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四代目桶屋金之助の世界

おろかなるひとり言
胸を張れるような自慢話などはありません。
照れくさい話や恥ずかしい話ばかりです。

つボイノリオ 『本願寺ブルース』

2020-06-10 10:47:22 | あの頃の名古屋フォーク界
【あの頃の名古屋フォーク界 その九】

今は、午前中のラジオの顔(声)となったつボイノリオさん。
スリー・ステップ・トゥ・ヘブン という三人組グループで
『本願寺ブルース』という歌でデビューしている。

このレコード、家にもあった。
まだ小学校六年生ごろだったかと思う。
多分、姉さんか兄さんかどちらかが買ったんじゃないかな。
深夜放送もフォークソングも関心が無かった。
家でレコードを流していたから自然と耳に入ってきて、
おもしろい歌だなと思っていた。

中学生になって深夜放送を聴くようになってから
坪井令夫さんを知った。
おもしろいしゃべりの人だなと聴いていた。
そのころに『本願寺ブルース』の話しをしたとき、
この歌、レコードがあるなと思ってジャケットをみたら、
スリー・ステップ・トゥ・ヘブンのメンバーに坪井令夫さんの名前が書いてある。
他のメンバーは、奥山敬造 さん、岩波啓さん。、
これを発見?したときはビックリしたね。
スリー・ステップ・トゥ・ヘブンは、“その二”に書いた欲求不満フォークソングボーイズの前身だったのか・・・。

坪井令夫さん、いつからか知らないが「つボイノリオ」に改名。
CBCラジオの深夜の番組「今夜もシャララ」、そして「土曜天国」。
若いころよく聴いていた。
年齢が上がっていくと昼間の番組「ばつぐんジョッキー」にも出演。
これもたまに聴いていた覚えがある。
そして現在は、朝の番組「聞けば聞くほど」に出演している。
この番組を聴いている人たちは、おそらく若いころからつボイノリオさんの
ラジオ番組や歌など聴いて育ったんじゃないかな。
僕もその一人でもある。

ラジオのパーソナリティだけではなく、ソロとしても歌を出している。
有名なのが「金太の大冒険」。即、放送禁止になった。
ラジオ局主催のイベントなどにもよく出演されていた。
何度か観に行った。
しゃべりもおもしろいが、歌もおもしろい。
名古屋のコミックソングの帝王かな。

スリー・ステップ・トゥ・ヘブン。
名古屋フォーク界の黎明期のグループだった。

つボイノリオ先生改「本願寺ブルース」
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きくち寛 『貴船川』

2020-06-09 09:18:21 | あの頃の名古屋フォーク界
【あの頃の名古屋フォーク界 その八】

ラジオから聴こえてきたこの歌。
やさしい声で京都の情景がなんとなく浮かんでくる。
題名も歌っている人もわからない。
初めて聴く歌。
ラジオに耳を傾けてじっくりと聴いてしまった覚えがある。
歌が流れ終わるとDJが言った。
「きくち寛さんで『貴船川』でした」と。
この時にきくち寛さんの名前を知った。

これは今でも覚えているが、当時発行されていたタウン誌
“名古屋プレイガイドジャーナル”で
彼が名古屋出身で地元で活躍していることを知る。
山名敏晴さんや江口晶さんと同じく、
今池にあったライブハウス「ユッカ」を拠点に活動していたらしい。
この頃の僕の情報収集はラジオと“名古屋プレイガイドジャーナル”だった。

フォークの流れも変わってきた。
四畳半フォークから抒情派フォークへ。
この先駆けだったかもしれない。
何度聴いても色あせない僕の好きな歌の一曲でもある。

前回の江口晶さんを紹介したコメント欄にブロ友さんが、
きくち寛さんのユッカについて少し書いてあった。
今池ユッカを歌った歌があると。
正直な話し、そこまで詳しくはない。

どんな歌か興味がわいたので、
きくち寛さんとフェイスブックでのつながりを持っている、
僕の友人に昨夜ラインで尋ねてみた。
今朝ラインで回答がきた。直接本人に聞いてくれたみたい。
『ホンキートークピアノ』

僕は結局一度もユッカには行ったことがない。
行ったことのある人ならこの歌を聴けば、店の雰囲気が懐かしいと思うのかもしれない。

あの頃の名古屋のフォーク界。
今池にあったライブハウス「ユッカ」は一つの拠点だった。
そしてライブ情報などは、タウン誌“名古屋プレイガイドジャーナル”だったのだろう。

貴船川 きくち寛(2018年10月26日りとるびれっじ)

ホンキートンクピアノ きくち寛  

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江口晶『ファッション』

2020-06-06 10:48:44 | あの頃の名古屋フォーク界
【あの頃の名古屋フォーク界 其の七】

山名敏晴さんと親交のあった江口晶さん。
「うたのやど」 を設立して地元のミュージャンとともに
名古屋市内でライブ活動などをしていた。

江口晶さんの名前を知ったのは、山名敏晴さんのラジオ番組。
ここで彼の『ファッション』を初めて聴いた。
ものすごくインパクトがあって何か胸に突き刺さるものがあった。

高校生の終り頃だっただろうか。
刈谷駅南口から数分のところに勤労会館があった。
そこで、なぎら健壱さんのライブがあって観に行ったとき
前座で江口晶さんが出演された。
生で聴く『ファッション』めちゃ、よかったね。
もちろん、なぎら健壱さんの『悲惨な戦い』もよかった。(大いに笑った)。
今でもこの感動は忘れられない。

最近、友人から教えてもらったんだけど、
海援隊の「そんぐ・ふぉあ・ゆう』という歌。
これ、江口晶さんが楽曲提供したという。
この歌もじっくりと聴くとなかなかいいね。

この頃は、地元のラジオ局から地元のフォークシンガーがを知った。
ラジオとフォークソング。
密接な関係のあった時代でもあった。

江口晶「ファッション」
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山名敏晴 『旅の終り』

2020-06-05 10:02:56 | あの頃の名古屋フォーク界
【あの頃の名古屋フォーク界 其の六】

前回紹介した高木麻早さんの『コーラが少し』の記事の中で
「作詞・作曲をした山名敏晴さん自身はこの歌を歌っていなかったかと思う」
と書きましたが、このブログを読んだ友人から訂正がありました。
ラジオ番組やライブでも歌っていたそうです。

さてその山名敏晴さん。
この人もバイタリスフォークビレッジ主催の全国フォーク音楽祭中部大会に出場している。
この時、八事裏山フォークオーケストラや北川とみさんも出場している。
まだアマチュアだったけどレベルが高かったんだな。
ここから名古屋のフォーク界が盛り上がっていったと言っても過言ではないと思う。

司会の吉田拓郎を見るのが目的で行った全国フォーク音楽祭中部大会。
振り返ってみればすごい人たちを生でみたんだなぁ。
当時、愛知県体育館に行ってよかった、よかった、よかった。

山名敏晴さんの代表曲といえばこの歌だろう『旅の終り』
1970年代初め、学生などがよく利用した格安の宿泊施設ユースホステルの
歌として全国にこの歌が広まっていったという。
作詞・作曲は舟橋俊久さん。
名古屋大学在学中に北海道旅行中にこの歌を作られたといわれている。

山名敏晴さんもラジオ番組をもっていた。
確かFM愛知だったかと思う。
FMだからAM放送と違ってしゃべりは少なく
おもにフォークソングを中心にかけていた。
この『旅の終り』はエンディングにかかっていたんじゃなかったかな。

このラジオ局主催のイベントだったか、番組の公開録音だったか
忘れたけど一度だけ見に行った覚えがある。
あの頃、ラジオ番組の公開録音などがあってよくゲストのフォークシンガーなど
見に行くことが好きだった。

『旅の終り』
何度聴いても心に響く。
今聴くと、切ない青春時代の終りを告げる歌のようでもある名曲。
悲しいことにCD化されていない。
山名敏晴さんがあの頃リリースしたアルバム「ソングブルース・ワンピース」
ぜひCD化してほしいと願っている。 

旅の終り 山名敏晴 北海道ユースホステルの歌
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高木麻早 『コーラが少し』

2020-06-04 13:30:57 | あの頃の名古屋フォーク界
【あの頃の名古屋フォーク界 其の五】
先日から書き始めた【あの頃の名古屋フォーク界】
これは僕自身の記憶で書いています。
疑問に思ったことはある程度調べてますが、
記憶間違いなどがあるかもしれません。
その点をご了承して読んでくだされば幸いです。

前回は北川とみさんの「忘れたいのに」を紹介させていただきました。
この曲を作ったのが名古屋で活動した高木麻早さん。
このつながりで今回は高木麻早さんについて書かさせていただきます。

高木麻早さんを知ったのはラジオ番組、大石吾郎さんの「コッキ―ポップ」
ヤマハ系のアーティストの歌をかけていた。
当時、好きな番組でよく聴いていた。
僕にとって音楽の情報はやはりラジオ番組だった。

高木麻早さんは番組の初期のころだった。
その後、八神純子さんやあみんの岡村孝子さん、明日香さん、
アラジンや我夢など名古屋勢ががんばっていた。
アーティストの名前をみると名古屋地区はポプコンのレバルが高かったことがわかる。
この人たちからみれば高木麻早さんは大先輩。
目標にしていたのかな・・・。

この『コーラが少し』
詩をじっくりと読むと昭和を感じるが、失恋の歌なのになぜか爽やか感が残る。
僕の好きな歌でもある。
作詞・作曲は、やはり名古屋で活動していた山名敏晴さん。

北川とみさんが高木麻早さんの歌を歌い、
高木麻早さんが山名敏晴さんの歌を歌っていた。
自分の記憶では、山名敏晴さん自身この歌は歌っていなかったかと思う。
山名敏晴さんもFM愛知(だったかと思う)で番組を持っていた。
そこで高木麻早さんの曲をよくかけていた記憶がある。

当時のことは直接会って話したことはないが、
自分の思うのはやはりアーティスト同士のつながりをもって
名古屋のフォーク界を盛り上げていたのかな。
振り返ってみればあの頃はおもしろい時代だったのだろう。

コーラが少し 高木麻早
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