尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

富士山麓の隧道掘抜職人

2013-03-03 10:34:01 | 

 さきのコラム「すごいぞ 富士山麓農民」で紹介した竹谷靱負(たけや・ゆきえ)さんの「富士山雪代と山麓農民──江戸後期資料に見る雪崩災害への対応」(山村民俗の会編『あしなか』二八七号 2009)の末尾には、伊東市の旧池村にあった「赤牛ヶ池」の水を抜くための隧道建設に、「新倉掘抜」という用水路を作った富士山麓農民たちが携わったことを明らかにした論文の紹介がありました。それは河口湖町在住(当時)の中村章彦さんの「新倉掘抜の職人により掘られた池開発隧道──掘抜技術の伝播を検証する──」という文章です。私もこれを読んでみたくて掲載誌『甲斐路100号記念特別号』(山梨郷土研究会 2002)を取り寄せました。というのは、職人たちが隧道掘抜技術という一つの「文化輸送者」になっている事例だと思われたからです。さらに言えば、「移動」のもつ文化輸送の実際を知りたかったからです。今回はこれを紹介します。

 以下、中村章彦さんの論文をかいつまんで紹介します。「池開発隧道」とは、現在も使われている伊東市の池区と八幡区を結ぶやく1kmの排水路のことです。池区(旧池村)にあった「赤牛ヶ池」には鳴沢川が注ぐ大きな池でした。ところがいったん豪雨になると、排水路がないために周りは洪水になり、水がなかなか引かなかったという土地でした。旧池村の願いは池の水を引く隧道を作り、この池を田んぼとして開拓することでした。新倉掘抜の実現を願った河口湖沿岸の人々や溶岩原野の開拓を志した新倉村と同じものです。いや、近世の百姓とはすごいものです。転んでもただでは起きず、禍転じて福となす根性は日本のあちこちに存在したのではないでしょうか。

 さて新倉掘抜の竣工は元治2年(1865)、池開発隧道の着工は明治2年(1869)です。中村さんは、この4年間に旧池村の人々が新倉掘抜の成功を知り、その技術を導入するため新倉掘抜関係者を招聘しようとしたにちがいないと考え、調査を始めたのです。はじめに工事契約関係の古文書から、池開発隧道の工事請負人を特定します。それは、上新倉村の庄兵衛、舟津村の小右衛門、同じく儀七、新倉村の源左衛門の4名でした。でも、この4人が本当に新倉掘抜工事の当事者であるか調べていくのです。

 新倉掘抜関係の古文書によって、庄兵衛と源左衛門は共に、新倉掘抜工事の差配を勤めていたことがわかります。「差配」とは工事を指図して取り仕切る役です。しかし、源左衛門は村役人で代官の廻村時の案内をしていることから、工事当事者としては庄兵衛、儀七、小右衛門に絞られます。そして庄兵衛は掘抜技術の専門家であったことが判明します。残りの舟津村の儀七と小右衛門は明治3年の宗門人別改帳から記載が見つかります。儀七については、四十八歳の戸主で家族は七名、蓮華寺を檀那寺にしていたことがわかったので、蓮華寺の過去帳を調べてもらったところ、明治4年に亡くなっていることが判明します。また小右衛門については上記の宗門人別帳に記載が二名あったのですが、どっちかまだ判明していません。

 しかし、いくら古文書に名前が記載されているといっても、名前が類型化している時代のことで、直ちに同一人物かどうか即断することができません。そこで中村さんは、子孫探索を考えます。もし見つかって工事のことが口承などで伝わっていれば確証が得られます。残る庄兵衛に絞って探索が始まります。そしてついに子孫を見つけ出します。そこには意外な真相が・・・・・、思わずその探索の展開に息をのむ思いですが、続きは次回に。