徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

大晦日

2009-12-31 17:59:34 | 身辺雑記
激動の年が暮れて行きます。政権が交代して、少しは世の中が変わるのかなと思いましたが、まったく変わりません。というよりも、以前よりひどくなってきた感じです。どうも不安です。



午後、近所のイトーヨーカ堂まで買い物に出かけました。暮れの最後の日ですから大混雑と思いきや、レジに並んでいる人が案外に少ないのでほっとしました。買い物かご一杯に買い込むわけでもなかったので、混雑するレジに並ぶことに少し抵抗があったのです。少ない買い物で、たくさん買っている人たちを待たせてしまうのは申し訳ないですからね。


今日は、「紅白歌合戦」を見ながら年越しです。


青年

2009-12-30 16:44:17 | 日本文学散歩
「青年」は、森鴎外が明治43年に発表した作品です。夏目漱石の「三四郎」を意識して書かれたともいわれています。ただ、主人公の小泉純一は、小川三四郎よりもずっと大人びています。純一の望みは、作家になることで、そのために人生如何に生きるべきかといった、かなり哲学的なことで悩むのですが、三四郎は違います。三四郎には、一つのことがらに拘泥して悩むといったところがありません。悩みなどというものの手前でふらふらしているだけといった感じがします。個人的には、三四郎の方にシンパシーを感じますね。

 「作る。製作する。神が万物を製作したように製作する。これが最初の考えであった。しかし、それが出来ない。
~中略~
 そんならどうしたら好いか。
 生きる。生活する。
 答えは簡単である。しかし、その内容は簡単どころではない。
 一体日本人は生きるということを知っているだろうか。~中略~現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
 そこで己は何をしている。」

純一の悩みについて書いてある箇所です。よい作品を作るためには、生きていくことの意味を問いかけ、なんらかの結論を出さなければなりません。しかし、純一にはそれが出来ない。出来ないままに東京で出会った友人たちと議論を重ねていきますが、所詮、観念の域を出ません。
ただ、箱根における坂井夫人との関係の清算が、純一に、創作への意欲を沸き立たせます。悩みに対する答えがでたわけではありませんが、関係の清算といった自分で下した決断がゆるがないところから、今ならなにか書けるかも知れないと考えたのです。坂井夫人との関係の清算といっても、実際には世間知らずの純一が玩具にされただけなのですが。
それはともかく、創作する作品の具体的なイメージを得た純一は意気揚々と東京に帰っていくのでした。

「青年」はよく言われるように主人公の内面的な成長を描く教養小説のひとつです。純一の内面的成長を促したものは、友人との議論ではなく、坂井夫人との関係の清算でした。観念ではなく、現実の問題を乗り越えるところに人間の成長があるのでしょう。




ムーミン谷の仲間たち

2009-12-12 11:05:07 | ファンタジー
「ムーミン谷の仲間たち」は、全部で九つの短編からなる短編集です。それぞれに面白いのですが、今日はそのうち、「目に見えない子」について、書きたいと思います。

主人公のニンニは、おばさんのいじめにあって、姿が見えなくなってしまった女の子です。おばさんはニンニがなにか間違ったことをすると、それに対して叱るのではなく「氷みたいなひにく」を言うひとでした。しかも四六時中。ニンニはそれに耐え切れずに姿が見えなくなってしまったのです。そんなニンニをおばさんは、家から放り出してしまいます。正確にはおしゃまさんのもとによこすのです。姿の見えない子供など、家に置いておけないというのですな。なんともいやな女です。おしゃまさんはニンニが元に戻ることが出来るようにと、ムーミンたちのもとに連れてきます。

「それであんたは、その女をどうしてやったの。頭をぶんなぐってやった?」

事情を聞いて憤るミイに対しておしゃまさんは言います。

「ああいうひにく屋の女には、そんなことをしても役にたちません。」

人を虐めても、なんとも思わない人間は、いくらぶんなぐったってどうにもならないってことは一面の真理でしょうね。それはともかく、ムーミンたちはニンニを暖かく迎え入れ、なんとか姿を取り戻してやろうとします。ゆっくりと時間をかけて。

その甲斐あって、ニンニの手足が見えるようになってきます、けれども、顔がどうしても見えません。そのうち、ムーミンたちは、ニンニのおかしなところに気が付きます。それは、ニンニが、言われたことは一通りやるけれども、それに対して、何らかの感情を表すことが出来ないということでした。小説には、遊ぶことも怒ることもできない、と書いてあります。あまりにも、おばさんから虐められ続けてきたために、相手の言いなりになることでしか自分を表現することが出来なくなっていたのです。ある意味、人形のようなものに自分を仕立ててしまったのでしょう。自分の考えを表に出せば虐められる。出さないで、相手の言うことだけを素直に聞いていれば虐められないで済む。そのようなことを考えたのかも知れません。けれど、そんなことしたって、状況はなにも変わらない。むしろ、悪くなる一方でしょう。そのあげくに姿を消してしまったのですね。かわいそうなニンニ。

そんなニンニに向かってミイは言います。

「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません。」

正論です。ただ、もう少し言い方ってものがあるんじゃないのか と私は思います。

結論から言いますと、ムーミンパパのちょっとしたいたずらごころのおかげで、ニンニは自分の姿を取り戻すことが出来ます。それもかなり強烈な個性をともなって。ただ、これはネガティブな意味ではありません。おかしいと思うことに対しては、しっかりと声を上げることが出来る女の子として蘇生したのです。

いじめについては、様々な議論があります、私も以前、ブログで書かせていただきました。基本的にいじめは、いじめる側が100パーセント悪い。いじめられる側には悪いところは絶対にない。いじめる理由なんて、いじめる側が、自己正当化のために後から取ってつけただけの理屈に過ぎない。これが私のスタンスであり、この考え方が社会共通の認識になっていかなければ、いじめは絶対になくならないと思います。

さきほどのミイの言葉は、いじめを容認しているものではありません。そのうえで、生きていくうえで、絶対に必要なことを言ったものです。人生に苦難はつきものです。だからといって、そのたんびに姿を消していたのではなんにもならない。苦難と闘う勇気がなければ、人生を楽しむことも出来ない。そのことを言っているのですね。
ただ、ひとりでは、心が折れてしまいそうなときもあります。そんなときに、ともに闘ってくれる仲間が必要なんです。

ムーミン谷の仲間たちのような人たちが多くなっていったら、世の中はもっと暮らしやすくなるんじゃないかなと思うのですが。いかがでしょうか?