いつも私のブログを読んで下さってありがとうございます。 お元気ですか。
月日がたつのも早いものですね。
毎月ブログを書いているつもりが、気が付けば3月をとばして、今は4月になっていました。
3月のブログを忘れていました。
いそいで、遅れながら 3月度のブログを書きたいと思います。(こんなことペナルティかも?)
今や龍馬の人気は全国版ですね。
NHKの大河ドラマは毎週、私は涙々の感動の中、没入しています。
3月某日、私は龍馬脱藩の道、梼原へ行きました。
脱藩社中の展示館を、そして 梼原町内の脱藩の道をはじめて歩いてみました。
せいぜい一キロメートルくらいの距離です。現在の平和の中に生活している私達にとって、
およそ 想像もできない龍馬の心中、すべてを捨て決死の覚悟で歩き続けた道、
その道を一歩一歩 龍馬の心に近づきたくて、私は歩きました。
山歩きは、それなりに何度か楽しんだ経験のある私が、
こんな特別にうれしい思いで歩いた道はありませんでした。
もちろん、龍馬がそこにいる訳ではありませんが、なんだかいるような、
又 その時同じこの景色を見ていかような思いであったのか分かる筈はないのだが、
少しはわかったような、私の一方的感情移入でありますが、とても温かい幸せな道中でした。
龍馬に近づきたい人は、この少しの道でも歩いてみてはどうでしょうか。
私と同じ幸せな思いになれると思います。
歴史上、龍馬は全国一位二位を争う有名人です。
ご存じのとおり、それだけ魅力のある人なのですね。
尊敬されたり、好かれたり、色々人の心の中の龍馬がいると思います。
しかし、何といってもすごいと思えるのは、彼自身が現代においても、
人々に勇気と希望を与え続けている希な事実です。
龍馬を見ていると、私も何だってできそうな気になり、あれこれ夢をめぐらし、
語らってしまうのです。家族や仲間と。
私が、いつまでも挑戦心を持ち続けられるのも、今でも生きているかのような彼の存在故なのです。
私の人生に大きな影響を与えてくれています。
彼は脱藩をしました 大志を持って
私も七年前、同じ3月24日 脱藩しました。(岡山の未知の地へ)
小島から玉野へ抜ける道を脱藩の道と名付けております。(かなり、なりきっている自分です)。。。
その時の、おかしな話ですが、脱藩中その道すがら、いたどりを見つけ車を止めた私と家内は
夢中になり、そのいたどりを取りあさりました。
地元岡山の人たちは裕福なんですね。いたどり等ただの山菜にしか思ってないようです。
私と家内は両手でそれを、いっぱいかかえるようにして楽しい旅をした思いでした。
なんだか、のんきな脱藩だったのですが、岡山に落ち着いて八年目を迎えるようになった今、
後世の笑い話にのこる思い出となりました。
この続きは、次の時にさせて頂くとして、私が持っている龍馬脱藩の資料の一部を、
ちょっと御紹介してみましょう。
~龍馬脱藩の道-栃木峠越え~
坂本龍馬と沢村惣之丞は、文久2年(1682)3月24日の夜ひそかに出奔した。
武市半平太の命で見送りに来た河野万寿弥と朝倉で別れた龍馬と惣之丞は、
一路西へ道を急ぎ、伊野、加茂、佐川、斗賀野とすぎて川ノ内の集落へ入った。
いよいよ難所杤木峠(標高534m)越えである。川ノ内から杤木峠を経て
姫野々までの道のりは約10km。
いかに武術で体を鍛えた若い武士とはいえ、急峻な坂道を往くことは大変なことであったろう。
峠に立って休む間もなく二人は三間ノ川めざして駆けおり、三間ノ川から
樺ノ川、西谷、姫野々と道を急いだ。
この道は当時の住還で、弘化元年(1844)には藩主山内豊熙が津野山方面視察の折にこの道を通り、
三間ノ川の佐竹家で休憩をとられている。
龍馬と惣之丞は、この25日の夕刻、無事に檮原の那須俊平宅へ着いた。
このとき龍馬28才惣之丞20才であった。
~脱藩ルート~
同士の沢村惣之丞とともに脱藩の目的で高知を出た。
24日 現在の高知市→伊野町→日高村→佐川町。
25日 杤木峠→葉山村→布施坂峠→東津野村→梼原町で宿泊。
26日 四万川(梼原町)宮野々関を破り、茶屋谷から松ヶ峠番所を経て、
国境の韮ヶ峠を越えた。
ここからは榎ヶ峠を越え、国木・神納・横通り・封事ヶ峠・三杯ヶ谷
(いずれも喜多郡河辺村)を通って泉ヶ峠で宿泊。
27日 北表村→宿間村(いすれも喜多郡五十崎町)ここからは川舟に乗り、
小田川、肱川を下り、昼頃、大州町(大州市)に着き昼食。
さらに船に乗り、夕方、長浜村(喜多郡長浜町)で宿泊。
28日 船で瀬戸内海を渡り、上関(山口県熊毛郡上関町)・三田尻(防府市)
を経て、4月1日に下関に着いた。
坂本龍馬大辞典(新人物住来社/編)より
今月は4月、この月末までに、又、ブログを書くつもりです。
それまでみなさんお元気で。
月日がたつのも早いものですね。
毎月ブログを書いているつもりが、気が付けば3月をとばして、今は4月になっていました。
3月のブログを忘れていました。
いそいで、遅れながら 3月度のブログを書きたいと思います。(こんなことペナルティかも?)
今や龍馬の人気は全国版ですね。
NHKの大河ドラマは毎週、私は涙々の感動の中、没入しています。
3月某日、私は龍馬脱藩の道、梼原へ行きました。
脱藩社中の展示館を、そして 梼原町内の脱藩の道をはじめて歩いてみました。
せいぜい一キロメートルくらいの距離です。現在の平和の中に生活している私達にとって、
およそ 想像もできない龍馬の心中、すべてを捨て決死の覚悟で歩き続けた道、
その道を一歩一歩 龍馬の心に近づきたくて、私は歩きました。
山歩きは、それなりに何度か楽しんだ経験のある私が、
こんな特別にうれしい思いで歩いた道はありませんでした。
もちろん、龍馬がそこにいる訳ではありませんが、なんだかいるような、
又 その時同じこの景色を見ていかような思いであったのか分かる筈はないのだが、
少しはわかったような、私の一方的感情移入でありますが、とても温かい幸せな道中でした。
龍馬に近づきたい人は、この少しの道でも歩いてみてはどうでしょうか。
私と同じ幸せな思いになれると思います。
歴史上、龍馬は全国一位二位を争う有名人です。
ご存じのとおり、それだけ魅力のある人なのですね。
尊敬されたり、好かれたり、色々人の心の中の龍馬がいると思います。
しかし、何といってもすごいと思えるのは、彼自身が現代においても、
人々に勇気と希望を与え続けている希な事実です。
龍馬を見ていると、私も何だってできそうな気になり、あれこれ夢をめぐらし、
語らってしまうのです。家族や仲間と。
私が、いつまでも挑戦心を持ち続けられるのも、今でも生きているかのような彼の存在故なのです。
私の人生に大きな影響を与えてくれています。
彼は脱藩をしました 大志を持って
私も七年前、同じ3月24日 脱藩しました。(岡山の未知の地へ)
小島から玉野へ抜ける道を脱藩の道と名付けております。(かなり、なりきっている自分です)。。。
その時の、おかしな話ですが、脱藩中その道すがら、いたどりを見つけ車を止めた私と家内は
夢中になり、そのいたどりを取りあさりました。
地元岡山の人たちは裕福なんですね。いたどり等ただの山菜にしか思ってないようです。
私と家内は両手でそれを、いっぱいかかえるようにして楽しい旅をした思いでした。
なんだか、のんきな脱藩だったのですが、岡山に落ち着いて八年目を迎えるようになった今、
後世の笑い話にのこる思い出となりました。
この続きは、次の時にさせて頂くとして、私が持っている龍馬脱藩の資料の一部を、
ちょっと御紹介してみましょう。
~龍馬脱藩の道-栃木峠越え~
坂本龍馬と沢村惣之丞は、文久2年(1682)3月24日の夜ひそかに出奔した。
武市半平太の命で見送りに来た河野万寿弥と朝倉で別れた龍馬と惣之丞は、
一路西へ道を急ぎ、伊野、加茂、佐川、斗賀野とすぎて川ノ内の集落へ入った。
いよいよ難所杤木峠(標高534m)越えである。川ノ内から杤木峠を経て
姫野々までの道のりは約10km。
いかに武術で体を鍛えた若い武士とはいえ、急峻な坂道を往くことは大変なことであったろう。
峠に立って休む間もなく二人は三間ノ川めざして駆けおり、三間ノ川から
樺ノ川、西谷、姫野々と道を急いだ。
この道は当時の住還で、弘化元年(1844)には藩主山内豊熙が津野山方面視察の折にこの道を通り、
三間ノ川の佐竹家で休憩をとられている。
龍馬と惣之丞は、この25日の夕刻、無事に檮原の那須俊平宅へ着いた。
このとき龍馬28才惣之丞20才であった。
~脱藩ルート~
同士の沢村惣之丞とともに脱藩の目的で高知を出た。
24日 現在の高知市→伊野町→日高村→佐川町。
25日 杤木峠→葉山村→布施坂峠→東津野村→梼原町で宿泊。
26日 四万川(梼原町)宮野々関を破り、茶屋谷から松ヶ峠番所を経て、
国境の韮ヶ峠を越えた。
ここからは榎ヶ峠を越え、国木・神納・横通り・封事ヶ峠・三杯ヶ谷
(いずれも喜多郡河辺村)を通って泉ヶ峠で宿泊。
27日 北表村→宿間村(いすれも喜多郡五十崎町)ここからは川舟に乗り、
小田川、肱川を下り、昼頃、大州町(大州市)に着き昼食。
さらに船に乗り、夕方、長浜村(喜多郡長浜町)で宿泊。
28日 船で瀬戸内海を渡り、上関(山口県熊毛郡上関町)・三田尻(防府市)
を経て、4月1日に下関に着いた。
坂本龍馬大辞典(新人物住来社/編)より
今月は4月、この月末までに、又、ブログを書くつもりです。
それまでみなさんお元気で。