美意識を磨く 文田聖二の『アート思考』

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デッサン力

2017年05月30日 15時51分22秒 | 日記
デッサン力があるということは、絵の上手い下手の違いではなく情報を収集する力や伝達する能力、
ものごとの構造を見極められることや構想している計画や企画を具体的に展開していく能力。
頭の中のイメージ(ビジョン)を絵に描き出す感覚を磨くことが、日常生活や一般的な仕事で見直されてきている。

絵(デッサン)を描くときにも「よくみる」ことが基本ですが、これは「必要な情報を見極め、
的確に捉える。物事を理解する」ということです。
何かを理解するときに五感を使って知覚することは重要な役割をはたします。

絵は五感を使って描く。
対象をただ写し描くことが写実ではない。 光の入り方、その時間帯、季節感など
対象物を取り巻く(多角的)世界をどれだけ広く感じさせることができているかが重要。
その視野の広さで伝わるリアリティが違ってくる。

普段、目にしている物事を絵に描くつもりで観てみるといろんなことに気づきだす。
絵は、思い込みや見たつもり、知っているつもりでは描けない。
物事は「見る」のではなく「観る」ことが重要で、
書物と様に「読みとく」「理解」する感覚が大切。

楽しむことは、本質にたどり着く。
本質を意識したり、気づいたりするだけで、脳が喜び生き返る。
絵を描くとき、ものやもの事を思い込みや観念でとらえている人と
本質でとらえる訓練をしている人とでは
描く線に違いがでる。

絵に描くと心が折れにくくなる。
サムネイルやアイデアスケッチは漠然とした「夢」を具現化するというより、
内なる欲求を吐き出す作業といえる。
目的やアイデアが視覚化されると積極的に行動できる。

「デッサン」は、モチーフを単に写し取るだけの表面的な描写の作業ではない。
「デザイン」という言葉の語源と同じラテン語のdesignare(デシネーレ)。
計画を記号に示す、図案、設計図、意匠の本質を捉える意味がある。

絵で必要な画力と観察眼とは
表面的な描写力だけではなく
観ているものの構造や光と影など
周りからどのような影響が及ぼされているのかを読み解き、理解する力と
その本質を的確な構図や技法で効果的に伝達する力である。
この対応力は
絵を描くことにとどまらず、様々な仕事にも必要とされる。

画家、マンガ家、小説家、料理人や冒険家などあらゆるジャンルにおいて、
アマチュアとプロと呼ばれる人の違いは
技巧より、よく観る力、取材能力にその差がでるのかもしれない。

線一本描くにしても集中力とイメージが大切。
クロッキー力は、書道や華道、茶道,料理、スポーツ、音楽など様々なことに繋がっていく。
上達させるには描く枚数も大切ですが、 やはり何を意識して描くかで随分と成長の仕方に違いがでてくる。

絵は思い込みを外し、よく観て理解するだけで描ける。
描けないと思い込んでいるのは的確な情報を捉えていないだけで
才能やセンスがないわけでも下手なわけでもない。
絵を描くことへの苦手意識、思い込みを外すだけで一気に上達してしまう。

絵を描くことは過酷な修行ではない。楽しみ(感覚的知性)を磨くこと。
基礎から順番に長い時間をかけて学んでいくのではなく、自分の目的に合わせて必要なアプリを集めていく感覚で
アートのファンダメンタル(基本要素)を組み合わせていくとよい。

分かりやすく、普通に見えることほど凄い。
複雑で、分かりにくく感じるものは
芯、軸、骨格、システム、本質を見抜いて、シンプルに捉えればいい。

画力とは決して「写実力・描写力」の範囲に止まるものではなく、
むしろ「リサーチ力・構築力・伝達力」といえる。
この能力は、デザイン・アート系の特殊な職業だけではなく、
日常生活や一般的なすべての仕事にも必要で大切なスキルといえる。

デッサンで必要な観察眼とは表面的な描写力だけではなく、観ているものの構造や
光など周りからどのような影響が及ぼされているのかを読み解き、理解する力である。
このリサーチ力、伝達力は絵を描くことにとどまらず、様々な仕事にも必要とされる。

本質を見抜くための必要最低限の基本技能(絵画技法だけではなく)は、
エッジ・スペース・相互関係・光と影・形態(ゲシュタルト)の5つ。
だから絵を描くことは世の中の物事を読み解く能力を磨くことに繋がっていく。

絵を描くことは、脳を活性化させるための手先の運動と考えた方がいい。
体を動かした方が喋りやすかったり、考えがまとまったりする。
絵を描くことで手先と脳とが連動して活発に機能していき、
新鮮な発想が浮かぶ脳のストレッチになる。

絵画で、エチュード【 étude】が「習作」と訳されていることで練習することのように認識されているが、
本来は「研究し探る」こと。
ダ・ヴィンチのエチュードへのこだわりを観るとその違いが分かる。
西洋文化がなだれ込んだ明治時代の間違った認識と和訳のまま教育されていることが多々ある。

絵を描くことは、
絵のプロになるためだけに必要なことではない。
絵の描き方を習うということは、
じつはものの観方、多角的な考え方、伝え方を学ぶということであり、
それはたんに目で見るよりもずっと多くのことを意味している。
よく観て繰り返し絵を描くことで
本当のことに気づいていく。

絵を描くこともそうだが、続けているとそれまでとは違った物事が見えるようになってくる。
最初は目の前にある問題だけしか見えなかったのが情報の領域が広がっていき、
その物事に影響を及ぼしている周囲の状況が見えてきて、本質を理解していく。

大抵、思い込みに惑わされている。
自分の思い込みは気がつきにくい。
絵を描けなくても
知っていた、見ていたつもりでいた
日常の見慣れたものを
絵を描くようによく観て見直すと
実は知らないことだらけだったことに気がついていく。
絵に描くと自分の思い込みと実際の違いがよく観えてくる。

考え事は絵を描きながらがいい。
絵を描くと頭がクリアーになる。
頭の中のイメージを実際に紙面に描き、
視覚で確認していった方がイメージを具体化できる。
発想も具体的に展開していきやすくなるので
理想の現実に近付けていくことができる。

絵を描くことも
仕上がった達成感というよりは
「もっと良くしたい、もっと描きたい」
といった過程で成長が加速し続ける。
だから新作を描き続けるクリエイターは高齢でも元気な人が多い。
『幸せを感じるのは成長が加速する時、止まれば消える』
フランスの経済学者ダニエル・コーエン氏の言葉

皆と同じものを日常で見て、同じような環境の中で、
他の人が気づかなかったことが気になり、
気になってしょうがなくなり探求が始まる、それが発見。
『最も高貴な喜びとは、理解する喜びである』-レオナルド・ダ・ビンチ


リサーチ力

2017年05月30日 15時48分58秒 | 日記
リサーチ力(観察眼:情報処理能力)
 「発見・展開・整とん」

レオナルド・ダ・ヴィンチは、凡庸な人間は「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆いていた。

思い込みは、自分では気がつきにくい。 だから、分かっているつもり伝えているつもりが多い。 絵を描くときにモチーフを観たつもりでは描けないから 自分の思い込みに気がつく。 よく観て絵を描く習慣がつくと思い込みに惑わされなくなっていく。

大抵の悩みは、勝手な自分の思い込み。 周りも自分も絵を描くようによく観て見直すと 色んなことが観えてきて気づきがあり、 気分が晴れてくる。 答えは決まっていない、創造すればいい。

『嫌いなことから人は学ぶ』 「嫌い」なことや「わからないこと」でストレスが溜まるのではなく 突き詰めると本当に知りたいことにたどり着く。 「好き」なことを好きであり続けるために 「嫌い」を知る。

いつも意識しておきたい言葉 「やっかいなのは、  何も知らないということではない。  実際は知らないのに。  知っていると思い込んでいることだ」 by マーク・トウェイン 現実を直視しチャレンジし続けている人は 自分が気づいたこととまだ知らないということを 実感している。

勝手に入ってくる情報は偶然ではなくて意図的に探していたのかも。 個性は、情報の選択により造られていく。 無意識に目に留まり、勝手に耳に入ってくる情報の中にも 考え方や意識を変えてくれる人生の財産となる情報が埋もれている。 飛び込んできた情報も人も出会った因果をちゃんと考えてみる。

普段、目にしている物事を絵に描くつもりで観てみるといろんなことに気づきだす。 絵は、思い込みや見たつもり、知っているつもりでは描けない。 物事は「見る」のではなく「観る」ことが重要で、 書物と様に「読みとく」「理解」する感覚が大切。

デッサンで必要な観察眼とは表面的な描写力だけではなく、観ているものの構造や光など周りからどのような影響が及ぼされているのかを読み解き、理解する力である。 このリサーチ力、伝達力は絵を描くことにとどまらず、様々な仕事にも必要とされる。

日常のどんなことでも。 絵を描くときにも「よく観る」ことが基本ですが、これは「必要な情報を見極め、的確に捉える。物事を理解する」ということ。 何かを理解するときに五感を使って知覚することは重要な役割をはたしている。 だから好きなことで感覚を磨いて機能させている人は、惑わされない。

不安を楽しみに変える。 少しでも重い気持ちになったら その理由を見付けて、よく見直すことにしている。 大半は、強い思い込みで自分を苦しめている。 「問題点に気がつけば解決できる。もっと良くなる。」と考え直して乗り越える。

海外の文学を研究している知人に 専門外の映画や書籍の翻訳や通訳の仕事の依頼が集まる。 語学が専門というより、文化や風習、習慣、歴史を熟知している方が リアルで説得力がある翻訳になる。 絵画でもテクニックは未熟だが、モチーフ(対象)を熟知している方が 心に響く絵を描けることと一緒。

毎日の繰り返し 同じ場所でありながら季節や時間帯、天気の変化でそれぞれ違う趣があり、 それぞれの表情の違いを意識して眺めると同じものは一つのなく、 それぞれの瞬間が新鮮にみえてくる。 たまにはっとする発見もある。 禅の修行のように毎日の繰り返しの中で、気づき成長していく。

対象を思い込みや観念的にとらえている人と、本質でとらえるために対象をよく観ようとしている人とは、描く線に違いがでる。優秀なクリエイターは、本質を観て判断し行動している。作者の描く線一本で、対象のとらえ方、その姿勢が分かる。

無駄に悩む必要はない。絵を描く時も”悩む”と”考える”は違う。漠然と悩むよりは、必要な情報を集め選択し視点を持って整理していく。 思い込みを取り外し問題点を発見し、具体的に思考して描く時間が大切。 その方が上達も速いようです。

「そんなことで」 心に響いてくる物事は、人によって違う。 感覚を研ぎ澄ましていくと 今、身近にあるもの、すでにもっていることで 心を満たすことができる。 特別なものや特定の場所、時間を必要としないで いつでも心を豊かにすることができる。 誰もができる「よく観る」ことからはじめる。

なぜアートなのか 目で見ているのではない。脳で観ている。 視覚情報を処理するときに脳の25%、神経経路の65%以上が使用され、 これは他のどの感覚よりも使用率が高い。 絵を観るだけで脳が活性化され、神経が磨かれる。 絵を鑑賞(読み解く)することは、観察力を磨く。 すべてに関わる。

見たいものしか見ていない。 見ているようで観ていない。 よく観るということは 意識して確認するということ、 事実を確認して、思い込みではなく 本当のことに気づいていくということ。 よく観る人が増えれば もっと安心できる優しい関係が広がっていく。

観たいものしか見ていない。 川の流れを止めると水が淀む、腐る。 情報を止めると思考が止まる。 その状態が思い込み。大抵の思い込みは自分で気づかないから厄介。 現実を直視して自分と違った考え方もよく見直し新鮮な流れを止めない方がいい。

との会話で伝えたいことのうち、言葉で伝わるのは7%ほど、 声(声色、抑揚、その他の音)が37%。 残り55%は、表情やしぐさなどの言葉以外のコミュニケーション。 しかし指さしなど身振り手振りを言葉の代わりにすると 誤解をまねく。 人は感覚の83%を占める視覚情報で判断している。

西洋の写実絵画は、見えていることを写真のように写しているのではなく、見えない情報(におい、味、感触、歴史的背景、思想など)も取り入れて描かれている。バロック時代の画家カラバッジオ が描いた絵を観ても、見えない情報が伝わってくる。

無意識に目に留まり、勝手に耳に入ってくる雑音の中にも考え方や意識を変えてくれるもの、人生の財産となる情報が埋もれていたりする。飛び込んできた情報も人も出会った因果を見直すと偶然ではなくて、意図的に探していたものと気がつく。

絵を描くこともそうだが、続けているとそれまでとは違った物事が見えるようになってくる。 最初は目の前にある問題だけしか見えなかったのが情報の領域が広がっていき、 その物事に影響を及ぼしている周囲の状況が見えてきて、本質を理解していく。

人は経験によって色の感じ方が違うことにゲーテは気づき ダ・ヴィンチは老若男女の違いを解剖によって発見し 画家コローは光の演出によって奥行を具体的に設定できることなどに気づくまで庶民は何の疑問も持たずに日常のこととして見過ごしてきた。

今、面倒に思うことが、いずれ自分を救ってくれる。 実は自分にとって大切なことが起こっていたり、繋がっていたりするのに気づかなかったり忘れたりしている。 そんな日常に起こる出来事、出会いをスルーしないように常に世間と関わりを持っていかないと いずれ孤立した虚しい生活になってしまう。

悩んだら寝る。悩みに大小はない。その人にとっては大きな問題。どうしていいのか分からなくなったり、なんだか良く見えていなかったりすることで悩んでいる。そんなときほど「よく見る」「よく見直す」ことにしている。寝るだけでも見方が変わる。

画家、マンガ家、小説家、料理人や冒険家などあらゆるジャンルにおいて、 アマチュアとプロと呼ばれる人の違いは 技巧より、よく観る力、取材能力にその差がでるのかもしれない。

楽しむことは、本質にたどり着く。 本質を意識したり、気づいたりするだけで、 脳が喜び生き返る。 誰でもできる「よく観る、よく感じとる」ことで、 楽しみが増えていく。

一人でも多くの人に希望を抱かせ、 一人でも多くの心を開放させていく人の考え方や行動が 間違いなく正しい。 そんな人は、人や世界をよく観て、 まずは本当のことに気づくことから始めている。

不満に思ってしまう相手にほど依存している自分がいる。 人のやることには限度があり78%が上限で100%になることはない。 できなかったことは次回にトライしていけばいい。 誰だって人に迷惑をかけてしまうし自分だけで背負わずに 誰かに頼ることも必要。 だから、相手を許す気持ちが大切。

“幸せを感じるのは成長が加速する時、止まれば消える” 絵を描くことも仕上がった達成感というよりは 「もっと良くしたい、もっと描きたい」といった過程で 成長が加速し続ける。 だから画家は年をとってもボケないで長生きする人が多い。

大切なことは、面倒なもの。 「めんどくさい、めんどくさいなあ〜。めんどくさいから、これも大切。」 しっかり向き合っているから、面倒なこと、大切なことが見えてくる。

なんで意識してよく観ることが大切なのか。 そもそも脳は誤作動を起こすもの。微量な電気でエコ運転をしているので効率的に都合よく考えてしまい思い込む。見たいものしか見えていないし、思いと直結していない記憶は忘れていくようにできている。

アートを読み解く人は、表面的な好みで作品を選んでいない。 アートの観方は自由で、好みの作家や話題の名画などを楽しむのが一番 だけど、好みでもなくどちらかというと一見、分からない作品のテーマや 隠されているエピソードを読み解いてみると観方が劇的に変わる。

感情は考えるものではなく 沸き起こるものだから 感情に人は振り回されるけど 感情がいつも人を助けてくれたり、 知らせてくれたり、 守ってくれたりしてくれている。 感情とうまく付き合っていくためには、 無理に抑え込んだり、無視したりしないで いつも事実をよく観て気づく習慣が必要。

川の流れを止めると水が淀む、腐る。 情報を止めると思考が止まる。 その状態が、思い込み。 情報の思い込みで判断すると不安で辛くなる。 思い込みを取り除くと思考が機能する。 思考量を増やし、情報を常に選択し、その流れを止めない方がいい。 大抵の思い込みは、自分で気づかないから厄介。
習慣が創造性を培う。 「よく観る、よく感じとる」習慣があって、 身近な自然に触れているなど日常的に五感を磨いている人は、 ものごとの微妙な変化や些細なことにも気がつく。 創造性とは、センスや才能の有無ではなく、 習慣である。
思い込みは気づきにくい。 他人と自分とは、同じ環境で同じ経験をしても同じ目的であったとしても 見えていること、解釈、感じ方、考え方は違う。 思い込みの枠にとらわれて、自分の見方が正しいかどうか疑うことをやめてしまったら、隠れた事実を見逃す危険性がある。 知らないということを知る。
小説や俳句なども含めて創作の習慣は ものごとを意識してみるようになるから現実が見えてきて 思い込みに惑わされなくなる。 実際には思い込みや分かっているつもり、伝えているつもりが多い。 絵を描くときも「見たつもり」では描けない。

大抵、思い込みに惑わされている。 自分の思い込みは気がつきにくい。 絵を描けなくても 知っていた、見ていたつもりでいた 日常の見慣れたものを 絵を描くようによく観て見直すと 実は知らないことだらけだったことに気がついていく。 絵に描くと自分の思い込みと実際の違いがよく観えてくる。

心の思い込みは、気がつきにくい。 大抵、思い込みに惑わされている。 日常の見慣れたものを 絵を描くようによく観て見直すと 実は知らないことだらけだったことに気がついていく。 絵に描くと自分の思い込みと実際の違いがよく観えてくる。 自画像を描くと自身の見直しになって心の洗濯になる。

人と同じ情景を見ていても、人によって違う情報の捉え方で 違う感情、考え方が生まれる。 多角的な視点で情報を捉えなければ 真実は見えてこない。 情報の捉え方で判断が 大きく大きく変わる。

日常に感動できる人は幸福 「よく観る」習慣があって、身近な自然に触れているなど日常的に 五感を磨いている人は、些細なことにも気がつく。 感覚が敏感だとそれだけ感動する経験が多く、 日常生活の中で幸せを感じとれる感覚が身についている。

「私は何を知っているのか」 「私は何を知らないのか」 「私は何を知らなければならないのか」 思い込みに惑わされないように よく観ることからはじめる。 そして本当のことを理解する。

絵は思い込みを外し、よく観て理解するだけで描ける。 描けないと思い込んでいるのは的確な情報を捉えていないだけで 才能やセンスがないわけでも下手なわけでもない。 絵を描くことへの苦手意識、思い込みを外すだけで一気に上達してしまう。
一人でも多くの人に希望を抱かせ、 一人でも多くの心を開放させていく人の考え方や行動が 間違いなく正しい。 そんな人は、人や世界をよく観て、 まずは、発見することから始めている。

「見慣れたことでもいつも新たな発見をしていく意識を持って、よく観る」 といった経験を積めば、 漠然とした理想や専門的な知識の枠に縛られなくなる。 新鮮に感じる気づきは、脳の機能を開放させる。 だから賢者は、散歩や芸術を習慣にしてきた。

絵で必要な画力と観察眼とは 表面的な描写力だけではなく 観ているものの構造や光と影など 周りからどのような影響が及ぼされているのかを読み解き、理解する力と その本質を的確な構図や技法で効果的に伝達する力である。 この対応力は 絵を描くことにとどまらず、様々な仕事にも必要とされる。

モチベーション

2017年05月30日 15時45分10秒 | 日記
モチベーション(活力:目標。何をしたいのか。)
 「何のために、誰のために作品の制作をしたいのか」

楽しいことが才能。 継続すること、継続してしまうことが重要で、何よりも説得力がある。 目的意識ではなく、そうしたいからしてしまうこと、 自分を突き動かしている「欲求・衝動」を与えられたものだと考えると 寸暇を惜しんでやってしまう好きなこと楽しいことが才能。

「嬉しい、楽しいは、絶対的に正しい」 感覚的知性を磨くことになる。人工知能が、まだ人からほど遠いのは「楽しいからやる」「嬉しいからやってしまう」「誰かが喜ぶからやる」といった感覚。生き物として大事なこと。だから誰かが喜ぶから、自分も喜ぶから、楽しいこと嬉しいといった感覚を見直す。

脈絡がない作業数が増えると多忙になる。 漠然とした多忙を受け入れるとストレスが溜まっていく。 具体的な目的や将来のビジョンがあり、ブレずに筋道を通せば 無駄な悩みもストレスも少なくなり 作業効率も上がる。 人生でいえば将来への不安より、現在のやりがいや期待が増していく。

人の話を聞かない幼児に比べて 経験と知識が豊富な大人ほど 見たものを歪めるフィルターが多く重なっている。 意識してよく観て、思い込みを剥がしていかないと 脳の劣化を進行させてしまう。 立ち止まったり、どうしても前に進めなかったり何もかも忘れたい人は 怠け者なんかじゃない。正しい。

師匠から「君はなぜ描いているのだ」とかいった問いに対して「楽しいから」と答え、破門されたルノワールは、モンマルトルのカフェで芸術論をぶつけ合い苦悩する前衛画家たちの中で幸せそうに絵を描いていた。そんなルノワールは絵画に輝きを与えた。

モネの想いが込められた3枚の絵『日傘をさす女』 妻と子と過ごす時間、溢れ出る幸せ、その瞬間を描いた4年後に妻はこの世を去る。 その7年後に亡き妻の面影を風景画のように描いた。顔が描かれていない。その後「人物画のルノワール、風景画のモネ」といわれたようにほとんど人物を描いていない。

自分も相手にも楽しい、嬉しいと思えることができる人は 幸せもの。

「そんなことで?」 でも、その人にとっては幸せなのである。

あれこれできないといった思い込み。 先のことを漠然と考えると不安になる。 できる、できないを考える前にやれることから始める。 続けていれば、理想とするビジョンへの筋道がみえてくる。 一日一日、真っ当に生きている実感が未来の希望になっていく。 毎日の意図の繰り返しで、成長していく。

誰かの出した答えを目指す必要はない。 答えはいつも自分で創造していくもの。 戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』 ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは 「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えた。

みんなクリエイターになれる。 創作は、本質に向かうから面白い。 本質に触れると楽しい。 芸術、芸能、スポーツなど特殊な分野、職種だけではなく 日常的な生活、仕事そのものに 創造性が求められてきている。 創造性を意識すると毎日の作業が創作に変わり、 やりがいや生きがいを感じられる。

夕暮れ時、二階の部屋のベランダ越しに近所の窓明かりが観える。 以前、訪ねたパリ郊外にある様々なジャンルのアーティストたちが集う アトリエ長屋の明かりを思い出して心地いい。 郷里にいた頃は、いつも外には壮大な桜島が様々な姿を魅せていた。 今は、東京の郊外の風景を観ながら英気を養う。

好き!が未来を切り開く。19世紀の西洋画家たちは、産業革命による写真の発明により失業していく。仕事のためではなく、自分の信じる絵を描き続けたかった画家たちは独自の絵画様式を探求し始めた。何を得たかではなく、何を与えたかで違いがでる。

自信って、過去は関係ない。 未来へ向かう力だから、 自信は、未来に向けて持つか持たないかだけ。

それまで出来なかったことが自分の伸びしろ。 出来ていないことの見直しが成長につながる。 悩むのではなく、視点を変えて新しい情報を受け入れて考えればいい。

自分の心配や不安にただただ取り込まれて悩んでいるより、 誰かのために、何か役に立てられることはないかを考えている方が楽々ちん。 遊びも仕事も 人のことを考えているかどうかで、 その気分が随分変わる。

絵を描くことも 仕上がった達成感というよりは 「もっと良くしたい、もっと描きたい」 といった過程で成長が加速し続ける。 だから新作を描き続けるクリエイターは高齢でも元気な人が多い。 『幸せを感じるのは成長が加速する時、止まれば消える』 フランスの経済学者ダニエル・コーエン氏の言葉

「お父さん、おやすみなさい」 寝る前に毎晩、仕事をしているところにきて声をかけにきてくれる家族。どれだけ、その一言で色んなことを取り戻せているか、その嬉しい気持ちをいろんな形で伝えていきたい。

印象派の画家たちは失業者だった。19世紀に写真が発明され、それまで依頼されてきた肖像画、風景画などの仕事が減少し職を失った。クライアントがいないのだったら自分が好きなもの、家族や友人、信じる絵を追求しようということになる。

何か才能や技術がないと創作、表現をすることが出来ないと勘違いをしている方がたくさんいる。絵にしても小説にしても遊びにしても大切なのは突き動かす衝動であり、その衝動を誰かに伝えたいという欲求があること。

日本では、自然の一部として一体感を感じることで情緒に感動し癒され、心で理解する情緒思考文化が栄えた。

二つの「生きる」 最初の死は、医学的に死亡診断書を書かれたとき 最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき(永六輔さん) の考え方は、世の中の朽ちていくモノすべてに通じる。 人や物は、永遠に生き続けられないが その想いは 誰かが引き継いでいく限り、生きる。

積極的な「面倒くさい」は「やりがい」に代わる。 面倒が起らないように面倒くさいことをやっておくことと 面倒が起きてから、面倒くさいことをやらされることとは 雲泥の差がある。

好き、楽しいと感じることで五感が磨かれる。 つまらなくなると脳も感触も引きこもってしまうらしい。 脳も筋肉、モチベーションが高くなると発達していく。 絵もどれだけ五感を複合的に連動して描いているかで、 その表現の説得力に差が出る。

誰かを想う気持ちで、自分も癒されていく。 脳科学の分野でも相手への感謝の言葉や褒めることが、 自分自身がそう言われているように脳が認識していくことが やっと分かってきたようです。

自分の知っている自分は、大半が思い込み。 思い込みや一方的な見方が変わらないと同じものを見続けて立ち止まっている。思い込みを取り払い、考え方や視点を少し変えただけで、元気になって前向きになれたり自信がついて積極的に行動できたりする。

誰かに指示されたり注意などをされたりしてからやることは、面倒くさい。 誰かのために積極的に自分で判断してやることは 人に喜ばれ、やりがいになっていく。 「やりがい」と「面倒くさい」は紙一重。

劇団四季の座長が「隣の時計をみない」とそれぞれのペースで成長していく大切さを語っていた。他人と比較することで劣等感や不幸を感じてしまいがちで、どんな状況でも「今の自分から少しでも」といった“前へ”が自分を成長させ楽しさに繋がる。

働くと汗をかく。帰宅をすると小学生の息子が「お仕事のにおいだね。」と声をかけてくれる。その優しい気持ちで仕事の疲れが吹き飛ぶ。やっぱり思いやりや愛情が、元気な未来を創っていくと思う。

みんな「あれもできないし、これもできない」 実は「これもできるし、あれもできるようになっている」と考えて、 今の自分も相手も褒めてあげた方が、上を向いて前進できる。

物足りなさや空しさは 創造性を磨く時間を増やすことで解消されていく。 絵を描いたり観たり、ブログ、料理、園芸、筋トレしたり 音楽を聴いてぼ~とイメージするだけでも創造性は磨かれる。 穴を掘るだけでも可視化される創作は更に心が満たされていく。 そんな時間を無駄だと思い込まないこと。

物も事も人によって価値が違う。 「こんなことしかできない。こんなものしかもっていない。」 といった自分の勝手な思い込みで価値を下げている。 好きなこと、楽しんでいたこと、続けてやってきたことの価値は 自分が考えている以上に高い。

好きなことが才能。 続けられることが実力。 癖は魅力。 磨かれた感覚が、自分らしい幸せを見つける力になる。 自分という人間は自分だけ。

素直にやりたいことは始める。 専門知識やスキルがないと表現することが出来ないと勘違いをしている人が沢山いる。 創作にしても遊びや仕事にしても まず必要で大切なことは、突き動かす衝動があるということ。 その想いを達成したい、誰かに伝えたい、残していきたいという欲求があるということ。

道端の草木や石ころに心を引かれる人もいる。 好きなことで楽しむと感覚は磨かれていく。 「そんなことで」 その人によって心が揺さぶられるものは違う。 幸せは、頭で考えるものではなく心と体で感じるもの。 五感を意識して使うと気分がいい。

日本人を見直す言葉。 坂東玉三郎氏の芸の目的は「お客様に生きていてよかったとおもっていただくこと」

居るところで 登ってゆけ 目指す自分の高みをもてばいい 花は咲く場所を選ばない、咲く時を知っている。

誰かに言われたからやれるものでもなく、 望まれたからできるものでもない。 心が動かないと体が反応しない。 想いが行動を生む。 一歩を踏み出せれば、 あとは自分らしく、続けるだけでいい。

幸せは、なりたくてなるものではない。 幸せは、感じるもの。 同じ状況なのに幸せを感じる人とそうでない人との違いは 幸せを感じとる感覚が磨かれていないから、幸せだと感じない。 幸せを感じる感覚は 誰かに何かに強い想いを抱いているとき 何かに打ち込んでいるといつの間にか磨かれていく。

「仕事がある」「契約をとる」「オファーがある」、それを目的にするというよりは、そんなことの一つ一つのつながりを「縁」「チャンス」と捉えて精一杯やらせていただくといった思いの強さが、生きがいや喜びに繋がっていきイノベーションを起こす。

普通の人に焦点を当てた。 評判の町娘の名前を出した肖像画を世に出すなどして 役人ににらまれながらも 絵で庶民を元気にするために貢献し続けた歌麿。 歌麿の身近な存在、日常の当たり前を見直す発想が 日本文化として現代に引き継がれている。

どうでもいいと思っていたはずなのに なくなると空しくなる。 分からないけど「好き」は 空気のように意識しなくなった頃に まだそばにいてくれて 何となく、ないと困るということに気がつくと 大切にしようと想う。 その想いを持ち続けること。 普通で日常過ぎて「どうでもいい」ことが大切。

人に正解や決まった答えはなく、 あるとすれば嬉しかったり、喜べたり、安心できること。

実は意外なほど、意識し考えて判断していない。 「普通はこうだ。一般的にはそうするはず。」といった 漠然とした枠が、フロイトの分析した前意識。 思い込みにとらわれてしまうと日常のほとんどを 無意識に判断し行動してしまう。 思い込みを取り外し 意識して考えること 正直な判断が「想い」

一つ一つ、丁寧に過ごしている粋な人は 悩む隙間さえない。 目の前のやれることをやらなかったり、 後回しにしていることが 将来の漠然とした不安につながっていることに 気がつきにくい。

歴史に残る作家は特別な才能があったということより思いを伝えるモチベーションが極めて高かったといえる。画家になる前にゴッホは牧師だった。ゴーギャンは25歳頃までは株の仲買人、ルソーは税理士で、世に出ている作品は50歳過ぎに描いたもの。

つらい時にも洒落ているイタリアのことわざ 『どん底に落ちたら、もっと掘れ!』 なんだか覚悟を感じるいさぎがいい言葉

ダルトン・ゲッティ 9.11以降、犠牲者のために1日1本、鉛筆の芯を彫刻しているアメリカの大工さん。彼は、自分の国の犠牲者のために自分に出来ることをみつけてやっているだけで、 自分のことをアーティストだとは思っていない。

周りの人より勝ことがいいと思い込み、また劣っているから駄目だと思い込み、ついつい人と比べて辛くなってしまうが、比べないように意識したらすぐに楽になる。自分が少しでも成長し続ければいい。

幸せ 幸せは、なりたくてなるものではない。 幸せは、感じるもの。 同じ状況なのに幸せを感じる人とそうでない人との違いは、 幸せを感じとる感覚が磨かれていないから、幸せだと感じない。 幸せを感じる感覚は、何かに打ち込むことで磨かれる。

学生時代に色んなバイトをして、様々な人たちと共に働いた。問題がない職場はなく、みんな踏ん張っていた。 どこの誰だったかは覚えていないが「どうせやるなら笑ってやった方がいいに決まっている。」と言ってくれたことが今でも心を強くしている。

日本の侍は、争いを望んでいたわけではない。 平凡に家族と過ごし変わりなく繰り返せる生活の幸福感をかみしめていた。 侍は、朝起きて出かける前に自分が惨殺されることを常に想定していた。 一日の仕事を終え自宅に戻ってこれたとき、 無事に家族の元に戻れたことを感謝して毎日を生きていた。

一日、何かやりたかったことを一つでもできれば、それで上等 「今日はこれができたから、それでいい」 「明日は、これだけやればいい」 いっぺんにたくさんできることが偉いわけではない。 一つ一つ、実現していくことが大事。
画家の失業。 印象派時代、映像(写真)の発展により画家が失業していく。クライアントを失った画家たちは自分が描きたいものを追求し始める。絵具チューブの開発で野外などどこでも描けるようになり描く題材も日常や家族、友達の姿を描いている。
情熱が人の心と体を動かす。 誰かに言われたからやれるものでもなく、 望まれたからできるものでもない。 心が動かないと体が反応しない。 思いが行動を生む。 無理をしないで、楽に一歩を踏み出せれば、 あとは続けるだけでいい。

未来のことを知っている人はいない。 だから 先のことは自分で決めればいい。

先のことは誰もわからない。 明るい未来を想うのか、将来にいつも不安を感じて過ごすのかで 今に随分と違いがでる。 疲れたらしっかり休んで、やるなら笑ってやったほうがいいに決まっている。

思い込みに縛られないように新鮮な情報を伝え続ける 絵や音楽、言葉の文化交流が人には必要。 絵や音楽、言葉を使う最大の目的は、人に心を自由にする開放感をあたえること。

好きであることが、 思いを実現する力の源になる。 好きなものに出すパワーは果てしない。
好きなことや気になることを追及して 極めれば極めていくほど 未だ至らないところが次々と見えてくる。 純粋に楽しめないときもあるけど 気づいたことを一つ一つ乗り越えて続けていくことで その喜びも楽しみも深く広いものになっていく。 気がつくことは辛くもあるが、新しい目標ができて嬉しい。
すべて、思い込みが邪魔をしている。 他の人にとっては、どうでもいいもの、絵や言葉でもその出会いで、随分と気持ちが晴れたり、心が穏やかになる考え方ができるようになったりする。 一日に一つでもそんな出会いや気づきがあると嬉しい。 見直す意識があればそんなことが意外なほどある。
つまらなくなると脳も心も引きこもってしまう。 好き、楽しい、嬉しいと感じることで心身ともに磨かれていく。 脳も筋肉、モチベーションが高くなると発達していく。 絵も視覚だけではなく、どれだけ五感機能を使って描いているかで その表現の深さ、説得力に差が出る。 理解することで脳が喜ぶ。

文化的な日常を過ごす。 心が満たされる生活とは、 高いお金を使って物質的な贅沢をすることではなく、 いつでもどこでも 心の贅沢ができる感覚が、 いつの間にか磨かれていく日常を過ごせていること。 本当にほしいもの、求めているものは、文化的な日常で身につけられる。

確かなこと かき消されやすい日々の何気ない喜びが 明日からの希望への懸け橋になる。

階段などで「走ると危ない!」と何度注意しても子供は走る。 子供は走り回ることが大好き、疾走する感覚を磨く大切な時期。 ゆっくりぶらぶら立ち止まりながら歩く気持ちの落ち着いた感覚も良いが、 周りのことを気にしないで全力で走っている時の感覚を思い返して 大切なことを思い出しそうになる。

ほどほどがいい。 穏やかで暖かい日差しでの日向ぼっこは気持ちがいい。 日差しがなくても暖かい部屋の中は気持ちが落ち着く。 たとえ寒くても嬉しい言葉や絵、映画や本で感動すると心が温まる。 暖かいは、絶対に正しい。 暖かいは、体も心も守って、強くしてくれる。

明るい未来をイメージすることが 安心につながる。 無理をしないで、今できることから考える。

働けるありがたさ 「仕事がある」「契約をとる」「オファーがある」、それを目的にするというよりは、そんなことの一つ一つのつながりを「縁」「チャンス」と捉えて精一杯やらせていただくといった想いの強さが、生きがいや喜びに繋がっていく。

大半の方が、絵を描くことを楽しめていない。 実際に描けているのに自信が持てない方も多い。 デッサン指導した社会人の皆さんから 「絵を観ることも描くことも楽しくなってきました。」 といっていただけるのが最も嬉しい。

テーマ

2017年05月30日 15時41分30秒 | 日記
テーマ(構図:何を表現したいのか。)
 「テーマ(目的)とモチーフ(素材)を生かす・素材を使って目的を他者に伝える」

絵の構図をとるという行為は 料理に置き換えると「季節の素材を使って、その季節の素材を生かす調理をし、その季節にあった料理を完成させ視覚と嗅覚、味覚を楽しませる季節料理の盛り付け。」のようなこだわりと言える。 決められた場所と与えられた状況で、人を満足させる”おもてなし”の心構え。

動画を描いた絵師。 江戸時代に俵屋宗達が描いたとされている(作者の落款が押されていない) 『風神雷神図』からは映像的な躍動感が伝わってくる。 三十三間堂にある勇ましく躍動感が特徴の鎌倉時代につくられた木彫をモデルにして描かれている。

好きも嫌うことも同じくらいのエネルギーを使う。 老いも死も嫌いも辛いも必要なものとして受け止める。 尾形光琳『紅白梅図』もそんな文化を伝えている。 これからさらに日本文化とその源流の”潔さ”の魅力が 世界で見直され注目されていく。

絵は、読書と似ていて描く数を重ねるごとに発見がある。自分の成長によって同じ絵でも気づくことが違ってくる。同じテーマで繰り返し、綴ったり、歌ったり、描いたりすることで感覚を磨くことができる。

「周りに迷惑をかけないこと」 この言葉には「今、自分のやるべきことをやる」「周りのことを考える。」「自に与えられた仕事に意味を見出す」「お世話になったときも、いつもと変わらずに過ごせたときも感謝する」など根本的なことが含まれている。

自分の思いだけを押し付けるのではなく、 相手の思い描く物語を引き出そう、出しやすくしてあげる姿勢に信頼感を感じる。 仕事も教育も、意思疎通(相手の思いを理解できる能力)が必要。

伝えたいこと(テーマ)によって表現が変わる。 働きものの温かい手、たくましい手、優しく抱きかかえる手、祈りの手。 上手くみせるのではなく、何を伝えるかが問題。

西洋は「絵で埋める」 細部まで描きこまれていたり肖像画であっても背景が描かれたりしている。 「西洋人は余白があることを恐れる」 日本は「描かない」 描くべきものだけを描きあとは余白にする。 「日本人は満たされていることに恐れを抱く」

日本は、脳を休めて、情緒に感動して癒され心で理解する≪情緒思考文化≫ 西洋は、脳を刺激して、脳で感動して理解する≪ 論理思考文化 ≫

つくづく感じる。 相手をリスペクトして協働していると、 充実した時間、事、物、場所、成長が生まれる。 お互いにリスペクトできない関係からは何も生まれない。 フラットな人間関係でいられるといい。

何をしたかではなく何のためにやっているのかが、心に響く。 日曜画家だったアンリ・ルソー 世界的に知られる名画はすべて50過ぎに描いた作品。 生前、モンマルトの画家たちは「へたくそ」と馬鹿にしていた中 彼の才能を認めていたのがピカソ。

絵は、手紙や看板、標識、何かを承認してもらうための企画書と同じ。 なので、何を伝えたいのか、 その目的や想いによってずいぶん違うビジュアルになる。 上手いか下手かは問題ではない。 絵に正解はなく、作者が届けたい想い、テーマが 誰かに伝わる構図、明暗、かたち、色が 魅力として響く。
学校での評価も成績も低かったニュートンが、その後の世界に大きく影響する発見を立て続けにしていったのは、誰かが出した答えを追いかける人たちを評価する世界の中で、自分の疑問に対して、実際に目で確かめたことしか納得しワクワクできなかったから。 自分の直観を信じて素直に実証をしていった。
下半身が麻痺していたので草原に腰を下ろして寛いでいるのではなく 這って進むしか出来なかったクリスティーナ。 「大部分の人が絶望に陥るような境遇にあって、驚異的な克服を見せる彼女の姿を正しく伝えることが私の挑戦だった。」 クリスティーナから感じた世界を画家ワイエスは絵で伝えている。

絵に置き換えられているものは日常の中の一瞬のきらめき。 絵は、作者が気づいた日常の些細なことや発見を描き残せたり覗けたりできる魅力がある。その気づきに共感する人が多いほど、またそのテーマが普遍的なものであるほど長い時間愛され続ける。

いつでも黙って受け入れてくれて、一緒にいるだけで自身を見直せるような存在。 座右の銘となる言葉、お気に入りの本や絵との出会いは、運命的な人との出会いに匹敵するものがある。それに込められている意図の読み解きができるとさらに成長できる。

美術教育

2017年05月28日 12時12分15秒 | 日記
美術教育が、人や社会を育てる。
よく観ること。
しっかりと感じとること。
多角的な視点を持つこと。
伝え方を工夫すること。
本質を探ること。
違和感を見つけ解消していくこと。
知らないことに気づいていくこと。
創造すること。
これら生きるために大切な感覚機能を
美術教育で磨ける。

絵(デッサン)を描くときにも「よくみる」ことが基本ですが、これは「必要な情報を見極め、的確に捉える。物事を理解する」ということです。何かを理解するときに五感を使って知覚することは重要な役割をはたします。

皆と同じものを日常で見て、同じような環境の中で、
他の人が気づかなかったことが気になり、
気になってしょうがなくなり探求が始まる、それが発見。
『最も高貴な喜びとは、理解する喜びである』-レオナルド・ダ・ビンチ

大抵、思い込みに惑わされている。
自分の思い込みは気がつきにくい。
絵を描けなくても
知っていた、見ていたつもりでいた
日常の見慣れたものを
絵を描くようによく観て見直すと
実は知らないことだらけだったことに気がついていく。
絵に描くと自分の思い込みと実際の違いがよく観えてくる。

絵は五感を使って描く。
対象をただ写し描くことが写実ではない。 光の入り方、その時間帯、季節感など対象物を取り巻く(多角的)世界をどれだけ広く感じさせることができているかが重要。その視野の広さで伝わるリアリティが違ってくる。

いつも意識しておきたい言葉
「やっかいなのは、
 何も知らないということではない。
 実際は知らないのに。
 知っていると思い込んでいることだ」
by マーク・トウェイン
現実を直視しチャレンジし続けている人は
自分が気づいたこととまだ知らないということを
実感している。

デッサンを描くことで必要な観察眼とは表面的な描写力だけではなく、
対象となるものごとの構造やその周りからの影響を読み解き、理解する力である。
このリサーチ力、思考力、伝達力は絵を描くことにとどまらず、
様々な仕事にも必要とされる。

絵を描くこともそうだが、続けているとそれまでとは違った物事が見えるようになってくる。
最初は目の前にある問題だけしか見えなかったのが情報の領域が広がっていき、
その物事に影響を及ぼしている周囲の状況が見えてきて、本質を理解していく。

自分で気づいたこと、実感できたことが身についている。
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だ。」
アインシュタイン

「デッサン」は、モチーフを単に写し取るだけの表面的な描写の作業ではない。
「デザイン」という言葉の語源と同じラテン語のdesignare(デシネーレ)。
計画を記号に示す、図案、設計図、意匠の本質を捉える意味がある。

絵を描くことは、
絵のプロになるためだけに必要なことではない。
絵の描き方を習うということは、
じつはものの観方、多角的な考え方、伝え方を学ぶということであり、
それはたんに目で見るよりもずっと多くのことを意味している。
よく観て繰り返し絵を描くことで
本当のことに気づいていく。

絵画で、エチュード【 étude】が「習作」と訳されていることで練習することのように認識されているが、本来は「研究し探る」こと。
ダ・ヴィンチのエチュードへのこだわりを観るとその違いが分かる。
西洋文化がなだれ込んだ明治時代の間違った認識と和訳のまま教育されていることが多々ある。