徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

日本文壇史7

2018-07-30 10:46:24 | 日本文学散歩
伊藤整の『日本文壇史』12巻。「自然主義の最盛期」のサブタイトルがつけられたこの巻では明治40年から41年にかけての文壇の歴史が語られます。

11巻で触れられた田山花袋の『蒲団』についての世評が12巻でより具体的に描かれており、この作品が自然主義文学全盛の幕開けとなったことがよくわかります。その後も真山青果、正宗白鳥などが自然主義の作品を次々と発表。批評家たちは「自然主義以外に文学の問題はない」とまでいうようになります。
 
明治41年4月、花袋が読売新聞に『生』を、島崎藤村が朝日新聞に『春』の連載を開始。期せずして、同時期に自然主義を代表する2人の作家が作品を発表し始め、まさに自然主義文学の最盛期といえる状況となりました。
 
このような状況下で、以前、全盛を誇った硯友社系の文士たちはまったく凋落してしまいます。硯友社系の文士たちの中には、自然主義にくら替えするような人もいました。泉鏡花ほどの作家でさえ、作品を発表する場が狭められたことに対して激しい憤りをぶちまけるようになるのです。鏡花は明治41年1月に『草迷宮』を出版しますが、怪奇幻想の世界を主題としたこの作品は、自然主義全盛の時期にあっては「時代遅れ」とみなされてしまいました。
 
明治41年6月、国木田独歩が死にます。自然主義文学の先駆けと呼ばれ、これからの活躍が期待されていた時期の死でした。作品を発表した時にはほとんど見向きもされなかった独歩でしたが、死の間際になってから注目されるようになったのです。樋口一葉の時もそうでしたが、何だか切ない気持ちになります。
 
自然主義文学を含む文学全般に対しては二葉亭四迷が『平凡』を書くことで、痛烈な批判を行いました。ニ葉亭四迷は、『平凡』で文学者たちが価値あるものと思っている、「恋愛、信頼、芸術等」をすべて性欲、支配欲といった欲望の現れとしました。しかも、彼はその主張を自然主義の手法を用いて行うことで「自然主義文学なるものをも嘲笑する作品」を書きあげたのです。
 
自然主義などといっても、結局は人間の色と欲を書いているだけではないか、ということでしょうか。なんだか、身も蓋もない気持ちになります。

背後の足音

2018-07-25 09:46:46 | 読書

ヘニング・マンケルの刑事クルト・ウ゛ァランダー・シリーズ第7弾。

このシリーズは回を追うごとに面白くなります。また、読むスピードが早くなっていきます。主人公のクルト・ウ゛ァランダーに対する親近感がどんどん増してきているだけではなく、主人公を巡る脇役たちの立ち位置がはっきりと見えてくることが、その理由となっているのかも知れません。

さて、この『背後の足音』では、ウ゛ァランダー・ファミリーとでもいうべき登場人物の一人が殺害されるという思いもかけない展開になります。
 
なんてことをしてくれるのか、この作者は!と思うのですが、読み進めていくうちに、この展開のもつ意味が段々とわかってきます。
 
物語のなかで、ウ゛ァランダーたちが犯人にたどりつくことができたのは、殺害された仲間スウ゛ェードベリの隠されていた生活を丹念に洗い出す作業によるものでした。彼の過去を探ることで、出口の見えない状況が180度転換。同時に犯行の背後にあるスウェーデン社会の闇も浮かび上がってくるのです。
 
人間同士の絆は分断され、社会的格差が拡がっていくスウェーデン社会。そのような社会がモンスターを産み出す。このようなスウェーデン社会の闇を描くためにスウ゛ェードベリの殺害という、読者にしてみればショッキングな展開が用意されたということなのでしょう。
 

「不必要とされた人間がますます悲惨な環境で尊厳のない暮らしにさらされている。彼らはそこから“正しい側”に身をおく人々をにらんでいる。楽しさや幸福を享受することを許された人間たちを。」


 犯人は幸福な人々を見るのが嫌でした。この理由だけで8人もの人間を殺害しました。しかもそれを悪いこととは思っていません。逮捕された後も、彼は、自分の行った犯行を一冊の本にして著そうとも考えます。しかも、その背後には、それによって一儲けしようとしている出版社の存在がありました。
 

「吐き気がする」
「犯罪が儲けになる時代だ」

そのことを聞いたウ゛ァランダーの言葉です。
 

読んでいても吐き気がします。このような社会が頭のおかしな犯罪者を産み出しているのではないか、と考えるのは私だけでしょうか。

 

「本書はもはや警告ではなく、現実に起きていることの追認になってしまっている。」

 

これは、訳者の柳沢由美子氏が訳者あとがきで書いていることですが、個人的には、現実の追認どころか、現実のほうが、小説世界を突き抜けてしまっているような気がします。理不尽な暴力がいつでもどこでも起こりうる社会にいつの間にかなってしまっているのが現実だと思うからです。


日本文壇史6

2018-07-21 16:29:56 | 日本文学散歩

『日本文壇史』第11巻は、サブタイトルが「自然主義の勃興期」となっています。明治39年に島崎藤村が『破戒』を出版して一躍文名を上げた翌明治40年、田山花袋が『蒲団』を発表。人間のもつぶざまな部分をあからさまに描いて当時の文壇に衝撃を与えたこの作品は、その後の日本の私小説の一つの形を作りました。


『蒲団』と『破戒』の成功が自然主義の勃興を印象付けたわけです。

 

一方で、夏目漱石の『虞美人草』が朝日新聞に連載され、社会の注目を浴びたのも明治40年です。虞美人草浴衣、虞美人草指輪といった商品が売り出されたといいますから、虞美人草ブームとでもいうべき現象が社会を席巻したのでしょう。

 

この巻では、島崎藤村のモデル問題も取り上げられています。『水彩画家』『並木』といった作品のモデルとされた藤村の友人たちによる批判ですね。この点、伊藤整は次のように書いています。

 

「島崎藤村は、その心がある事に集中しているとき、客観的に自分の立場を顧慮する力を失う傾向があった。~中略~彼は自己保存の欲求と制作の方法とを結びついた一体と考え、そのまま押し通そうとした。そういう彼の心の働きは、結果的に見れば背徳者と呼ばれ、不徳漢と罵られても仕方のない形になったのである。」

 

小説家の覚悟について、伊藤整が藤村の姿を通して訴えているような気がします。ただし、『新生』についてもこの言葉をそのまま当てはめることができるのか、といえばどうでしょうか?

 

藤村に対しては、芥川龍之介のいう「老獪なる偽善者」というイメージを消し去ることが、私にはできないからです。


新田一族の中世

2018-07-01 15:06:49 | 読書
田中大喜氏の『新田一族の中世』を読みました。
 
新田義貞については、歴史に登場した時点から足利尊氏のライバルだった、というイメージがあります。しかし、筆者の田中氏はそのようなことはなく、新田義貞は足利尊氏の被官の一人にすぎなかった、というのです。新田義貞にたいするイメージは『太平記』によって作られたものというわけです。
 
それではなぜ、足利氏の被官にすぎなかった義貞が尊氏に伍する存在として歴史に残ることとなったのか。
 
この点について、田中氏は、新田氏が歴史に登場した時から説き始め、新田氏の辿った歴史を足利氏のそれに対比させながら論を進めていきます。
 
源義家を祖とする点では同じでも、その後の一族をめぐる状況の変化のなかで、両者の運命の明暗がはっきりとわかれていきます。鎌倉幕府の要職を占めるにいたった足利氏とは異なり、新田氏は凋落。その状態を打開するための方策として新田氏が選んだのが足利氏の被官となることだったのでした。ちなみに、本書には新田氏が当初から足利氏の一門だったという見解も紹介されますが、田中氏は明確に否定しています。あくまでも、二つの一族はそれぞれに独立していたのであり、時勢のしからしむところ、やむをえず、新田氏が足利氏の被官となったのというのです。
 
この視点から、田中氏は、鎌倉幕府打倒にあたっての義貞の挙兵は義貞自身の考えではなく、尊氏の指示によるものではなかったのではないか、と主張します。その後、両者が敵対関係になるのは、鎌倉幕府を殲滅させた義貞の手腕が鮮やか過ぎて、尊氏がこれに脅威を感じたからだというのですね。
 
この視点はとても面白いです。後醍醐天皇方には、楠正成をはじめとする将帥が綺羅星のごとくいました。その中で尊氏が義貞を狙い撃ちするようにして敵として名指ししたのは、義貞が源氏嫡流の血を引いていることもあるでしょうが、それ以上に義貞の能力が高かったことの証明になるからです。
 
また、田中氏は尊氏と義貞双方が、それぞれ南朝、北朝から朝敵とされた点を指摘しています。このことは、足利氏と新田氏が同格の相手として歴史に名前を刻んだことを意味します。
 
新田義貞の武将としての能力の高さは、足利氏の脅威となりました。また、双方ともに朝敵となったことで、足利氏、新田氏が対等の存在とみなされるようにもなりました。足利氏はこれら2つの点を強調し、「新田氏を打倒することで自らが唯一の源氏嫡流=武家の棟梁の立場にあること」を主張しました。それを物語にしたのが『太平記』だったのです。いわば、義貞を自分たちの引き立て役にしたのですね。
 
ただ、義貞もただの引き立て役ではなかったと個人的には思います。
 
尊氏謀反の後、京を中心とした両者の攻防戦が続き、最終的に義貞は越前に逃れることとなります。この時点で、義貞は後醍醐天皇に切り捨てられた形となっていますが、田中氏は反対に義貞の方で後醍醐天皇を見限ったとしているのです。将来的に、独立した政権を打ち立てる考えをもったのではないか、というわけです。越前行きに際して、皇太子恒良親王を奉じたというのも、義貞の将来を見越した一石だったというわけです。
 
面白いです。もしも、義貞が北陸一円を切り従えていたとしたら、その後の日本史はどのように変わったでしょうか。このようなことを考えると、歴史のロマンが感じられて何だかわくわくします。
 
結局、義貞の夢は実を結ぶことはありませんでした。しかし、義貞は従来からいわれているように、後醍醐天皇に利用されただけの悲劇の武将ではなく、自らの力で運命を切り開くべく格闘した人物であったのです。