夏休みの宿題の作文で、
『高田のばばあの、おばあちゃんの家に行きました』 と書き、
↓
× 【高田のばば】
と赤ペンで添削されたことがあった。
小学2年生の時だった。
ウケ狙いではない。
それまで本気で、【高田のばばあ】だと信じていたのである。
新宿【高田馬場】に住んでいた母方の祖母を、私は、
「高田馬場のおばあちゃん」と呼んでいた。
祖母の家には、変なもの、面白いものが沢山あって、
訪れる度に胸がワクワクした。
収集癖のあった祖父が残した、
ガラクタがうずたかく詰まれた、 小さな狭い家だった。
そこに、家電新しモノ好きの祖母のガラクタも加わるのだから、
もうゴミ屋敷だ。
それでも私には、
家全体が、宝箱のようにキラキラ輝いて見えた。
何故こんなものが、老人だけの家にあるのかは謎だったが、
玄関を開けるとすぐに、
かなり大きなジオラマが、目に飛び込んできた。
豆みたいな兵隊がジープに乗ったり、匍匐前進したりしているヤツ。
夜にはちゃんと電気だって点く、本格的なものだった。
ハイカラな祖母は、朝食は必ずパンと決めていて、
しかも、紅茶は香り高いアールグレイを好んでいた。
リプトンの黄色いティーパックしか知らなかった私は、
祖母が、外国ものの缶からスプーンで葉をすくい出して、
ティーポットでちゃんと淹れる、その儀式に憧れた。
・・・・・・・・私が紅茶好きになったのは、その瞬間からだ。
文句なしに、祖母をカッコイイと思っていた。
祖母は、ちょっと変わっていた。
・・・・・・否、“うんと変わっていた”と思う。
年寄りくさくて嫌だと、演歌は絶対に聞かなかったし、
あれも嫌い~、これも嫌い~。努力なんて真っ平ごめん。
人との交わりも鬱陶しかったようで、
いつだってマイペース、自分のやりたいように生きてきた。
本人の話だから、どこまで本当なのかは分からないが、
「おばあちゃんが、日本の女性で2番目に車の免許を取ったんだよ」
と自慢していた。
若い頃は、さぞかし【飛んでる】女だったのだろう。
そんな祖母と私は、昔から妙に気が合い、
多分、
孫の中でも、殊更に可愛がってくれていたと思う。
「おばあちゃんが死んだら、この家はぶぶちゃんにあげるからね」と
こっそり耳打ちされ、
子供だから、それを真に受け喜んでいたけれど・・・・・、
もしかしたら、
他の孫にも、同じことを言っていたのかもしれない。
(さもありなん)
まあ、それはともかく、
私と祖母は仲が良かった。
私は社会人になってからも、会社帰りに高田馬場に寄り、
週末はそのまま泊ったりもした。
「イヒヒヒヒ」と、声に出して笑いながらマンガを読む私を、
「そんなに面白いものなのかね~」と、
なかば呆れながらも、目を細め嬉しそうに眺めていた。
私達は顔もソックリだったが、
病気体質までソックリで、
2人して、いつもどこかしら具合が悪かった。
「私の体質がぶぶちゃんに遺伝してしまって、本当に申し訳ない」と
頭を下げられたことがある。
旅行も一緒に行った。
私が成人した年は、祖母は入院していた。
私は、市主催の成人式には出席せず、
晴れ着姿を見せに、当時は『彼氏』だった家人を伴い、
祖母のいる病院を訪れた。
ベットの上の祖母は「綺麗ね~」と、とても喜んでくれた。
そんな祖母が、
長期の入院をきっかけに、高田馬場の家を引き払い、
特別養護老人ホームに入ったのは、いつだったか。
私も東京を離れたり、
その特養ホームが、車無しでは行くのに困難な場所に有ったこともあり、
なかなか見舞うことが出来なかった。
いつも気にかけつつも、
実際は、帰省すると両実家に行くにとどまっていた。
ある年の夏。
やっと、
私は、祖母のいるホームを独りで訪れることが出来た。
駅からはずいぶん離れた、人気の無い森の中に、
ひっそりとその施設はあった。
受付をすませ、
言われた番号の部屋に入る。
ベットの上にはすっかり年老いた、でも確かにあの祖母の顔があった。
「おばあちゃん、来たよー!」
ゆっくりとこちらを見返る祖母。
「ああっ!」
と、嬉しそうに笑った。
しかし、
次の瞬間には深々と頭を下げ、
祖母は、こう言ったのだった。
「遠いところをわざわざ、ありがとうございます…」
・・・・・・・・・・・ 祖母にはもう、私が分からなかった ・・・・・・・・・・
私は、
驚きはしなかった。
祖母の症状のことは、以前から聞かされていたから。
時には、
自分の子供である母のことすら、分からなくなることもあるらしい。
祖母の頭からは、
高田馬場に住んでいた頃の記憶が、すっぽりと抜け落ちていて、
覚えているのは、
はるか昔の、思い出ばかり。
祖母の頭の中で、私はきっと、
生まれ育った山梨時代の古い知り合い・・・なのだろう。
しかし、
無駄と承知して、私は説明をした。
「おばあちゃんの孫よ。 私達、昔、仲が良かったでしょう?」
「そう・・・だった・・・・かしらねぇ?」
「そうだよー」
祖母は、戸惑っていた。
「すみません、何もかも忘れてしまって・・・・」
他人行儀に、申し訳なさそうに謝る祖母に、
泣きそうになった。
突然、
祖母はポンッと思いついたように、
近くの棚から一冊のノートを取り出し、私に渡した。
「ここに書いて下さい」
それは、
祖母の“忘れたくないこと”を、書き留める為のノートらしかった。
私は、家系の相関図をページに書いた。
「ね、これが私。
S(兄)はよくココに来てるでしょ? その妹。分かる?
今日は私、大阪から来たんだよ」
祖母は紙を見つめ、しばらく考えていた。
「Sの妹・・・・・Sの妹・・・・・」
すると突然、目を輝かせた。
「ああっ! 生き別れになっていたあの赤ちゃん!!
そう、大阪にいたの・・・。
まさか、こうして会えるとは思っていなかったよ。
嬉しいねぇ。ありがとう、ありがとう・・・・」
私の手を痛いくらいにギュッと握り、
今にも泣かんばかりに興奮した。
・・・・・やはり、記憶は混乱しているらしかった。
それでも。
とりあえずは、私を孫と理解してくれた。
『もう、それだけで充分じゃない』と思った。
これ以上の説明は、
もはや不要だった。
ページの余白に、更に大きく、私の名前を書いて渡した。
「私の名前、忘れないでね」
「ここに書いておけば、絶対に忘れないよ!」
ノートを胸におし抱き、
そう、祖母は約束した。
・・・きっと。
次の瞬間には、私のことは消えてなくなるのだろう。
だが、それもよかろう。
まるで一冊の小説になりそうなほど、波乱な人生を送った彼女だ。
ここでは詳しく書けないが、
やむをえない事情で、実の息子を手放した母としての悲しみ。
(先程の“生き別れになった赤ちゃん”というのは、
恐らく、その息子の記憶と混ざったのだと思う)
放蕩だった祖父に、さんざん振り回された憤り。
そして、数々の病気と手術による死ぬほどの痛みと苦しみ。
持って逝くには、
あまりに辛すぎる負の記憶をも共に消してしまえるのなら、
私の存在の消失など、構うものか。
昔はあんなに病弱だったのに、
周りの(そして本人の)予想に反し、
ホームで最年長記録を塗り替えるほどに、長生きした祖母には、
もう、見舞ってくれる昔の知り合いなど誰も居ない。
親戚も、友達も、みな、鬼籍の人となった。
自分ひとりだけが残ってしまった事実を知らぬまま、
霞の中でも、友達と無邪気に戯れていられるのなら、
それで、良いではないか・・・・。
2人で過ごした楽しい記憶は、
私が、大事に胸にしまっておくから。
ちゃんと、ここに。
だから、
大丈夫。
「また、来るよ、
高田馬場のおばあちゃん」
そう伝えると、
うんうん、と、
私にソックリな顔の祖母は、
笑った。
2008年06月12日
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“高田馬場のおばあちゃん”
97歳と5カ月の
立派な大往生でした
『高田のばばあの、おばあちゃんの家に行きました』 と書き、
↓
× 【高田のばば】
と赤ペンで添削されたことがあった。
小学2年生の時だった。
ウケ狙いではない。
それまで本気で、【高田のばばあ】だと信じていたのである。
新宿【高田馬場】に住んでいた母方の祖母を、私は、
「高田馬場のおばあちゃん」と呼んでいた。
祖母の家には、変なもの、面白いものが沢山あって、
訪れる度に胸がワクワクした。
収集癖のあった祖父が残した、
ガラクタがうずたかく詰まれた、 小さな狭い家だった。
そこに、家電新しモノ好きの祖母のガラクタも加わるのだから、
もうゴミ屋敷だ。
それでも私には、
家全体が、宝箱のようにキラキラ輝いて見えた。
何故こんなものが、老人だけの家にあるのかは謎だったが、
玄関を開けるとすぐに、
かなり大きなジオラマが、目に飛び込んできた。
豆みたいな兵隊がジープに乗ったり、匍匐前進したりしているヤツ。
夜にはちゃんと電気だって点く、本格的なものだった。
ハイカラな祖母は、朝食は必ずパンと決めていて、
しかも、紅茶は香り高いアールグレイを好んでいた。
リプトンの黄色いティーパックしか知らなかった私は、
祖母が、外国ものの缶からスプーンで葉をすくい出して、
ティーポットでちゃんと淹れる、その儀式に憧れた。
・・・・・・・・私が紅茶好きになったのは、その瞬間からだ。
文句なしに、祖母をカッコイイと思っていた。
祖母は、ちょっと変わっていた。
・・・・・・否、“うんと変わっていた”と思う。
年寄りくさくて嫌だと、演歌は絶対に聞かなかったし、
あれも嫌い~、これも嫌い~。努力なんて真っ平ごめん。
人との交わりも鬱陶しかったようで、
いつだってマイペース、自分のやりたいように生きてきた。
本人の話だから、どこまで本当なのかは分からないが、
「おばあちゃんが、日本の女性で2番目に車の免許を取ったんだよ」
と自慢していた。
若い頃は、さぞかし【飛んでる】女だったのだろう。
そんな祖母と私は、昔から妙に気が合い、
多分、
孫の中でも、殊更に可愛がってくれていたと思う。
「おばあちゃんが死んだら、この家はぶぶちゃんにあげるからね」と
こっそり耳打ちされ、
子供だから、それを真に受け喜んでいたけれど・・・・・、
もしかしたら、
他の孫にも、同じことを言っていたのかもしれない。
(さもありなん)
まあ、それはともかく、
私と祖母は仲が良かった。
私は社会人になってからも、会社帰りに高田馬場に寄り、
週末はそのまま泊ったりもした。
「イヒヒヒヒ」と、声に出して笑いながらマンガを読む私を、
「そんなに面白いものなのかね~」と、
なかば呆れながらも、目を細め嬉しそうに眺めていた。
私達は顔もソックリだったが、
病気体質までソックリで、
2人して、いつもどこかしら具合が悪かった。
「私の体質がぶぶちゃんに遺伝してしまって、本当に申し訳ない」と
頭を下げられたことがある。
旅行も一緒に行った。
私が成人した年は、祖母は入院していた。
私は、市主催の成人式には出席せず、
晴れ着姿を見せに、当時は『彼氏』だった家人を伴い、
祖母のいる病院を訪れた。
ベットの上の祖母は「綺麗ね~」と、とても喜んでくれた。
そんな祖母が、
長期の入院をきっかけに、高田馬場の家を引き払い、
特別養護老人ホームに入ったのは、いつだったか。
私も東京を離れたり、
その特養ホームが、車無しでは行くのに困難な場所に有ったこともあり、
なかなか見舞うことが出来なかった。
いつも気にかけつつも、
実際は、帰省すると両実家に行くにとどまっていた。
ある年の夏。
やっと、
私は、祖母のいるホームを独りで訪れることが出来た。
駅からはずいぶん離れた、人気の無い森の中に、
ひっそりとその施設はあった。
受付をすませ、
言われた番号の部屋に入る。
ベットの上にはすっかり年老いた、でも確かにあの祖母の顔があった。
「おばあちゃん、来たよー!」
ゆっくりとこちらを見返る祖母。
「ああっ!」
と、嬉しそうに笑った。
しかし、
次の瞬間には深々と頭を下げ、
祖母は、こう言ったのだった。
「遠いところをわざわざ、ありがとうございます…」
・・・・・・・・・・・ 祖母にはもう、私が分からなかった ・・・・・・・・・・
私は、
驚きはしなかった。
祖母の症状のことは、以前から聞かされていたから。
時には、
自分の子供である母のことすら、分からなくなることもあるらしい。
祖母の頭からは、
高田馬場に住んでいた頃の記憶が、すっぽりと抜け落ちていて、
覚えているのは、
はるか昔の、思い出ばかり。
祖母の頭の中で、私はきっと、
生まれ育った山梨時代の古い知り合い・・・なのだろう。
しかし、
無駄と承知して、私は説明をした。
「おばあちゃんの孫よ。 私達、昔、仲が良かったでしょう?」
「そう・・・だった・・・・かしらねぇ?」
「そうだよー」
祖母は、戸惑っていた。
「すみません、何もかも忘れてしまって・・・・」
他人行儀に、申し訳なさそうに謝る祖母に、
泣きそうになった。
突然、
祖母はポンッと思いついたように、
近くの棚から一冊のノートを取り出し、私に渡した。
「ここに書いて下さい」
それは、
祖母の“忘れたくないこと”を、書き留める為のノートらしかった。
私は、家系の相関図をページに書いた。
「ね、これが私。
S(兄)はよくココに来てるでしょ? その妹。分かる?
今日は私、大阪から来たんだよ」
祖母は紙を見つめ、しばらく考えていた。
「Sの妹・・・・・Sの妹・・・・・」
すると突然、目を輝かせた。
「ああっ! 生き別れになっていたあの赤ちゃん!!
そう、大阪にいたの・・・。
まさか、こうして会えるとは思っていなかったよ。
嬉しいねぇ。ありがとう、ありがとう・・・・」
私の手を痛いくらいにギュッと握り、
今にも泣かんばかりに興奮した。
・・・・・やはり、記憶は混乱しているらしかった。
それでも。
とりあえずは、私を孫と理解してくれた。
『もう、それだけで充分じゃない』と思った。
これ以上の説明は、
もはや不要だった。
ページの余白に、更に大きく、私の名前を書いて渡した。
「私の名前、忘れないでね」
「ここに書いておけば、絶対に忘れないよ!」
ノートを胸におし抱き、
そう、祖母は約束した。
・・・きっと。
次の瞬間には、私のことは消えてなくなるのだろう。
だが、それもよかろう。
まるで一冊の小説になりそうなほど、波乱な人生を送った彼女だ。
ここでは詳しく書けないが、
やむをえない事情で、実の息子を手放した母としての悲しみ。
(先程の“生き別れになった赤ちゃん”というのは、
恐らく、その息子の記憶と混ざったのだと思う)
放蕩だった祖父に、さんざん振り回された憤り。
そして、数々の病気と手術による死ぬほどの痛みと苦しみ。
持って逝くには、
あまりに辛すぎる負の記憶をも共に消してしまえるのなら、
私の存在の消失など、構うものか。
昔はあんなに病弱だったのに、
周りの(そして本人の)予想に反し、
ホームで最年長記録を塗り替えるほどに、長生きした祖母には、
もう、見舞ってくれる昔の知り合いなど誰も居ない。
親戚も、友達も、みな、鬼籍の人となった。
自分ひとりだけが残ってしまった事実を知らぬまま、
霞の中でも、友達と無邪気に戯れていられるのなら、
それで、良いではないか・・・・。
2人で過ごした楽しい記憶は、
私が、大事に胸にしまっておくから。
ちゃんと、ここに。
だから、
大丈夫。
「また、来るよ、
高田馬場のおばあちゃん」
そう伝えると、
うんうん、と、
私にソックリな顔の祖母は、
笑った。
2008年06月12日
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“高田馬場のおばあちゃん”
97歳と5カ月の
立派な大往生でした