徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

「草枕」を読む

2009-03-24 12:00:19 | 日本文学散歩
旅先で主人公の「余」は、温泉宿の美しい女主人那美さんと出会う。画家で
ある「余」は那美さんを描こうとするが、どうしても画にすることが出来ない。
那美さんの表情に欠けているものがあるため、画としてまとめることが出来
ないのだ。しかし、小説の最後で、出征する従弟を見送る汽車に、偶然、元
夫が乗っていることを見かけた那美さんは茫然としてしまう。そのときに、そ
れまで那美さんの表情に欠けていた「憐れ」が浮かび、「余が胸中の画面
はこのとっさの際に成就」するのである。

このように書きますと、「草枕」は、主人公が那美さんを描くことが主題の小
説のように思えますが、そうではありません。この小説の主題は、漱石が自
分自身の芸術論、文明論を凝った美文調の文体にのせて披瀝しているとこ
ろにあります。

その意味で、この小説は、ストーリーを追いかけて読むものではないので
しょう。読者は、作品中にちりばめられた春の風景や、芸術や文明に対する
考え方を「ふむふむ、なるほど」と思いながら読んでいけば良いのであって、
登場人物の心理にはあまり気を使うことはないと思います。

「生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠
たそうにあおる。身を斜にしてその下をくぐり抜ける燕の姿が、ひらりと、鏡
のうちに落ちていく。」

このいかにも春そのものといったような描写が、全編にちりばめられてい
て、読んでいて非常に心地いいですね。「草枕」の鑑賞には、難しい理屈
などいらないと思います。ただ、この心地よさを味わえれば良いのだと思
います。


けれども一点。小説の最後で語られる文明論は、なかなか考えさせるも
のがありますので、ご紹介しておきたいと思います。

二十世紀の「文明はあらゆるかぎりの手段をつくして、個性を発達せし
める後、あらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする。」

このように個人の個性を主張することは認めるが、ある一定以上の個
性の主張は認めないのが二十世紀の文明であると漱石は言います。

しかし、個性主張に目覚めた「文明の国民」は個性の主張を遮られるこ
とに我慢が出来なくなってくるとも言います。そして、この矛盾する状態
がなにかの拍子に崩れてしまったら、「世の中はめちゃめちゃにな」って
しまうと漱石は言うのです。

ここで言っている「個人の個性」とは、現代では、「個人の権利」と読み
替えてもいいのではないかと思います。

現代社会において、個人が権利の主張をすることは当然です。しかし、
その一方で「モンスター~」と呼ばれる人たちの問題が起きてしまうの
はなぜでしょうか。個人の権利の主張と他人の人格の尊重とのバラン
スが崩れてしまっていることが、問題の根底にあるのではないでしょう
か。

その意味で、「草枕」は、個人の権利の野放図な拡大に対する警鐘
を鳴らしている作品と呼ぶことも出来るのではないかと思います。