木・うんちく

木材と人間の関わりを考えて思うままに・・・

191. 父から子供達に伝える日本の近代史その4:戦争とその破綻

2018-11-07 10:15:28 | ウッドデッキ
■中国・アメリカとの戦争
第一次世界大戦後、世界大恐慌が起き、主要国はブロック経済体制をとり、植民地を持たない日本とドイツはより大きな不況に苦しむことになる。これを解決する方法として日本がとったのは満州進出で、清朝の最後の皇帝を迎えて傀儡政権を作った。そのおかげで満州は豊かな国になり、結果的には日本の統治は欧米先進国も認める善政であったが、問題は、これらが日本の軍部の独走で始まり、それを政府が止めることができないと言うことだった。これは単に陸軍の横暴と言うだけでなく、日本の政府や軍と言う官僚組織の弊害が強く出てしまい、この影響は、その後のアメリカとの太平洋戦争につながってしまうことになった。
日本と中国が戦争状態になったのは盧溝橋と言う場所で撃たれた一発の弾丸が引金だが
(国民党軍からのものか共産軍の挑発かは今となっては分からないが)、反撃した陸軍の動きを日本政府は統制することができず、ずるずると中国との戦争に入り込んでしまった。
さらに、日本はこの中国との戦争でいくつかの問題を有していた。
一つはプロパガンダでは全く中国に負けていたこと。そのために、外国の支持が中国に廻ったことだ。当時の日本は、日露戦争当時の危機感のあった時の外交とは問題にならないぐらい劣ってしまっていて、外国に対する宣伝や情報収集と言うことを重要視しなくなっていた。
もう一つは、日本の政府が場当たり的な対応をとったことだ。陸軍の横暴に引っ張られ、何もかも追認状態になり、さらに国際的な観点がなく、問題先送りに終始してしまったことだ。維新の元勲はすでにこの世を去り、当時の政府や軍部の中に真のリーダーがいなかったことだ。最後には終戦すら天皇の自分の身を挺したお言葉がなければ、これも実現できなかったぐらいだ

アメリカとの開戦については、石油の禁輸による締め付けの上に、中国からの撤退を条件に突き付けられてしまって、当時の陸軍は自分たちのメンツから中国から引き上げる判断ができなり、追い詰められて、結果的に戦争をせざるを得ない状況になってしまった。
ただ、第三者的に見ると、この日本の置かれた状況は、同情すべきところはある。だから戦後マッカーサーがアメリカ上院で、今回の戦争は「日本の自衛のために戦争だった。」と擁護した。
しかしそうなるような外交をしてしまったこと。メンツのために後戻りできない体質。負けたと言うこと認めることができない体質。これらについて日本の政府と指導的立場にあった日本の軍部の責任は非常に大きいと言える。
真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争は、日本のほとんどの都市の崩壊で幕を閉じた。
原爆投下も含めて、これは市民を対象とした虐殺に他ならないが、日本はこのことに対して、アメリカや連合国を非難するようなことはしなかった。これは戦争だった。戦後、広島や長崎の原爆資料館を訪れたアメリカ人は、彼らの行った非人間的行為についての非難展示があることを予想していたが、実際には事実をありのまま伝え、このような惨事を日本が最後になることを願う内容に驚き、ケネディ前駐日大使もオバマ前大統領に広島に行くように強く勧めたのはこの日本人の戦争に対する考え方に共感したからだ。ただ、この経験が日本人にとって、戦後の日本に良くも悪くも大きな影響を与えることになった。
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190. 父から子供達に伝える日本の近代史その3:日本の対外進出の時代と特徴

2018-11-07 10:14:51 | ウッドデッキ
■帝国主義の世界と日本の置かれた立場。
日本が明治維新をなし遂げた19世紀の中頃は欧米各国は産業革命を経て、いかに自国の有利になるように貿易を展開するか、いかに未発展の国を植民地化して自国に有利なものにするかと言う弱肉強食の時代だった。その中で日本は、何とか独立を保つことができた。
しかし当時の日本の周りではロシアの南下の脅威があり、アジアはヨーロッパ各国の好き放題の状態だった。日本としてはなんとしても隣国の朝鮮に、まともな政治体制になってもらいたいと言う危機感があった。この感覚は今でも同じで、韓国が自由主義陣営で健全な国家運営がされていると日本の安全は保障はされたことになる。
その朝鮮が近代化されない大きな理由が、となりの中国(清)の属国支配を受け、中国自体が近代化しようと言う意識かなかったことだろう。19世紀後半には、朝鮮の近代化と東アジアの安全のためには、朝鮮が中国から独立することが必要であったが、それを最も意識していたのが朝鮮人ではなく、日本人だったと言うのが現実だ。

■朝鮮と台湾の併合(欧米の植民地との違い)
日本は中国(清)と戦争をし、それに勝ち、朝鮮の独立を中国に認めさせた。さらに当時は未開の島であった台湾を割譲した。その後10数年して朝鮮も併合することになるが、日本の併合はヨーロッパ列強の植民地化とは全く異なり、その国から産物を搾り取って、自国の利益にしようと言うのではなく、その地を改善して、日本と同様の豊かな国にしようと言う意図があった。
韓国は日本による統治を植民地化されたと言っているが、明確なことは日本の統治によって、食料が増産され、人口が増え、初等教育だけなく高等教育まで行い、朝鮮・台湾の教育レベルのアップに大きな貢献をしたことだ。アフリカや東南アジアに多くの植民地をもっていたヨーロッパの国で植民地に帝国大学を作るところなどどこもない。これらの事実に対して、韓国では「国を豊かにしてから搾り取る目的で作ったのだろう」と言う反論をしているが、国王やその臣下は、国民を搾取するのが当たり前と言う感覚の国と、「民のかまどは賑わいにけり。」と喜ぶ統治者のいる国との差はとても大きい。

■義和団事件とロシアとの戦争
「北京の55日」と言う映画が昔あったが、欧米各国と日本が義和団事件と言う中国の動乱で、北京の大使館で55日間の籠城戦をした時の話だ、この時に日本人兵士とそれを率いる日本人指揮官の評価が高く、解放後、欧米人から多くの賛辞が寄せられた。特に当時の籠城戦の全体的な指導者のイギリス公使は、この日本人の規律と優秀性について本国に報告したことから、後の日露戦争の時にイギリスが日英同盟を結ぶ土壌になったともいえる。
この義和団事件の後、ロシアの軍隊が満州に居座ってしまった。当時、横暴な振る舞いをするロシアに対して戦争を唱えていたのは国民とそれを煽るマスコミであったが、
日本としては大国ロシアとの戦争を何とか回避しようとした。しかし、最終的に自国の安全と権益のために戦かわざるを得なくなったと言うのが実情だ。
日露戦争がはじまり、最後に、ロシアのバルチック艦隊を撃滅したことで、日本が勝ったと言うことになっているが、実際のところは、もうこれ以上日本は戦争ができないぐらいに国がくたびれ果てていた。明治維新以来、ここまで努力して、かろうじて、この戦争に勝ったおかげで、ようやく日本は対外的な不平等条約を欧米に撤廃してもらうことができた。当たり前の普通の国だと認めてもらうことが、当時、いかに、大変だったかと言うことが分かるだろう。
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189. 父から子供達に伝える日本の近代史その2:日本の近代史の特徴

2018-11-07 10:14:10 | ウッドデッキ
日本の近代をどこからとらえるかと言うと、鎖国をして封建社会であった江戸時代から、明治維新を経て明治時代になった時からが、日本の近代の始まりととらえるのが妥当なところだろう。ただ、勘違いをしてはいけないのは、ヨーロッパのように暗黒の中世から、ルネッサンスを経て、市民革命を経験して近代になったと言うのでなく、江戸時代の間に、多くの近代化システムの基礎が築かれていたことや、この時代の市民の自治意識が高く、市民革命をする必要がなかったと言うことだ。先の日本の歴史の特徴でも説明したように、天皇制も武士道も日本人の民度の高いのもすべて、この江戸時代には存在していた。この民族の基礎を元に日本の近代化が一斉に進んだと言うことだ。
そのため日本の近代史の特徴として言えることは、次の3つだ。

■近代が始まる前にその下地が完成していたこと
江戸時代の日本と言うと、鉄道も馬車も文明と呼べるものは全くなく、諸外国の基準で言うと未開の国と言えるかもしれない。しかし、この時代に民間教育は行き届き、識字率は諸外国よりも高く、為替や先物取引と言ったような信用を通じて商売が成り立つようなシステムが構築されていて、いつでも近代に脱皮できる準備ができていたことだ。だから明治維新で体制を根本的に変換し、外国からの技術をすぐに受け入れることでできた。

■封建時代から近代への転換に大きな混乱がなかったこと
封建時代から近代へ転換すると言うことは大変なことで、国の制度の身分も何もかも根本的に変わる。日本の場合、この転換期を明治維新と言うが、これを英語に直すと「革命」と言う言葉になってしまう。しかし、これが他の国には見られない平和的な革命で、必要最小限の紛争しか起きなかった。通常であれば、まず内戦の悲惨な殺し合いがあり、国土は荒れて、それから立ち直るのには多大の努力が必要になるが、そうならなかったのは天皇制と言うシステムのおかげで、新旧二つの勢力もどちらも天皇の臣下であると言う意識があったことが、内戦を最小限にした理由だろう。確かに戊辰戦争と言う、一部の内戦はあったものの、大きな混乱にはならなかった。また、「敵は親族に至るまで全員を抹殺する。」と言う大陸的な考えもなかったし、「自分と自分の一族の繁栄が何よりも優先する。」と言う考え方は日本にはなかったことが幸いした。
そのため、この大転換の時代に国の混乱が最小限ですんだと言うことだ。

■近代になってわずかの期間に欧米に追いついたこと。
日本が明治維新を迎えたころは、帝国主義全盛の時代で、アジアの中で日本だけが、短期間の間に欧米先進国に追い付いたと言うことは信じ難い奇跡だった。
このようなことができたのは、当時の指導者達に危機感が共通してあったことや、近代化を行う上での宗教や政治のゆがみがなかったことが大きいが、根本的には日本人の民度の高さによるところが大きい。
現代であれば、開発途上国は世界から救いの手が差し伸べられ、経済援助を受けることができる。しかし当時は、少しでもすきがあれば国は植民地にされ、貿易についても不公平な条約を押し付けられてしまう時代だった。実際、江戸時代に締結された貿易協定や対外条約は不平等極まりなかったが、日本は、粘り強く交渉をして、その不平等条約を改訂をするのに40年以上の歳月を費やした。
明治の初めに日本が欧米から招請したお雇い外国人から徹底的に学び、また海外に留学した日本人が、留学先で、言葉の壁や、民族差別を、ひたすら誠意と勉強熱心さで、克服して、それぞれが日本のために尽くしたことが、日本が欧米先進国に追いつけた理由だ。
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188. 父から子供達に伝える日本の近代史その1:日本の歴史の特長

2018-11-07 10:13:11 | ウッドデッキ
その国の歴史と言うのは外的な要因もあるにせよ、結局はその国民の考え方、つまり国民性が大きく影響する。反対にその国民性は長い歴史の結果、作り上げられてきたものでもある。
日本人が普通だと思っている自分達の国民性が、外国人のそれとは大きく異なることに気づいたのは東北大震災の影響が大きい。あの時、究極の惨禍の中で日本人一人ひとりが当たり前のこととして行動したことが、外国から見ると日本は特別な文化と国民性持っていると驚いたことに、日本人自身が驚いたと言うことだ。
だから日本の近代史を説明する前に、その国民性の元になった日本の歴史の特徴を説明しておきたい。
外国の歴史と日本の歴史を比べた時に大きく異なるのは次の3つのことがある。

■日本の歴史の特徴その1:王朝がとんでもなく長く続いていること
日本人にとっては当たり前のことだが、君主である天皇が2000年以上も血筋が途絶えることなく続いているような国は世界中どこにもない。この理由は、天皇は君主であっても、権力者にはならずに、日本の安寧を祈ることに専念するようになったからだ。そのため、天皇の地位は、いつの時代でも敬意の対象であった。これが日本の歴史の一番際立った特徴だろう。

■日本の歴史の特徴その2:武士道があること。
封建制度のあったヨーロッパでも騎士がいて、同じようなものと思うかもしれない。しかし、日本の武士道は外国とは大きく異なったものであると言うことだ。
つまり、日本の場合、支配階級の武士と被支配階級の町人の間には役割による身分の上下はあっても、支配者が被支配者を搾取すると言う、他の国ではみられたことが日本では起こらなかったと言うことだ。富よりも名誉と義務を重んじるこの武士道の考え方は今の日本人の国民性に大きく影響していると言える。

■日本の歴史の特徴その3:国民の民度が高いこと
封建時代の江戸時代でさえ識字率が諸外国よりも高く、人に迷惑をかけないと言う文化があり、人をだまさず、信用や名誉を重んじると言う国民性は、この時代には確立されていた。身分や貧富にかかわらず、自分を律して、全体のことを考えることができる民度の高さは、日本が近代化するのに非常に大きな力となった。
最近は日本も外国からの観光客がたくさん来るようになったが、来日する中国人が、反日教育のために、日本に対してネガティブな印象を持っていたのが、日本に来ると、考えが180度変わる一番大きい理由が、日本人の民度が高いと言うことだ。

まず日本の近代史を知る上で、これらの日本の歴史の特徴が土台になっていることを認識しておく必要がある。
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