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ぶぶのいる生活

なんか、変
どこか、変
ちょこっと、変
いつも、変
変人上等 唯我独尊 人生万事塞翁が馬

高田馬場のおばあちゃん

2011年07月29日 11時30分50秒 | 書き物 (;¬_¬)
夏休みの宿題の作文で、

   『高田のばばあの、おばあちゃんの家に行きました』 と書き、
        
 × 【高田のばば】

と赤ペンで添削されたことがあった。

小学2年生の時だった。

ウケ狙いではない。
それまで本気で、【高田のばばあ】だと信じていたのである。





新宿【高田馬場】に住んでいた母方の祖母を、私は、

    「高田馬場のおばあちゃん」と呼んでいた。


祖母の家には、変なもの、面白いものが沢山あって、
訪れる度に胸がワクワクした。


収集癖のあった祖父が残した、
ガラクタがうずたかく詰まれた、 小さな狭い家だった。
そこに、家電新しモノ好きの祖母のガラクタも加わるのだから、
もうゴミ屋敷だ。
それでも私には、
家全体が、宝箱のようにキラキラ輝いて見えた。

何故こんなものが、老人だけの家にあるのかは謎だったが、
玄関を開けるとすぐに、
かなり大きなジオラマが、目に飛び込んできた。
豆みたいな兵隊がジープに乗ったり、匍匐前進したりしているヤツ。
夜にはちゃんと電気だって点く、本格的なものだった。

ハイカラな祖母は、朝食は必ずパンと決めていて、
しかも、紅茶は香り高いアールグレイを好んでいた。
リプトンの黄色いティーパックしか知らなかった私は、
祖母が、外国ものの缶からスプーンで葉をすくい出して、
ティーポットでちゃんと淹れる、その儀式に憧れた。
・・・・・・・・私が紅茶好きになったのは、その瞬間からだ。

文句なしに、祖母をカッコイイと思っていた。


祖母は、ちょっと変わっていた。
・・・・・・否、“うんと変わっていた”と思う。

年寄りくさくて嫌だと、演歌は絶対に聞かなかったし、
あれも嫌い~、これも嫌い~。努力なんて真っ平ごめん。
人との交わりも鬱陶しかったようで、
いつだってマイペース、自分のやりたいように生きてきた。

本人の話だから、どこまで本当なのかは分からないが、
「おばあちゃんが、日本の女性で2番目に車の免許を取ったんだよ」
と自慢していた。
若い頃は、さぞかし【飛んでる】女だったのだろう。


そんな祖母と私は、昔から妙に気が合い、
多分、
孫の中でも、殊更に可愛がってくれていたと思う。

「おばあちゃんが死んだら、この家はぶぶちゃんにあげるからね」と
こっそり耳打ちされ、
子供だから、それを真に受け喜んでいたけれど・・・・・、
もしかしたら、
他の孫にも、同じことを言っていたのかもしれない。
(さもありなん)



まあ、それはともかく、
私と祖母は仲が良かった。


私は社会人になってからも、会社帰りに高田馬場に寄り、
週末はそのまま泊ったりもした。
「イヒヒヒヒ」と、声に出して笑いながらマンガを読む私を、
「そんなに面白いものなのかね~」と、
なかば呆れながらも、目を細め嬉しそうに眺めていた。


私達は顔もソックリだったが、
病気体質までソックリで、
2人して、いつもどこかしら具合が悪かった。
「私の体質がぶぶちゃんに遺伝してしまって、本当に申し訳ない」と
頭を下げられたことがある。

旅行も一緒に行った。

私が成人した年は、祖母は入院していた。
私は、市主催の成人式には出席せず、
晴れ着姿を見せに、当時は『彼氏』だった家人を伴い、
祖母のいる病院を訪れた。
ベットの上の祖母は「綺麗ね~」と、とても喜んでくれた。





そんな祖母が、
長期の入院をきっかけに、高田馬場の家を引き払い、
特別養護老人ホームに入ったのは、いつだったか。

私も東京を離れたり、
その特養ホームが、車無しでは行くのに困難な場所に有ったこともあり、
なかなか見舞うことが出来なかった。

いつも気にかけつつも、
実際は、帰省すると両実家に行くにとどまっていた。





ある年の夏。

やっと、
私は、祖母のいるホームを独りで訪れることが出来た。

駅からはずいぶん離れた、人気の無い森の中に、
ひっそりとその施設はあった。

受付をすませ、
言われた番号の部屋に入る。

ベットの上にはすっかり年老いた、でも確かにあの祖母の顔があった。

「おばあちゃん、来たよー!」

ゆっくりとこちらを見返る祖母。

「ああっ!」
と、嬉しそうに笑った。

しかし、
次の瞬間には深々と頭を下げ、

祖母は、こう言ったのだった。




    「遠いところをわざわざ、ありがとうございます…」




・・・・・・・・・・・ 祖母にはもう、私が分からなかった ・・・・・・・・・・





私は、
驚きはしなかった。

祖母の症状のことは、以前から聞かされていたから。
時には、
自分の子供である母のことすら、分からなくなることもあるらしい。

祖母の頭からは、
高田馬場に住んでいた頃の記憶が、すっぽりと抜け落ちていて、
覚えているのは、
はるか昔の、思い出ばかり。

祖母の頭の中で、私はきっと、
生まれ育った山梨時代の古い知り合い・・・なのだろう。


しかし、
無駄と承知して、私は説明をした。

「おばあちゃんの孫よ。 私達、昔、仲が良かったでしょう?」

「そう・・・だった・・・・かしらねぇ?」

「そうだよー」


祖母は、戸惑っていた。

「すみません、何もかも忘れてしまって・・・・」

他人行儀に、申し訳なさそうに謝る祖母に、
泣きそうになった。


突然、
祖母はポンッと思いついたように、
近くの棚から一冊のノートを取り出し、私に渡した。

「ここに書いて下さい」

それは、
祖母の“忘れたくないこと”を、書き留める為のノートらしかった。

私は、家系の相関図をページに書いた。

「ね、これが私。
 S(兄)はよくココに来てるでしょ? その妹。分かる?
 今日は私、大阪から来たんだよ」

祖母は紙を見つめ、しばらく考えていた。
「Sの妹・・・・・Sの妹・・・・・」


すると突然、目を輝かせた。

「ああっ! 生き別れになっていたあの赤ちゃん!!
 そう、大阪にいたの・・・。 
 まさか、こうして会えるとは思っていなかったよ。
 嬉しいねぇ。ありがとう、ありがとう・・・・」

私の手を痛いくらいにギュッと握り、
今にも泣かんばかりに興奮した。

・・・・・やはり、記憶は混乱しているらしかった。

それでも。
とりあえずは、私を孫と理解してくれた。

『もう、それだけで充分じゃない』と思った。

これ以上の説明は、
もはや不要だった。


ページの余白に、更に大きく、私の名前を書いて渡した。

「私の名前、忘れないでね」

「ここに書いておけば、絶対に忘れないよ!」

ノートを胸におし抱き、
そう、祖母は約束した。





・・・きっと。
次の瞬間には、私のことは消えてなくなるのだろう。

だが、それもよかろう。

まるで一冊の小説になりそうなほど、波乱な人生を送った彼女だ。
ここでは詳しく書けないが、
やむをえない事情で、実の息子を手放した母としての悲しみ。
(先程の“生き別れになった赤ちゃん”というのは、
 恐らく、その息子の記憶と混ざったのだと思う)
放蕩だった祖父に、さんざん振り回された憤り。
そして、数々の病気と手術による死ぬほどの痛みと苦しみ。


持って逝くには、
あまりに辛すぎる負の記憶をも共に消してしまえるのなら、
私の存在の消失など、構うものか。




昔はあんなに病弱だったのに、
周りの(そして本人の)予想に反し、
ホームで最年長記録を塗り替えるほどに、長生きした祖母には、
もう、見舞ってくれる昔の知り合いなど誰も居ない。

親戚も、友達も、みな、鬼籍の人となった。
自分ひとりだけが残ってしまった事実を知らぬまま、
霞の中でも、友達と無邪気に戯れていられるのなら、
それで、良いではないか・・・・。


2人で過ごした楽しい記憶は、
私が、大事に胸にしまっておくから。

ちゃんと、ここに。

だから、
大丈夫。









      「また、来るよ、
       高田馬場のおばあちゃん」




そう伝えると、

うんうん、と、
私にソックリな顔の祖母は、


笑った。





2008年06月12日




*********************************************************************



                      “高田馬場のおばあちゃん”

                       97歳と5カ月の

                       立派な大往生でした


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吉野のサクラ

2011年04月26日 17時33分36秒 | 書き物 (;¬_¬)
スーちゃんこと、
元キャンディーズの田中好子さんが、乳がんでお亡くなりになりました。

わたくし事ですが、

去年の春、
もしかしたら『乳ガンかも?』という不安な日々を送った時に、
自分の人生において、
唯一やり残したことがあったとすれば、
【見ておきたかった物がまだ有ったのに、ついに見られなかったなぁ】
ということでした。

それは、2つ、有りました。

詳しくはこちらで語っていますが、
【見つけたもの 2010.6.6】
この時は、ソレが何かは明かしませんでした。

実は、
うち1つが、~吉野のサクラ~でした。




この春は仕事とイベントが重なりまくり、
御存知の通り、当ブログもろくにアップ出来ない状態だったので、
(それは現在進行形ですが)

『今年も吉野を訪れるのは無理だろう・・・・。』

と、完全に諦めていました。





でも。

やっぱり。


去年の“あの時”の自分の想いをもう一度噛み締めた結果、
本当にそれでいいの?と自問自答した結果、

       ~後悔だけはしたくない~

と思い直し、4月某日、吉野へ向かいました。






人はいつだって、
「明日」が来ると思っています。
いつも通りに時は流れ、
明日も明後日も、来年も再来年も、規則正しく来るものと、
漠然と信じています。

でも、本当はそんな保障なんてどこにも無いんです。


明日じゃなくて、今日。

やっておける時に、やる。

行ける時に、行く。

・・・・と、自分の命にもう続きが無いかもと覚悟した【あの時】に、学びました。






そう。
夢は叶えるものです。
自ら動き、初めて手に出来るもの。


いつだって私は、

自分の足で歩き、
自分の目で見て、
自分の鼻で匂い、
自分の肌で空気を感じ、
自分の心で生の感動を感じたい。

それが生きてる、という事なのでしょうから。




吉野での出来事のブログは、今、一生懸命に準備しています。
もう少しお待ち下さいませね。





                      ・・・・・・・・あと、もう1つの夢も、必ず、叶えます。




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足元の石

2011年03月26日 11時20分03秒 | 書き物 (;¬_¬)
当初は、友人に宛てたメールだったのだけれど、
ふと、
自分に言っていることに気付きました。

                           (友人の許可を得て載せてます)

******************************************************************************



私たちの年代ってちょうど、得体の知れない不安感との戦いだと思うんだ。
怖いもの知らずで飛び込んで行けるほど若くもないし、
開き直って隠居を決め込むほどの歳でもないし、なんか中途半端。
“残された”時間は限られてて、
『動くなら今しかないのに、何もしないでこのまんまでいいの、ワタシ?』
みたいな、
常に追い立てられてるような不安感。
少なくとも、私は、いま、そんな感じ。

この前、新聞に書いてあったんだけど、
    「今の仕事を一生懸命やることで、次にやるべきことが見えてくる」
この言葉って、仕事だけじゃなく、人生に置き換えてもいいと思うの。
私の場合だけど、
焦りだらけで、だけど、実際はナニをしたらいいのか分からなくて、
プチパニックになってた時にこの文章を読んでね、
『ああ、そうか。
 とりあえず、今、目の前の事をやればいいんだ。
 そしたら次やることが、順繰りに巡ってきて、きっと見えてくるんだ』
って、思ったの。


遠すぎる淡すぎる目標だと、曖昧すぎて手が出ないけど、
足元の石ころなら、とりあえず拾うことが出来る。
1つずつ拾って、一歩ずつ足を出していけば、
いつの間にか結構な距離をいけるような・・・・・そんな気がしたのでした。


幸せじゃないのに、
“幸せなフリ”はしなくても、いい。
と、最近、私は思います。

感謝は忘れちゃいけないけれど、
「いま私は幸せ・・・・と思わなきゃ!」って、自分をどんなに騙してみても、
それってやっぱり、偽りの感情でしかない。
本当の幸せって自然と溢れ出るもの。
理屈じゃないよ。

人って、常に幸せでなきゃならないのかな?
幸せじゃない時も、有ったって、いいじゃない。


あ。
コレは、先日、私がとある人から言われた言葉。
○○ちゃんにも贈りますね。


              「人からどう見られようが、関係ない!」


・・・・・だってさ。(*'-^)-☆



2011年3月3日

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バクの群れ

2011年03月18日 13時38分59秒 | 書き物 (;¬_¬)
1週間がたった。

7日前の“あの瞬間”までは、
『今日もいつもとおんなじ平凡な1日が、始まり終わるんだ』と、
誰もが信じていた。

前と後では、こんなにも世界が違う。




刻々と変わる情報収集の為につけっぱなしにしているTVでは、
地震・津波のショッキングな映像が、
繰り返し、繰り返し、流される。
品薄や停電に翻弄される人々の悲鳴が伝えられる。

そんなものを見続けていたら、
知らず知らずのうちに、私も心がささくれだっていたようだ。

近親者の安否が確認出来て、ひと安心したものの、
次々と新たな不安にかられた。
関東に居る家族や友達の、「いま」必要な食料の心配。
原発事故による放射能の、「今後の」経済への影響。
今回の地震に誘発された、「日本全土」の大地震の可能性。

自身は当面の食料も日用雑貨も停電の心配もないのに、
どうしようもなく疲れた。
身体的に、ではなく、精神的に、だ。

キリキリと張り詰めた心の糸が、限界に来ていた。


これではいけない、と、
ある日、
TVを消し、通常通り音楽を流しているラジオに切り替えた。

心底、ホッとした。
乾いた大地に水がジュッとしみこむようだった。
そして、
ああ、そうか、と思った。


『人は、夢を食べる生き物なのだ』と。



心の栄養素は、
夢や希望である。



まずは、命をつなぐ為の、水や食料。 
体を守る為の衣料や薬。

でもその後は、心にも栄養を与えなければ。

じゃなければ、
夢を食べる生き物・・・・人は・・・・【バク】は・・・・
確実に、死んでしまう。



この地球上には、
何十億ものの【バク】が居る。

【バク】は、
時には戦争で互いを殺しあったりもする大馬鹿者だけれど、
でもある時には、
誰かの為に必死になれる、不思議な生き物でもある。

【バク】は夢を糧に想像をする。
「想像」は「創造」だ。

【バク】は夢を食べて、歩く。笑う。喋る。眠る。
そして、きっと、また創り出す。
新しい世界を。

それだけの力を持っている。



だから、どうか、
【バク】に夢を・・・・。 希望を・・・・。
お与え下さい。









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押し花

2011年01月28日 11時24分01秒 | 書き物 (;¬_¬)
とある日の、昼下がり。

なんとはなしに、
昔の書籍を出して読んでいると、
薄いナニかが、頁の間に挟んであるのに気付いた。

それは、すっかり色褪せた、
紫陽花(あじさい)と、おしろい花の押し花だった。


いつ押した物か、記憶は定かではないが、
この本を手にしたのはゆうに20年ぶりくらいだろうから、
少なくとも同じか、それ以上の時が経っていることは確かだ。


当時、私はなにを思い、
花を摘み、
この本の間に押したのだろう?


カラカラに乾いたソレに、もはや“命”は一片もない。
重さもない。
色もすっかり褪せてしまった。


でも、きっと、その時の私は、
“変わらない”ものがあると、
純粋に信じていたのだろう。

鮮やかな色を、『永遠』に閉じ込めておけると、
子供心に、信じていたのだろう。




破れないように慎重につまみあげると、儚げな花達は、ハラリと、はがれた。

しげしげと眺める。

電灯に透かすと、向こうに黄色い光がボヤけて見えた。


と、瞬時に、
これらの花達がかつて持っていた瑞々しさが、
突然に蘇った。

万華鏡のように、沢山の色がキラキラと心の中に広がった。

黄や赤や紫色が、回りながら散っていった。



そうだ。
色褪せたって、
遠いあの日、美しい花が“在った”ってことは、ホントウなんだ。



指先でつまんだ押し花をヒラヒラさせながら、
そんな事を思った。






ひととおりを掲げると、

元の通り、頁に挟んだ。



カーテンの隙間からサラサラ風が入り込む、
穏やかな、昼下がり。



     

                                                  

                           



2010年12月29日

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