人の過半数による意見で決まり,かつその意見には裁判官及び裁判員の双方に賛成者のいることが必要とされていますが,法的にはあり得ないような意見が裁判員の多数を占めてしまった場合,これに裁判官が全員一致で抵抗すると裁判不能になってしまうため,予定された審理期間内に判決を出そうとすると,結局は裁判官も裁判員側に折れるしかありません。
裁判所の合議事件で判決書を書くのは裁判官(多くは左陪席)の仕事ですが,上記のような事情により評決がおかしな結果になり,法的にはあり得ないような判決を出さざるを得なくなった場合,左陪席の若手裁判官は裁判長の命により,その結果を正当化するような判決文を書かざるを得ないことになります。たぶん,本件の第一審判決もそのような経緯で書かれたものでしょう。
覚せい剤の密輸などは,一般市民にとってあまり馴染みのない事件であるため,今後も第一審で非常識な無罪判決が出され,それが控訴審で破棄されるような事例が多発する可能性は否定できません。もともと,裁判員裁判の対象にするには無理があったと言うべきでしょう。
なお,平成25年3月に公表された「裁判員制度に関する検討会」取りまとめ報告書(案)では,このような薬物犯罪に係る事案について,「海外の犯罪組織が関係して巧妙に行われるなど,国民が想像し難い犯罪類型である上,覚せい剤輸入の認識(故意)が争われると,背景事情等の間接事実を積み上げていくという立証の難しい事案が多いことから,市民感覚を反映させて裁判を行うという裁判員裁判の対象として適切なものだろうかとの問題提起がなされた」ものの,検討会では「裁判員制度は,一定の重大犯罪を対象とするものであって,国民になじみがあるか否かで事件を区別して,なじみがあるものを特に国民参加の対象とするという趣旨のものではない」などとして,見直しには消極的な意見が多数を占めたそうです。
この検討会は,例の井上正仁教授が座長を務めており,司法制度改革で決められた考え方に反するような結論など出ようはずもないのですが,裁判員制度に関する他の検討内容を読んでも,まるで裁判員制度の防衛が自己目的化しているような印象を受けます。以下に,検討結果の概要を述べます。
1 性犯罪に係る事案
例えば,処女を強姦して処女膜裂傷を生じさせた事案では,現行法上強姦致傷罪(無期または3年以上の懲役)が成立するものと解されており,裁判員対象事件となります。しかし,そのような事件の被害者が裁判員のいる公判廷に出頭して証言すること自体,相当の精神的苦痛が伴うものであり,また,被害者等のおかれている状況を十分理解していない裁判員からの質問が二次被害につながるという声もあります。
そのため,実務では被害者が裁判員裁判への出頭を嫌がる場合,やむなく強姦致傷罪ではなく強姦罪(3年以上の有期懲役)で格落ち起訴するという運用を余儀なくされており,性犯罪に関する事案については裁判員裁判から一律に除外するか,裁判員裁判を実施するかどうかは被害者が選択する仕組みを導入すべきとの意見もあります。
しかし,一律除外については「性犯罪以外にも親族間の重大犯罪等プライバシー保護の必要性が高い事案があり得るので,性犯罪のみを除外する根拠付けが難しい」などの消極意見が多数を占め,被害者選択制についても「裁判員制度は,その基本構造として,一定の範囲の重大事件について裁判員裁判が実施されることとされたものであり,訴訟関係人の希望によって裁判員裁判が実施されるか否かが決せられる仕組みとはなっていないことから,これを被害者の選択にかからしめることは,裁判員制度の趣旨に反する」などの消極的意見が多数を占めたためいずれも採用されず,ただ「選任手続において被害者等の心情に対する配慮を義務付ける規定を設ける」対応が採られるだけの結果に終わりました。
2 薬物犯罪に係る事案
(前述した内容と重複するため省略)
3 被告人の請求する否認事案
現行法の下では,①法定刑に死刑または無期懲役・無期禁錮が含まれる罪,②故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪が裁判員対象事件とされていますが,それ以外の罪についても,否認事件で被告人が裁判員による裁判を請求した場合には対象事件に含めるべきではないか,という意見があります。
しかし,このような意見に対しては,「裁判員制度は,その基本構造において,裁判員裁判を受けることが被告人の権利とされているものではなく,裁判員裁判が実施されるかどうかを被告人の請求にかからしめる考え方は,それとは整合しない」などといった否定的な意見が多く,また対象事件の増加により裁判所や一般国民の負担が過重になる,経済事犯等は裁判員が担当するのに相応しいとは考え難いといった意見もあり,結局対象事件の拡大は見送られました。
なお,この論点について若干敷衍すると,要するに消極論者の意見は,裁判員制度に一部でも被告人の選択権を認めることにすると,それ以外の事件についても被告人が希望しない場合は裁判員裁判を実施しなくてよいという発想になりかねず,被告人に選択権を認めると裁判員裁判を選択したら量刑が重くなり損だということで,裁判員裁判が利用されなくなり結局制度崩壊に至るのではないかという点を心配しているのです。戦前の陪審員制度は被告人に選択権を認めた結果,年に数件程度しか利用されなくなり短期間で施行停止に追い込まれたほか,韓国の国民参与裁判制度も被告人に選択権を認めた結果,年に数十件程度しか利用されない制度になっているようです。
4 死刑求刑事案
死刑求刑事案については,裁判員の負担が大きいとの声があることから,負担軽減の観点から,これを対象とし続けてよいか議論が必要ではないかとの意見が述べられたものの,「死刑求刑事案は,国民の関心が高い重大な刑事事件の最たるものとして,裁判員裁判が実施される意義が大きい」「被害者等は,心理的負担を感じながら刑事裁判に関わっており,裁判員は,その負担が大きいとしても,社会の一員としてこれを避けるべきではない」などという意見が大勢を占め,結局見直しは見送られました。
5 薬害,公害,食品事故等に係る事案
薬害,公害,食品事故等に係る事案は,国民生活に密着した問題であることから,これを裁判員裁判の対象に含める可能性を考えられないかとの意見が述べられたものの,「この種の事案は高度の専門性が求められ,膨大な資料を取り扱うことになるので,裁判員の負担が大変大きい」などの消極意見が多く,結局見直しは見送られました。
しかし,覚せい剤輸入の事案も専門性が高いことに変わりはなく,なぜ覚せい剤輸入の事案については裁判員制度を継続すべきである一方,薬害や公害などの事件について裁判員制度を導入すべきでないのか,合理的な説明がなされているとは言えません。
6 審理が極めて長期間に及ぶ事案
公判審理が極めて長期間に及ぶ特殊な事案の裁判員裁判では,裁判員の負担が過大なものとなることから,裁判員の選任が困難となり,ひいては,裁判員裁判の実施自体が困難となることが想定されるため,そのような場合に,例外的に,裁判官のみで裁判ができるような仕組みを設けておく必要があるのではないかという問題提起がなされました。
この点については,現在行われている程度の審理(さいたま地裁の100日,鳥取地裁の75日)を除外の対象にするのは相当でないが,審理に年単位の期間を要するような極限的な事態に備えた例外を設けておく必要があるといった意見が多数を占めたようで,このような除外規定が新たに設けられることになりそうです。
7 甚大な災害発生時などの対応について
東日本大震災の発生等を受け,仙台地裁,福島地裁,同地裁郡山支部及び盛岡地裁では,震災等の影響が大きく,呼出状の送達・返送や,選任手続への出席が困難であると認められる地域に住所を有する候補者に対しては,呼出状を送付しないという措置がとられましたが,このような措置を認める明確な法的根拠が存在しないため,新たな辞退事由に関する規定や呼出状を送付しない取扱いに関する規定を整備すべきではないかという意見が出されました。
この点については異論もありましたが,甚大な災害が起きたことにより日常生活さえままならない候補者に呼出状が送達されると,制度自体の合理性が疑われたり,不信感が芽生えかねないので,そのような場合の手当てをあらかじめ考えておく必要があるなどいった意見が大勢を占めたようで,このような規定が新たに設けられることになりそうです。
既に記事の内容が長文となっているので,さらに個人的見解を長々と述べるのは止めますが,一体何のためにやっているか分からない裁判員制度のために,法曹関係者や事件当事者はいつまで迷惑を蒙り続けなければならないのでしょうか。
裁判員裁判で無罪の被告、逆転有罪が初の確定へ 覚醒剤密輸(日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17049_X10C13A4CC1000/
平成25年4月16日最高裁決定の全文
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20130418095233.pdf
この事件は,裁判員裁判の第一審で無罪となったにもかかわらず,高裁で逆転有罪とされ,最高裁もその判断を是認した初めての事案として取り上げられているのですが,以下に事案の概要を簡潔に示します。
<事案の概要>
被告人(メキシコ国籍)は,平成22年9月にメキシコから日本に入国し,メキシコにいる氏名不詳者と共謀の上,共謀者から被告人宛てに発送した覚せい剤約6キロを受け取ることにより,営利目的で覚せい剤を輸入しようとしましたが,税関職員によって覚せい剤が発見されたためその目的を達成することなく,被告人は警察に逮捕され,覚せい剤取締法違反及び関税法違反の罪によって起訴されました。
被告人は,公判廷において,犯罪組織関係者から脅されて日本に渡航して貨物を受け取るように指示され,貨物の中身が覚せい剤であるかもしれないと思いながら,航空券,2000米ドル等を提供されて来日し,本件貨物を受け取った旨を供述しましたが,覚せい剤輸入の故意及び共謀はないと主張していました。
<第一審判決の概要>
裁判員裁判で行われた第一審は,次のように判示して,覚せい剤輸入の故意は認められるが共謀は認められないとして,被告人に無罪を言い渡しました。
「被告人が,来日に際して犯罪組織関係者から資金提供を受けていること,来日前後に犯罪組織関係者と電子メール等で連絡を取り合い来日後に犯罪組織関係者と思われる人物らと接触していたことなどの検察官の主張に係る事実全体を総合して考えても,故意及び共謀を推認させるには足りない。ただし,被告人は,公判廷で,「メキシコにおいて,犯罪組織関係者に脅され,日本に行って貨物を受け取るように指示された際,貨物の中身は覚せい剤かもしれないと思った。」旨供述し,覚せい剤である可能性を認識していたと自白しており,この自白は自然で信用できるから,覚せい剤輸入の故意は認められる。しかしながら,被告人の供述その他の証拠の内容にも,被告人と共犯者の意思の連絡を推認させる点は見当たらず,両者が共同して覚せい剤を輸入するという意思を通じ合っていたことが常識に照らして間違いないとはいえないから,共謀についてはなお疑いを残すというほかない。」
<控訴審判決の概要>
控訴審判決では,第一審判決が覚せい剤輸入の故意を認定しながら,覚せい剤輸入についての暗黙の了解があったことを裏付ける客観的事情等を適切に考察することなく共謀の成立を否定したのは,経験則に照らし明らかに不合理であり,事実誤認があるとして第1審判決を破棄して自判し,被告人を懲役12年及び罰金600万円に処し,覚せい剤を没収しました。
そして,最高裁は控訴審の判断を是認し,被告人側の上告を棄却したわけですが,具体的事案に照らし,第一審判決の考え方を正しいとする人は,少なくとも法律の専門家の中にはほとんどいないでしょうし,一般市民でもこのような無罪の判断を是認する人は少数派ではないかと思います。
第一審判決がこのような判断をした背景について,大谷剛彦裁判官(裁判官出身)が補足意見を述べていますが,要するに第一審の裁判員たちは検察官から「共謀」という言葉を聞かされて,「共謀」が成立するには暗黙の了解ではなく謀議のような強い意思の合致が必要だと考えてしまい,そのために「共謀」があったと認定するには合理的な疑いが残ると考えたのではないか,という可能性を指摘しています。
「共謀共同正犯」については,法律実務家の間でも,明示的な意思の合致を要するかどうか,確定的な認識を要するかどうか,積極的な加担の意図を要するかどうか等について,長らく議論がされてきたところであり,刑法の中でも司法試験レベルの難しい論点です。
結論としては暗黙の了解のようなもので足りるとされているのですが,法律用語としての「共謀」と日常用語としての「共謀」とはその意味にずれが生じていることもあり,裁判長が法律の素人である裁判員に対し,共謀共同正犯の成立要件について分かりやすく説明するというのは自ずと限度があります。
共謀共同正犯の概念について裁判員が理解あるいは納得できず,「共謀」というからには謀議のような強い意思の合致が必要であると強硬に主張する裁判員が多数派になってしまった場合,裁判長としては自論を強硬に押し通す手段はありません。裁判員事件の判決は裁判官3人と裁判員6人の過半数による意見で決まり,かつその意見には裁判官及び裁判員の双方に賛成者のいることが必要とされていますが,法的にはあり得ないような意見が裁判員の多数を占めてしまった場合,これに裁判官が全員一致で抵抗すると裁判不能になってしまうため,予定された審理期間内に判決を出そうとすると,結局は裁判官も裁判員側に折れるしかありません。
裁判所の合議事件で判決書を書くのは裁判官(多くは左陪席)の仕事ですが,上記のような事情により評決がおかしな結果になり,法的にはあり得ないような判決を出さざるを得なくなった場合,左陪席の若手裁判官は裁判長の命により,その結果を正当化するような判決文を書かざるを得ないことになります。たぶん,本件の第一審判決もそのような経緯で書かれたものでしょう。
覚せい剤の密輸などは,一般市民にとってあまり馴染みのない事件であるため,今後も第一審で非常識な無罪判決が出され,それが控訴審で破棄されるような事例が多発する可能性は否定できません。もともと,裁判員裁判の対象にするには無理があったと言うべきでしょう。
なお,平成25年3月に公表された「裁判員制度に関する検討会」取りまとめ報告書(案)では,このような薬物犯罪に係る事案について,「海外の犯罪組織が関係して巧妙に行われるなど,国民が想像し難い犯罪類型である上,覚せい剤輸入の認識(故意)が争われると,背景事情等の間接事実を積み上げていくという立証の難しい事案が多いことから,市民感覚を反映させて裁判を行うという裁判員裁判の対象として適切なものだろうかとの問題提起がなされた」ものの,検討会では「裁判員制度は,一定の重大犯罪を対象とするものであって,国民になじみがあるか否かで事件を区別して,なじみがあるものを特に国民参加の対象とするという趣旨のものではない」などとして,見直しには消極的な意見が多数を占めたそうです。
この検討会は,例の井上正仁教授が座長を務めており,司法制度改革で決められた考え方に反するような結論など出ようはずもないのですが,裁判員制度に関する他の検討内容を読んでも,まるで裁判員制度の防衛が自己目的化しているような印象を受けます。以下に,検討結果の概要を述べます。
1 性犯罪に係る事案
例えば,処女を強姦して処女膜裂傷を生じさせた事案では,現行法上強姦致傷罪(無期または3年以上の懲役)が成立するものと解されており,裁判員対象事件となります。しかし,そのような事件の被害者が裁判員のいる公判廷に出頭して証言すること自体,相当の精神的苦痛が伴うものであり,また,被害者等のおかれている状況を十分理解していない裁判員からの質問が二次被害につながるという声もあります。
そのため,実務では被害者が裁判員裁判への出頭を嫌がる場合,やむなく強姦致傷罪ではなく強姦罪(3年以上の有期懲役)で格落ち起訴するという運用を余儀なくされており,性犯罪に関する事案については裁判員裁判から一律に除外するか,裁判員裁判を実施するかどうかは被害者が選択する仕組みを導入すべきとの意見もあります。
しかし,一律除外については「性犯罪以外にも親族間の重大犯罪等プライバシー保護の必要性が高い事案があり得るので,性犯罪のみを除外する根拠付けが難しい」などの消極意見が多数を占め,被害者選択制についても「裁判員制度は,その基本構造として,一定の範囲の重大事件について裁判員裁判が実施されることとされたものであり,訴訟関係人の希望によって裁判員裁判が実施されるか否かが決せられる仕組みとはなっていないことから,これを被害者の選択にかからしめることは,裁判員制度の趣旨に反する」などの消極的意見が多数を占めたためいずれも採用されず,ただ「選任手続において被害者等の心情に対する配慮を義務付ける規定を設ける」対応が採られるだけの結果に終わりました。
2 薬物犯罪に係る事案
(前述した内容と重複するため省略)
3 被告人の請求する否認事案
現行法の下では,①法定刑に死刑または無期懲役・無期禁錮が含まれる罪,②故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪が裁判員対象事件とされていますが,それ以外の罪についても,否認事件で被告人が裁判員による裁判を請求した場合には対象事件に含めるべきではないか,という意見があります。
しかし,このような意見に対しては,「裁判員制度は,その基本構造において,裁判員裁判を受けることが被告人の権利とされているものではなく,裁判員裁判が実施されるかどうかを被告人の請求にかからしめる考え方は,それとは整合しない」などといった否定的な意見が多く,また対象事件の増加により裁判所や一般国民の負担が過重になる,経済事犯等は裁判員が担当するのに相応しいとは考え難いといった意見もあり,結局対象事件の拡大は見送られました。
なお,この論点について若干敷衍すると,要するに消極論者の意見は,裁判員制度に一部でも被告人の選択権を認めることにすると,それ以外の事件についても被告人が希望しない場合は裁判員裁判を実施しなくてよいという発想になりかねず,被告人に選択権を認めると裁判員裁判を選択したら量刑が重くなり損だということで,裁判員裁判が利用されなくなり結局制度崩壊に至るのではないかという点を心配しているのです。戦前の陪審員制度は被告人に選択権を認めた結果,年に数件程度しか利用されなくなり短期間で施行停止に追い込まれたほか,韓国の国民参与裁判制度も被告人に選択権を認めた結果,年に数十件程度しか利用されない制度になっているようです。
4 死刑求刑事案
死刑求刑事案については,裁判員の負担が大きいとの声があることから,負担軽減の観点から,これを対象とし続けてよいか議論が必要ではないかとの意見が述べられたものの,「死刑求刑事案は,国民の関心が高い重大な刑事事件の最たるものとして,裁判員裁判が実施される意義が大きい」「被害者等は,心理的負担を感じながら刑事裁判に関わっており,裁判員は,その負担が大きいとしても,社会の一員としてこれを避けるべきではない」などという意見が大勢を占め,結局見直しは見送られました。
5 薬害,公害,食品事故等に係る事案
薬害,公害,食品事故等に係る事案は,国民生活に密着した問題であることから,これを裁判員裁判の対象に含める可能性を考えられないかとの意見が述べられたものの,「この種の事案は高度の専門性が求められ,膨大な資料を取り扱うことになるので,裁判員の負担が大変大きい」などの消極意見が多く,結局見直しは見送られました。
しかし,覚せい剤輸入の事案も専門性が高いことに変わりはなく,なぜ覚せい剤輸入の事案については裁判員制度を継続すべきである一方,薬害や公害などの事件について裁判員制度を導入すべきでないのか,合理的な説明がなされているとは言えません。
6 審理が極めて長期間に及ぶ事案
公判審理が極めて長期間に及ぶ特殊な事案の裁判員裁判では,裁判員の負担が過大なものとなることから,裁判員の選任が困難となり,ひいては,裁判員裁判の実施自体が困難となることが想定されるため,そのような場合に,例外的に,裁判官のみで裁判ができるような仕組みを設けておく必要があるのではないかという問題提起がなされました。
この点については,現在行われている程度の審理(さいたま地裁の100日,鳥取地裁の75日)を除外の対象にするのは相当でないが,審理に年単位の期間を要するような極限的な事態に備えた例外を設けておく必要があるといった意見が多数を占めたようで,このような除外規定が新たに設けられることになりそうです。
7 甚大な災害発生時などの対応について
東日本大震災の発生等を受け,仙台地裁,福島地裁,同地裁郡山支部及び盛岡地裁では,震災等の影響が大きく,呼出状の送達・返送や,選任手続への出席が困難であると認められる地域に住所を有する候補者に対しては,呼出状を送付しないという措置がとられましたが,このような措置を認める明確な法的根拠が存在しないため,新たな辞退事由に関する規定や呼出状を送付しない取扱いに関する規定を整備すべきではないかという意見が出されました。
この点については異論もありましたが,甚大な災害が起きたことにより日常生活さえままならない候補者に呼出状が送達されると,制度自体の合理性が疑われたり,不信感が芽生えかねないので,そのような場合の手当てをあらかじめ考えておく必要があるなどいった意見が大勢を占めたようで,このような規定が新たに設けられることになりそうです。
既に記事の内容が長文となっているので,さらに個人的見解を長々と述べるのは止めますが,一体何のためにやっているか分からない裁判員制度のために,法曹関係者や事件当事者はいつまで迷惑を蒙り続けなければならないのでしょうか。