徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

夏目漱石

2017-03-27 16:37:33 | 読書
 十川信介氏の評伝「夏目漱石」を読みました。漱石の生涯と作品がコンパクトにまとめられた読みやすい本です。そのなかでいくつか気づいた点を書いてみたいと思います。

 まず、漱石は友人に恵まれた人だということが良くわかります。少年時代の漱石は家族に愛されて成長したわけではありません。むしろ実の親からは忌避され、育ての親である塩原昌之助からは、将来の生活を担保するための存在として扱われました。漱石は家族のうちに母親以外に「心を許せる人間」がいない状況で成長したのです。
 そんな漱石は東大予備門時代に中村是公、芳賀矢一、狩野亨吉、菅虎雄などと交遊を結びます。彼らは生涯に渡って漱石を支える友人となりました。さらに正岡子規との出会いがあります。子規との出会いが、後の小説家夏目漱石を誕生させることとなるのです。家族に恵まれなかった漱石は良い友人を得ることで社会に自分の居場所を見出だすことができたのですね。
 
 次に、漱石がイギリス留学から帰ってきた後に、養父の塩原昌之助から金を無心されたことは有名です。この点につき、十川氏は次のように書いています。
 
 「漱石の日記には、兄と義兄(高田)から、塩原が訴えを起すと聞く条りがある。「情」で金を遣ったにもかかわらず、金だけに執心する目的の人間は屑である旨の強い怒りの表明である。」
 
 同感です。個人的にはこの問題については嫌悪感しか感じません。
 
 最後に、修善寺の大患以降、漱石の心境が変化したことは多くの論者によって指摘されています。
 この点について十川氏は、修善寺の大患以前の漱石は、妻を一段下に置いて見ていたと言います。それが死線を超える経験を経て、自分という存在が妻や友人をはじめとする多くの人々の献身によって支えられていることに気づくわけです。
 
 「余のために是程の手間と時間と親切とを惜まざる人々に謝した。さうして願はくは善良な人間になりたいと考えた」
 (思ひ出す事など)
 
 このような漱石の変化について、十川氏は、あとがきで次のように述べています。
 
 「・・・彼が友人、弟子との対他意識ばかりでなく、妻子、特に妻の鏡子と対等に接しようとする変遷であり、その分岐点はやはり修善寺の大患にある。」
 
 十川氏は、ここで言っている対等とは「穏やかな関係のみを意味するわけではない。」として、「彼岸過迄」以降、それまで男性主人公が抱えていた「淋しさ」の問題が、主人公の妻たちにも現れてくるといいます。私個人の考えとしては、この「淋しさ」というのは、自分を受け入れてくれる相手を持たないことをいうのではないかと思います。十川氏は、そのことをはっきりとした形にして登場したのが「夫の心を確実に摑み、淋しさから脱け出ようとする」「明暗」の「お延」であるというのです。十川氏はお延が描かれることで、漱石の「新しい境地」が示されたのではないかと書かれています。残念ながら、「明暗」は未完に終わったため、この点について漱石がどのような解答を用意していたのかはわかりません。

 漱石がどんなことを考えていたのか、とても興味があります。
 

「失われた時を求めて ゲルマントのほう」2

2017-03-23 16:04:23 | 読書
 「われわれは自分の人生を十全に活用することがなく、夏のたそがれや冬の早く訪れる夜のなかにいくばくかの安らぎや楽しみを含むかに見えたそんな時間を、未完のまま放置している。だがそんな時間は、完全に失われたわけではない。あらたな楽しい瞬間がそれなりの調べを奏でるとき、その瞬間も同じくか細い筋をひいて消えてゆくのだが、以前の時間はこのあらたな瞬間のもとに駆けつけ、オーケストラの奏でる豊饒な音楽の基礎、堅固な支えとなってくれるのだ。かくして失われた時は、たまにしか見いだされなくとも存在しつづけている典型的な幸福のなかに伸び広がっている。」
(訳 吉川一義)
 
 「失われた時を求めて」全編を貫くテーマがあるとしたら、この部分なのかなと思いました。過去に経験した様々な記憶は年を経る毎に忘れていってしまいますが、何かの拍子でふとそれが蘇ってくることがある。この小説ではそれは「典型的な幸福のなかに伸び広がっている」と書かれていますが、忘れていた過去の思い出が蘇ることで、その人の人生をより豊かなものに変えていくことができる。このことをプルーストは、言いたいのではなかったのかなと思うわけです。
 「失われた時を求めて」という題名が意味するのはなんだろうかと、考えてきたのですが、その答えが見つかったようで少しうれしい気持ちがします。もっとも、このことはすでに読んだなかに書かれてあって、私が気づかなかっただけかもしれませんが。
 
 さて、岩波文庫版「失われた時を求めて ゲルマントのほう」の最終巻の白眉は、ゲルマント公爵夫妻のサロンにおいて登場人物たちがおりなす会話にあります。サロンでは古今の文化芸術に関わる話題が次から次へと語られていきます。この内容をしっかりと理解することができれば、ヨーロッパの文化通になれること請け合い、という気持ちさえ起きてきます。けれども、読み進むうちに、登場人物たちが持つ文化芸術に関する知識は単なる飾りに過ぎないことがわかってきます。彼らは文化や芸術について真摯に語り合っているのではありません。他人を嘲り、蹴落とし、社交界における自分の地位を安泰たらしめるためのツールとして、その知識を利用しているに過ぎないのです。バルザックですね。たとえるならば、データのたくさん詰まったコンピューター同士がゲームをしているだけとでも言うのでしょうか。あれだけの膨大な知識を頭に詰め込む努力は買いますが、人間としてはいずれも薄っぺらで、友情とか信頼とかいう言葉がそぐわないひとたちの集まりといった感じがします。上流社会といっても、その実態はこの程度のものかと思うと可笑しくなってきます。
 
 そんななかで、面白いなと思ったのは、ユゴーの話題が出た場面です。
 
 「「ヴィクトル・ユゴーが思想を持つのはべつに悪いことではなくて、むしろ悪いのは、おぞましいもののなかに思想を求めることよ。結局あの人でしょう、文学の読者を醜いのに慣れ親しませたのは。でも人生には、すでに醜いものがいっぱいあるんです。なぜ、せめて読書中くらい醜いものを忘れさせてくれないのでしょうか?人生のなかの目をそむけたくなるような耐えがたい光景、それですわ、ヴィクトル・ユゴーを惹きつけるのは。」」
(訳 吉川一義)
 
 ここを読んだ時、頭に浮かんだのは「レ・ミゼラブル」でした。「失われた時を求めて」には言及されていませんが、悪徳の描写がリアル過ぎるのか、嫌悪感しか残らなかったあの作品について、私と同じようなことを考える人は昔からいたのかと思うと、なんだかうれしくなりました。プルーストがどのように考えていたのかはわかりませんが。
 世の中の暗い部分について書かれた小説はいくつもあります。一番印象的なのは、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」です。読んでいてうめき声をあげたくなるほど、主人公を取り巻く状況は苛烈です。それでも、そのような場面に対して嫌悪感を持つことはありませんでした。読み終わった時、感動して涙が出そうになりました。「レ・ミゼラブル」についてはそうは思えず、いまだに読み切っていません。ワーテルローの戦い以後は拾い読みですませています。
 
 さて、「失われた時を求めて」もようやく半分まで来ました。全巻読了まではまだまだ道のりは長いですが、焦らずゆっくりと読んでいきたいと思っています。

小説フランス革命1

2017-03-21 17:34:58 | 読書
 佐藤賢一氏の「小説フランス革命」を読んでいます。フランス革命といいますと、世界史において四民平等の社会を実現したエポックメーキングな出来事として知られています。のみならず、基本的人権の確立という点で、かなり美化されて伝えられていることがあるのではないか、とも思います。私自身のフランス革命に対する見方がそうなので。それとも、このような見方をしているのは私だけかもしれません。
 
 「小説フランス革命」を読みますと、フランス革命が必ずしも四民平等社会を目指して行われたものではないことがわかります。ありていに言えば、新興ブルジョワジーが自分たちの利益のために圧迫された庶民の怒りを利用して社会変革を企てたものがフランス革命の発端、ということができるのですね。バスチーユの陥落も旧体制への圧力の一つであって、そのことによって自分たちが利益を得ることができるようになれば、それ以上の社会秩序の破壊は望まなかったのです。
 
 バスチーユ陥落後、新たに組織された議会において主流となったのが、これら新興ブルジョワジーでした。これに対してあくまでも純粋に「革命」を推し進めようとしたのが、ロベスピエール、ダントン、マラといった左派。両者の利害をうまく調整してフランスの改革を図ったのがミラボー。小説では「革命のライオン」と書かれていますが、彼こそが、どのようにして革命の火を点け、どのように終わらせるかといったフランス革命の青写真を持っていたのです。もしも、彼が革命の初期にあのようにあっけなく死んでしまわなければ、以後のフランス革命の歴史は変わっていたかもしれません。彼の死後、革命はその様相を徐々に変えていきます。まず、ルイ16世が国外脱出に失敗します。このことが革命の前途にどのような影響を及ぼすこととなるのか。残念ながら、私が読んでいるのはここまでです。続きはまた書きたいと思います。

創作落語「天国からの手紙」

2017-03-09 12:07:02 | 相続・遺言
 昨日、私が所属する東京都行政書士会大田支部で相続をテーマにした研修会を行いました。そのなかで当会所属の行政書士生島清身氏による創作落語「天国からの手紙」を聞きました。生島氏は上方落語協会より「天神亭きよ美」の高座名をいただいている落語家という異色の経歴の持ち主です。「天国からの手紙」は相続遺言をテーマにした生島氏オリジナルの創作落語です。生島氏はこの落語を中心にした相続に関する講演をこれまでに150回以上されており、その活動は朝日、読売、産経などの新聞やNHKの「首都圏ネットワーク」でも紹介されるなど社会的にも注目を集めています。
 
 「天国からの手紙」は、3人の子供たちを残してなくなった母親が、天国に行く前に、子供たちが相続財産について争っている姿を見て、遺言状の大切さについて気づく、というもの。例えば、家族以外にお世話になった人に財産の一部を残したいと思ったときには遺言状が有効であることや、遺言状の内容について遺された家族が争わないようにするために、遺言状とは別に手紙を書き残しておくといったことが落語のなかに織り込まれているわけです。
 
 相続遺言についての入門編として、とてもわかりやすい作品だなという印象を持ちました。特に印象的だったのが手紙の利用です。遺された家族に自分の思いを伝える手段としては、遺言状のなかに付言事項という欄を設けて、そこに記載するということが一般的に行われています。遺言状に記載されたからといって法的な効力はまったくないのですが、遺言の内容について家族の心情に訴える効果を期待して記載されます。これを遺言状という形式ではなく、家族に宛てた手紙として残すということに非常に興味を覚えたのです。この方法が有効かどうかはわかりません。しかし、形式ばらない手紙というツールを利用することで、自分の思いを家族に伝える心情的な効果はより大きなものになるのではないか。そんなことを考えた研修会でした。

ゴリオ爺さん

2017-03-06 16:28:15 | 読書
 「ゴリオ爺さん」は、虚飾の世界に生きる人々の悲劇を描いた物語です。また、親と子、もしくは人間同士のあり方について改めて考えさせられる物語でもあります。
 
 やり手の事業家であったゴリオは、溺愛するふたりの娘たちが結婚する際、巨額の持参金を持たせてやります。もちろん、自分が生活に困ることなど無い様にしっかりと手元に資産を残して。しかし、結婚した娘たちは、彼女たちの夫とともに持参金を使い果たし、ゴリオに金の無心をするようになります。普通に生活をしていれば無くなるはずがないほどの金ですが、彼女たちには足りないのです。何に使うのかと言えば、社交界で綺羅を飾って生きていくためです。読んでいて信じられなかったのですが、バルザックがいた当時のフランスの社交界というのは(今はどうなのかは知りませんが)とてつもなく金がかかる世界だったようです。それも、見栄を飾り、綺羅を飾り、果ては競争相手を蹴落とすための友人作りのために使う金が必要だったのですね。この愚劣極まりない社交界にどっぷりとはまり込んだふたりの娘たちによって、ゴリオは文字通り身ぐるみはぎとられて死んでいくのです。まさに悲惨と言うもおろかと言う言葉がぴったりとくる作品です。
 
 ゴリオが望んだのは娘たちに優しい言葉をかけてもらうことでした。結婚をして、自分のもとに寄り付かなくなってさえも、ゴリオは希望を持ち続けました。その希望を叶えることが出来る唯一の手段が、娘たちの無心にこたえることだったのです。ゴリオは金の使い方について娘たちを教訓することなどありませんでした。ゴリオはただ目の前で娘たちが喜ぶ姿を見ることが出来さえすればよかったのです。それがどのような結果をもたらすかについては全く考えなかったのですね。
 しかし、ゴリオの行為を「愚か」の一言で切って捨てることは出来るのでしょうか。私たちにもゴリオと同じところがあるのではないでしょうか。好きな相手に気に入られたいとは、誰しも思うものですが、そのために周囲が何も見えなくなってしまう怖さを誰もが持っているのではないでしょうか。ゴリオはその反面教師と言うことが出来ると思います。
 
 さて、ゴリオの悲劇の目撃者となるのが、貧乏貴族の子弟ラスティニヤックです。彼はゴリオの妹娘の力によって社交界にデビューを果たし、出世への階段を昇っていきます。けれども、彼はゴリオに対しては最後まで同情心を持って接していきます。彼とその友人の医学生ビアンションのふたりが死んでいくゴリオに対して示した献身は、この我利私欲の妄念に覆われた作品のなかで唯一の救いとも思えるものです。人間の良心というのはこういうものだろう、と思いますね。
 
 物語の最後で、ラスティニヤックは社交界に対して「今度はおれが相手だ!」と言います。彼はゴリオに悲劇をもたらした社交界に対して戦いを宣言するのです。そのあと、彼の運命がどうなるのか。ゴリオの死を看取ったさいに示した良心を忘れないで生きていくのか、それとも、利己主義を身にまとい、社交界のなかでのし上がっていくのか。それはわかりません。