漱石夫婦は同心円上をぐるぐる回っていて、お互いに交わることがなかった。漱石は小説「道草」でこのように書いています。お互いのことを理解しようとしなかった、という意味だと思います。ドラマ「夏目漱石の妻」の最終回を観ながら、このことをずうっと考えていました。ドラマでは、この言葉通りに物語が展開していきます。「この家はどこか壊れている」という台詞は、この部分を見事に象徴しています。
また、漱石は小説「道草」で、冒頭に紹介した文章の後に、夫婦がお互いに自分が行ったことについて、何か一言付け加えることが出来れば、だいぶ状況は違ってくる、とも書いています。ドラマでは、それが出来ないままにますます状況が悪くなっていく訳です。観ていて息苦しくなります。
そのような状況を変えたのが、「修善寺の大患」です。死線を乗り越えた先の漱石夫婦の笑顔がいいですね。ようやく二人の心が通いあった、という感じでホッとしました。
ドラマの最後で鏡子が、自分と小説「坊ちゃん」に登場するお手伝いの清を重ね合わせて漱石に語る場面が出てきます。自分こそが漱石の理解とする女性であるというのですね。それに対して漱石が「そういうことにしておこうか。」と答える。すごく良かったです。漱石の鏡子に対する思いが溢れてくるようでした。
今度は夏目漱石その人を主人公にしたドラマを観てみたいですね。