動物園日和

日々の徒然なる思いを綴ります。

かいじゅうたちのいるところ

2009-12-07 22:28:37 | 回想
「かいじゅうたちのいるところ」が映画化されたそうです。
原作はモーリス・センダック。私の大好きな絵本作家です。


高校時代、美術の授業だったか、図書室を利用するという授業だったかで図書室で自由に本を閲覧していい時間があった。

美術書のコーナーだったろうか、『センダックの世界』という本があった。黒い、大判のボックスに入ったその本の表紙には「かいじゅうたちのいるところ」で遊んでいるマックスとかいうじゅうたちの姿があった。

私は、小さい頃、この作家の絵本を何冊も読んでいたけれど、彼の絵を絵画作品として見たのはこれが初めてだった。彼の絵は気味が悪いのに温かで暗くミステリアスで何よりもユーモアがあった。図書室の床にじかに座り込んで、ずっと、時間がくるまで、その本のそばを離れなかった。


高校の決め手は図書室だった。中学三年生の学校見学のとき、一目見て大好きになった。図書室は円形で、コロッセオのように、中心に向かって本棚の間に放射状に階段があり、中央が低くなっていた。中央にも何列が本棚があり、部屋の外縁には本棚と自習用の机が配置されていた。この図書室のある高校に通ってみようと思った。


図書室以外にも好きな場所はいくつかあった。美術室。選択科目で美術を選んでいたので、授業はそこで受けた。海に向かって広く、大きな窓があり、天窓もあった。天井が高く、広々とし、開放的な場所だった。

中央廊下は空中に橋のように浮かび、「星の王子さま」に出てくるうわばみの腹のように中央が丸く膨らみ作りつけのベンチがあった。

校舎は向かい合う二つの棟からなり、片方からもう片方を眺めると、ガラスケースの中に作られたアリの巣のように、それぞれのフロアで歩くいろんな生徒たちを見ることができた。


けれど、それらはすべて入れものに過ぎなかった。
私はどうしてもその中にある中身が好きになれなかった。


それでも、特に休むこともなく学校へ行っていた。そんな感じで2年生になって九月になった。相変わらず学校は全く好きになれなかった。休み時間にぼんやりと机の木目を眺めていたとき、ふいにここにいなくてもいいんだ、という考えが頭をよぎった。そのときの、解放感は忘れられない。


仲のいい、本当に気の合う友達もいたけれど、そういう子とはきっとここをやめてもつながっていけることはわかっていた。私はここに必要とされていないし、私もここを必要としていない。そう思うと一刻も早く家に帰り、そのことを言いたくてたまらなくなった。


父は「あなたは頑固だからこちらがなんと言おうと聞かないだろうけど、高校を中退するというのはリスクを負うことだから、そのリスクは自分自身が今後ずっと負っていくものだという覚悟をもって、それでもやめたいならやめなさい」と言った。

翌日学校で先生に話した。先生は友達もいて、コンスタントに学校に来ていて、成績も特に問題なかった生徒が急に辞めたいといいだしたので驚いたようだった。
とりあえず籍は2年が終わるまで置いておくことになった。話の分かる、いい先生だった。

仲の良かった友達何人かにだけ伝えて、荷物を運ぶのを手伝ってもらった。

修学旅行だけは図々しく参加して、それ以外は、退学の手続きのため以外には一日も行かなかった。

大学は行くつもりだったので大検は受けなければならない。担任の先生は私が辞める時に大検用の問題集をくれた。

最後に高校に行った時、私はもうあの大好きだった図書室にも行くことがなくなったのだと思った。私が辞めることで親しい子もそうでない子も何人かが泣いてくれた。私は泣かなかった。

あのセンダックの本は、自分で買わなければならない、と思った。私はあとの1年半、高校とは別の場所を選んだのだから、別の場所で別のやり方でたとえ偏ったやり方になろうとも私なりに成長していかなければならない。


今、私の家の本棚には『センダックの世界』がある。
大検に受かり、そのまま行きたかった大学を受験し、合格した。
高校時代からの大切な友人は今も数年に一回くらいのペースで会えている。(もしこれを読んでいるようなら、そろそろ遊びたいね)

大学や、社会人になってからの友達から高校時代の楽しそうな話を聞くと不思議な感覚になる。みんなが文化祭や運動会なんかで青春を謳歌してる間、私は旅に出たり映画を見たり本を読むことに多くを費やしていたからだ。もちろん恋愛もしたし、友達とカラオケをするようなこともあったけれど、自分の内側を見るのにかなりのエネルギーを使っていた気がする。

その分、大学に進んでからは、自分以外の、他者というものがともかく面白くて今まで使っていなかった筋肉を一気に動かしていくことになったように思う。


もし、もう一度高校生に戻れたら、私はもう一度同じ選択をするだろうか。答えはyesでもありnoでもある。高校生特有の過剰な自意識や潔癖さが決断を後押ししたところは多分にあるだろう。でも、今結果としてあの決断を悔いていないのだから、もう一度同じ状況になったら同じ決断をするようにも思える。


「結果よければすべてよし」
人生を悔いないようにするには今、このときを充実させていくしかないような気がする。今がこれまでのすべての人生の結果であり、これからの人生の最初の一歩なのだから。


「かいじゅうたちのいるところ」のマックスは相変わらず、表紙で楽しそうに怪獣たちと遊んでいる。








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