動物園日和

日々の徒然なる思いを綴ります。

湿度

2007-06-29 23:48:44 | 日々のつぶやき
朝、ねずみを見る。まだ毛が生えたばかりなのか、目が開いていなくてうろうろしていた。車に轢かれてしまいそうだ。心配だけど何もしてあげられない。

帰り道。湿度がすごいことになっている。
海外行くとき、インドネシア航空とかで行くと、給油でコタキナバルとかいうところに寄る。空港に降り立つと、もあーって湿っぽい空気と独特の匂いがする。機内が乾燥してるから余計その湿度が新鮮なんだけど。何のことはない。日本もそうだな、アジアだなって思った。

駅前のスーパーでコーヒー牛乳を買う。飲みながら帰る。腕に下げたビニル袋に汗がついて気持ち悪い。

蒸し暑い。
もうしばらくしたら梅雨空は遠くへ流れ、
夏がいつの間にかあたりに充満して
蝉の声だの太陽の光だのがあふれだすんだろう。
浜辺には焼き玉蜀黍の残骸がちらばり
子供達は手持ち花火で蟻を焼く。

日焼け止めは飛ぶように売れ
冷凍庫にペットボトルが放り込まれる
海辺の町ではトビが飛び
金魚すくいの金魚が暑さに負けて減っていく

空が心なしか高くなり
入道雲が崩れだすと
夏は急速に終息する。

空気が透明になり
植物の生々しい草いきれや
騒々しい虫達の季節が終わり
もの静かな蜻蛉がとって変わる

獲物を失くした蟷螂が
ふらふらと路上に出て車に轢かれるとき
町に秋が降り立ち、人は夏が死に、もう二度と帰ってこないことを知る。

夏は期待はずれで、騒々しくあっという間に過ぎ去っていく貨物列車のようで
どうせ始まったと同時に終わることだけを恐れてしまうのに
何度でも 何度でも
待ち焦がれている

ということで
早く夏来ないかなあ・・・というか夏休みが。

本日の一曲
LOVE PSYCHEDELICO 「Lady Madonna 憂鬱なるスパイダー」
今「僕達の音楽」見てます。デリコいいなー。あの平熱感が好きです。




月見ル君想フ

2007-06-26 21:37:48 | musicnuts(音楽)
日曜日、青山の月見ル君想フという名の(面白い名前だね)ライブハウスにてとも友だちのおすすめバンドGUIROを見る。

いや。すごく良かった。びっくりしました。

全然知らない曲なのに、するっと入れてくれる。
初めて泳げるようになった瞬間に感じた
自分の周りの水全部が味方になった感じ。

音楽が、楽しかった。歌が良かった。曲がぐっときた。

そんな当たり前のことでストライクするのって実はすごく難しい気がするんだけど。

ヴォーカルさんがタバコの脇山さん似だということで友だちと盛り上がった。
遠くから見ると背格好もそっくり。ライブが終わった後に少し話せたんだけど間近で見るとまたちょっと違った雰囲気(当たり前)。どのメンバーもとても素敵な感じでした。

月見ル~は初めて行ったんだけどステージにおっきなお月様があって
タコライスが美味しくて ドリンクの種類もあって 
基本的に「ご飯が美味しいところ」=「楽園」な自分にとっては最高のところでした。


タバコジュースの歌に
♪ビールの泡の中に 溶け込む音の中に
 彷徨ってるときが一番幸せだろう (パーティブルース)

って曲があるけど本当そうだなーって思う。
いい音楽と優しい人たちがいるところ。
ミラーボールがまわって人が曲のリズムに合わせて体を揺らすところ。
みんなで同じところで同じものを聴きながら
それぞれの心が過去だの未来だのに飛んでいって
煙草の煙が通低音のように低く低く流れていく
期待と緩い連帯と孤独が交差して
音楽が液体みたいにフロアを流れていくあの感じ。

う~ん、いいねえ。
週末に帰れる場所があるのは幸せなことだ。

そんなことを思いながら
フロアを見ていると
会社帰りに駆けつけたらしき背広姿の青年がいて
たまに同じ立場になる私は深く共感を覚えた。
きっとこれを励みに仕事頑張ったんだろうなあ。

彼もまたここの住民なのだ。









見る子ども

2007-06-20 22:49:48 | 体の記憶
この季節
夕方
公園の植え込みや縁側で
小さな羽音が聞こえてくる。

カナブン

空気を茶色く染めながら
懸命に羽を羽ばたかせる。
私の大好きな虫だ。

最近見かけないと思っていたら
一昨日、通りがかりの公園で
湧き出てきたみたいに次々に地面から飛び立っていて
嬉しくなった。


私に見ることの楽しさを教えてくれたのは
小さな生き物たちだ。

子どもの頃の私は
蟻の巣を見ると30分はそこから動かない子だったそうだ。

庭のメダカの池をのぞくのも大好きだった。
空気と繋がっているくらい透明なその世界では
私は呼吸できなくて
水と繋がっているくらい透明なこっちの世界では
メダカは死んでしまう。

お互いが見えているのに絶対踏み込めない世界が
不思議でしょうがなかった。

水の中に手を入れてみる。
水の中の私の手はゆらゆら揺れて頼りない。
メダカが私の手をつつきに来る。黄色い、綺麗なひれを広げて。
その世界ではメダカの方がしっかりと存在している。
 
じっと見ていると小さなミジンコや水底の糸ミミズが踊るようにくねる様子まで見えてくる。タニシがゆっくりと壁をはう。ヤゴが思い出したように水面に上る。
その小さな小宇宙の豊かさにいつも圧倒されてしまう。

今も興味の矛先はほとんどかわっていなくて
蟻が行列をしていたらそれを追っていくし
カナブンの群れを見つけるとそこにしゃがみこんでしまう。


小さい頃、私は見ることに重きをおいていた。
見ること。
その世界の波際まで行って、踏み込まずに静かに見ていること。
今、旅が好きなのもその名残りなのかもしれない。
だんだん視力が悪くなって
裸眼だと視力検査の一番上のCも見えなくなって

それでも大学のときは大体裸眼で通した。
あるとき夜、コンビニから家へ帰るときに
あまりの道の暗さで遠近感がとび
自分の足先が見えなくなって怖くて立ち止まったことがあった。

見えないということは
あるはずのものが見えないということは
とても怖いことなんだと思った。

今はコンタクトをしている。
あまり好きにはなれないけれど。



視力が落ちた今でも相変わらず同じように見えるものが一つある。
眠りに落ちる前の閉じた目蓋の裏に浮かぶ赤や青のぐるぐるは
今も昔も変わらない。

ベースボール / ベースボール

2007-06-11 16:02:06 | この時、あの一曲。
私はまだ学生で、大学の図書館で論文の資料を探していた。
図書館は十時までやっていて、当時の私は一度夕食を食べてからまた図書館で調べものをするのが習慣だった。

控えめに開けた窓から秋の涼しい風が吹き込んでくる。
もう九時は回っていた頃だったと思う。遠くの方から、数人のはしゃいだ声が聞こえてきた。

うちの大学は学内を真っ直ぐに貫く一本道が通っていて、
声は、一学の坂を下って池の前を通りさらに坂をのぼった書籍部の辺りから風に乗って聞こえてきたようだった。

こちらに近づいてくるのがわかった。

やがてその声の言葉一つ一つの輪郭がくっきりとしてきた。

一学あたりで足音も聞こえ始める。3人の人間。女一人男二人の組み合わせだった。やがてその声は歌を歌いだした。しんとした構内に3人の酔っ払った歌声が響いた。六甲おろしが窓の下を通り過ぎて、私はようやく今日だったか一昨日だったかに阪神の優勝が決まったのを思い出した。

その年の暮れに知人が亡くなり、私は論文をどうにか提出した。


六甲おろしの話のようで六甲おろしの話ではない。
昨日は友だちに誘ってもらって、初めて球場に野球を観にいった。
神宮球場の楽天対ヤクルト戦。
信濃町の駅を出ると、同じ電車に乗ってきた人たちが一斉に同じ方向へ進んでいく。みんな野球場へ向かう人たちだ。

神宮球場一円は緑が多くて、大きな木の陰はひんやりとしていた。
地図や案内図を見なくても、人々が一定の方向へ進んでいく。
子どものリュックの中から応援用のプラスチックのバットがはみ出している。
バッティングセンターの近くに野球選手の大きなポスターが飾られていた。

チケットを買って球場の中へ入る。
球場の外野席下の通路には応援グッズやつまみが売られている。
コンクリートの、地下な感じに武道館を思い出した。

その日は朝からひどい雷雨だったけれど、
試合直前のタイミングで空はどんどん晴れていった。

グラウンドにはつば九郎たちがいて
抜群の運動神経をみせつけていた。
試合はあっさり始まった。

嘘みたいに緑の芝生と土とのくっきりとした境界
それらの上に各ポジションに忠実に背番号をつけた選手達が散らばっていく
球場は左右対称にパノラマ的に広がっていて、円形劇場みたいだと思った。
役者と同様に、選手の動きはどこまでも明確に観客に伝わるようになっている。

違うのは、音が聞こえてこないこと。
サイレント映画みたいに、音が聞こえなくても楽しむことができる。
もちろん客席にいると、別の音はたくさん聞こえる。
自分達が立てる音、周りの観客達が立てる音、応援、ホームチームが進塁するごとに流れる曲、CM曲、選手のテーマ曲。ビールの売り子の声。
それらがいっしょくたになって、絡まりあいながら、でもその喧騒の中で、観客それぞれが最早無音で動いている(ように見える)遠くのシルエットに集中している、そのアンバランスさが面白かった。

ヤクルト席にいたのでヤクルトの応援グッズを買い応援。
私は普段野球をほとんど見ないので、ヤクルトの選手も全然知らなかった。
よく野球を観にいく友だちに選手名を教えてもらって少し予習してきたものの
わからないことが多く一緒に観ている友だちに教えてもらいつつ観る。
不思議なもので応援していると愛着が湧くのか、やっぱりヤクルトが勝つといいな・・と思うようになってくる。西日が暑い。前の男の子はグローブをはめている。恐らくホームランボールを取るつもりなのであろう。

ふと気がつくと小学生ぐらいの子どもはほとんどグローブを持っていた。
きっと「ボール、取っちゃうかもしれない」とわくわくしながら家から持ってきたんだろう。父子連れが多い。やはり野球にはお父さんと息子という組み合わせが似合う。

後ろにいた人たちは、毎年同じビールの売り子のお姉さんに会う、ということで盛り上がっていた。球場には色んなドラマがある。

ヤクルトが一点先制してからはなかなか動きがないまま、日が暮れてきた。
ライトが点される。
芝生の上の外野手の影が四方のライトに照らされて4方に分裂する。やっぱり劇場みたいだ。

ボールは、外野席から見るととても小さい。
あの小さい一つのものをこの球場全体の人が注視している。
すごい集中を要する儀式みたいだ。

あのボールがふいに大きく見えることがある。
ホームランボール。外野席まで飛び込んでくるときだ。
五点をとった後の九回裏、最後の最後に楽天がHRで4点までつめより
ひやひやしながらもどうにか無事に終わった。
傘を持った人々が次々に立ち上がり、まとまらない、呑気な東京音頭が流れる。
みんな幸せそうな顔をしている。
ゆるい、うっかりと見過ごしそうなほどの淡い勝利の連帯感がヤクルト側観客席を包んでいる。

帰りもみんなでぞろぞろと駅へ向かう。


あの年の秋、優勝パレードで雨に打たれて体を冷やした私の知人は
それがきっかけで数十日後に亡くなった。

あの最期のパレードで
致命傷となる雨を体に受けながら
彼はたくさんの笑っている人の顔を見ただろう。
彼も笑っていたはず。あの、笑うと目がなくなってしまうような、心からの笑顔で。

昨日、私は初めて球場に野球を観にいった。
初めてで何となく応援していても、ヤクルトが勝ったら嬉しかった。
彼はどんなに嬉しかっただろうか。
たくさんの人が口々に今日の野球について語りながら駅へと向かっていく。
彼も、こういう人の波にいたんだと思った。あれから数年たって、最期のパレードで、彼は楽しくて幸福だったに違いないと、昨日初めて感じることができた。そうして、ほんの少しでもそれと同じものを感じられたことが嬉しかった。

これはあんまりこういうところに書くものではなかったかもしれなくて、もしかしたらやっぱり後で消したりするかもしれないけど。でも昨日はそう思えてよかったと思った。自分にとって。とても小さくて、とても大きなことだった。