田中大喜氏の『新田一族の中世』を読みました。
新田義貞については、歴史に登場した時点から足利尊氏のライバルだった、というイメージがあります。しかし、筆者の田中氏はそのようなことはなく、新田義貞は足利尊氏の被官の一人にすぎなかった、というのです。新田義貞にたいするイメージは『太平記』によって作られたものというわけです。
それではなぜ、足利氏の被官にすぎなかった義貞が尊氏に伍する存在として歴史に残ることとなったのか。
この点について、田中氏は、新田氏が歴史に登場した時から説き始め、新田氏の辿った歴史を足利氏のそれに対比させながら論を進めていきます。
源義家を祖とする点では同じでも、その後の一族をめぐる状況の変化のなかで、両者の運命の明暗がはっきりとわかれていきます。鎌倉幕府の要職を占めるにいたった足利氏とは異なり、新田氏は凋落。その状態を打開するための方策として新田氏が選んだのが足利氏の被官となることだったのでした。ちなみに、本書には新田氏が当初から足利氏の一門だったという見解も紹介されますが、田中氏は明確に否定しています。あくまでも、二つの一族はそれぞれに独立していたのであり、時勢のしからしむところ、やむをえず、新田氏が足利氏の被官となったのというのです。
この視点から、田中氏は、鎌倉幕府打倒にあたっての義貞の挙兵は義貞自身の考えではなく、尊氏の指示によるものではなかったのではないか、と主張します。その後、両者が敵対関係になるのは、鎌倉幕府を殲滅させた義貞の手腕が鮮やか過ぎて、尊氏がこれに脅威を感じたからだというのですね。
この視点はとても面白いです。後醍醐天皇方には、楠正成をはじめとする将帥が綺羅星のごとくいました。その中で尊氏が義貞を狙い撃ちするようにして敵として名指ししたのは、義貞が源氏嫡流の血を引いていることもあるでしょうが、それ以上に義貞の能力が高かったことの証明になるからです。
また、田中氏は尊氏と義貞双方が、それぞれ南朝、北朝から朝敵とされた点を指摘しています。このことは、足利氏と新田氏が同格の相手として歴史に名前を刻んだことを意味します。
新田義貞の武将としての能力の高さは、足利氏の脅威となりました。また、双方ともに朝敵となったことで、足利氏、新田氏が対等の存在とみなされるようにもなりました。足利氏はこれら2つの点を強調し、「新田氏を打倒することで自らが唯一の源氏嫡流=武家の棟梁の立場にあること」を主張しました。それを物語にしたのが『太平記』だったのです。いわば、義貞を自分たちの引き立て役にしたのですね。
ただ、義貞もただの引き立て役ではなかったと個人的には思います。
尊氏謀反の後、京を中心とした両者の攻防戦が続き、最終的に義貞は越前に逃れることとなります。この時点で、義貞は後醍醐天皇に切り捨てられた形となっていますが、田中氏は反対に義貞の方で後醍醐天皇を見限ったとしているのです。将来的に、独立した政権を打ち立てる考えをもったのではないか、というわけです。越前行きに際して、皇太子恒良親王を奉じたというのも、義貞の将来を見越した一石だったというわけです。
面白いです。もしも、義貞が北陸一円を切り従えていたとしたら、その後の日本史はどのように変わったでしょうか。このようなことを考えると、歴史のロマンが感じられて何だかわくわくします。
結局、義貞の夢は実を結ぶことはありませんでした。しかし、義貞は従来からいわれているように、後醍醐天皇に利用されただけの悲劇の武将ではなく、自らの力で運命を切り開くべく格闘した人物であったのです。