動物園日和

日々の徒然なる思いを綴ります。

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お久しぶりです

2017-08-18 23:51:43 | 日々のつぶやき
お久しぶりです。皆様いかがお過ごしでしたか。

久しぶりに大学の友達と会って昔のことを話して
その流れで自分のブログを眺めてて
ふと、書きたくなりました。

最後の記事も特にあれを最後にという認識はなく
なんとなく日々に追われて途切れてしまっていたんですが。
その間何をしていたかというと
子どもを産んだり×2、育てたり引っ越したりなんだりしておりました。
子育ては現在も進行中で、2歳と4歳の親になりました。


もう彼らは毎日が狩猟採集生活です。
今日は精霊バッタの大物を。その前はザリガニ釣り。
こないだまではカタツムリ三匹を飼育してキュウリが欠かせない日々。
上の子が幼稚園児で絶賛夏休み中なのもあり日々狩猟採集。

とはいえ一番の要因は恐らく私が生き物好きなせい。

今日も子どもたちが砂場で遊ぶのを横目に公園の砂地に穴を掘るアナバチの観察に夢中。
ツユムシをハンティングしたり穴を掘ったりするアナバチの様子を逐一子どもたちに中継するも
相手にされず・・。


お盆休みはうちのブロックのごみ当番〈共通のごみ箱の曜日ごとの出し入れ〉にあたりそうだったため
夫と子どもたちは実家で私だけ残ることに。

久しぶりにフットワークの軽い生活を謳歌しました。
友達とBunkamuraミュージアムでベルギー奇想の系譜展を見て
ボスやブリューゲルのキャラのたった絵を鑑賞したり
日比谷野音のbonobosのライブに行ったり。
ライブは日が暮れてきたら涼しい風が吹いてどんよりしてた雲もいつの間にかすっかりなくなってて
最高でした。日比谷公園はビアフェスをしててビール飲みながらbonobosとかもう最高だろうなと
下戸な自分はしみじみと思ったわけであります。

川越にも行ったのですが、ひたすらブラタモリの川越編、もう一度見ておけばよかった~と言いながら喜多院をめぐり
ひたすらインスタ映え!〈←インスタしてないくせに。若干馬鹿にしているのか?〉と言いながら氷川神社を彷徨し。いやあ気心知れた友達とは何をしてても楽しいですね。


・・普通、しばらく現場離れていろんな経験を積んだ人はグレードアップしてると思うんですけど
今書いてておよそ自分〈と自分が書く文章〉にはその気配がないのではないかと。
下手するといろいろ退化してる恐れすら。
まあでもこんな感じでときたま思っていることを書いていけたらと思います。



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28.3℃

2010-10-13 23:43:34 | 日々のつぶやき
みたいです。気温。今。10月なんだけど、結構暑いですね。


最近ずっと書くという行為をろくにしていなくて
前に友達が日記に「書く」時期と「全く書かない」時期が交互に来るっていっていたけど
すごくわかる気がする。

考えることが断片的だったりなんだりで全然書ける感じがしなかったので。
別に日常が書いてる時と書かないでいるときで変わるかっていうと
そういうわけではないんだけど。

アウトプットばっかりだとインプットしたくなるし、逆もまたしかり。



書きたいときは
深いプールの底からぐっと体を弓なりにのけぞらせて一気に水面を目指して突き進む人みたいに
急に書くことができたみたいな気がしてくる。

でも多分気のせいなんだけど。

今、アナログフィッシュが

遠回りじゃないよ 
真っ直ぐな道を蛇行しているだけ

って歌った。いい歌詞だ。


線路沿いのマンションに越してきて半年経った。
一番の違い、とまではいかなくても、自分にとって大きな変化だったのが雨だ。
実家で、窓を閉めていて「雨?」と思うと、それはもうほぼ100%雨だった。
しとしとと、ぽつぽつと、激しく、叩きつけるように
色んなバリエーションの雨音の中にくるまれて、壁に窓の雨粒の反射した光がかすかに揺れる。

今住んでいるところでは「雨?」と思って窓を開けても、
すっきりと乾いたコンクリートに何度も肩透かしにあった。
雨のような、さざ波のような音が開けた窓から静かに、緩やかに部屋に流れ込んでくる。
街の音とでもいうのか、遠い音の群れの反響のような正体のつかめない曖昧な音だ。
もう慣れてもいい頃なのに、相変わらず、何度でも雨ではないかと確かめてしまう。


そういう身体感覚の誤差みたいなのは、思った以上に体に根付いているものなのかもしれない。


ミランダ・ジュライの「いちばんここに似合う人」という短編集を読んだ。
登場人物はみんな、鈍感だったり自意識過剰だったり、そのどちらでもあったりする、いわゆる「ずれた」人たちだ。

みんな滑稽で哀しくて可笑しくて、可哀相。
誇り高くて、高尚で、俗っぽくって愛すべき人たちだ。

あとがきを読んでびっくりした。
ミランダ・ジュライ。
どこかで聞いた名前だと思ったら以前見た映画の監督が彼女だったのだ。

その映画はたまたま深夜だかなんだか、変な時間につけたNHKでやっていた。
観るつもりはなかったのに、ちょうど映画のオープニングシーンで、その最初の映像にくぎ付けになって、
「これはなんだか自分には必要な映画なんじゃないか」と思い、あわてて観た。

正直色んなところが荒削りで、未回収の伏線というか、消化不良な部分はたくさんあったけれど、
そんなことは気にならないくらい、印象的ないくつかのシーンとセリフがあって、私は満足だった。

「君とボクの虹色の世界」というのがその映画だ。

それも孤独についての映画だった。
でも、考えてみれば、世の中の文学作品のほとんどが孤独をテーマにしているし、
それ以外の作品だって孤独じゃないことがテーマという意味で孤独がテーマだったりするから何とも言えないけど。

でも彼女の孤独はみっともなくて鮮やかで、無様なんだけど美しくて、何よりもとても明るい。

もしもそれらの哀しみに音があるのだとしたら、それはうんと高いソプラノなんじゃないかと私は思う。
もう少しで超音波になって、聞こえなくなるくらいの高音域。
多分作者は人より多くそれが聞こえるたちなのだろう。
声が裏返って笑われている人や他の人には聞こえないくらい高音で哀しみを表現する人の声を聴きとる人。
恐らくは作者自身もそんな風に声をあげていた人なのだと思う。


彼女の聴きとる孤独ははスタインべックの「ぼくたちはしなかった」の孤独であり、ユアグローの孤独であり、ヴォネガットの孤独であり、まぎれもなく読者一人一人の孤独なのだ。








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哺乳類展

2010-05-31 23:25:08 | 日々のつぶやき
ご無沙汰してました。

上野でやっている大哺乳類展に行ってきました。


剥製だけならウィーンの自然史博物館で壮大なコレクションを見たことがあったのですが、今回の企画展はただ単に剥製と骨格の展示というわけではなくて、きちんとしたコンセプトがあって、系統立てた展示だったのがすごく良かったです。

数十万年単位の進化の過程の中で、人間が滅ぼしたとかそういう単位じゃなく淘汰されていく類があったりして、ありがちな感想なんですが人の一生なんて本当に一瞬なんだなと。あとグリズリーとヒグマが同種であることを今回初めて知りました。


個々の生涯が一瞬であっても、その個々の存在がなければ種としての持続性は保ちえないわけで、その大きな流れに組み込まれていることを普段はあんまり意識しないで人は恋愛して子どもを産んで育て死んでいく。

種としての継続性をアンチテーゼの形で象徴しているのが、画展冒頭に登場する、ライオンとヒョウを人為的に交配させて生まれたレオポンという存在だ。レオポンは繁殖能力を持たなかったそうだ。水が、すべてが川、やがて海へといくのではなく、中には人知れずどこかで行き止まりになってそのまま蒸発していくものもあるのだと思う。そんな風に、進化の行き止まりで静かに消えていく生き物もそれこそ星の数ほどいたことだろう。山崎まさよしの「ぼくらは静かに消えていく」という曲のタイトルを思い出した。


レオポンはライオンの体つきで、ヒョウの模様をほのかに浮かべ、静かにこちらを見ていた。以前、サーカスで見たライオンとトラの交配種、ライガーもきっと同じように、静かに、進化の袋小路の中で消えていく存在なんだと思った。レオポンは美しくて、哀しい。

見ていると色んな事を考える。生き物はやっぱり面白いなと思った。


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2010-02-11 22:58:27 | 日々のつぶやき
それをまたぐ距離になったときに
それが腸だとわかった。

小さい動物の腸。

坂の上の大きな道に出て、
その、もともとの生き物の、残骸ようなものを見た。

鴉が散らばしたのだろう。上空でさかんに、数羽鳴いている。


吐きそうになって、お腹のほうにぐっと重いものがやってくる。




小さいころから家にはいつも生き物がいて
それはもういろいろな動物の生と死を見てきた。

とても悔いの残るものも、安らかなものも
受け入れられるものも、受け入れがたいものも。


人生の半分以上を一緒に過ごしてきた犬が死んでしまった時には
私の一部も死んでしまった。

そういう死には、背景があるから辛くてもまた別のものが残る。

だけど今日みたいなのはただ辛いだけだ。

重い気持ちのまま会社へ行って、そのまま帰って来た。
買ってきた漫画を読むのを中断して家族とそのことを話して、また漫画に目を戻しページをめくった途端、その漫画の中でも猫が車にひかれて死んでいた。

読んでいたのは渡辺ペコの「ペコセトラ」。
漫画の中の猫は、桜の木の下に埋めてもらっていた。
それはあの猫じゃなかったけど、でも、それを読んで少し救われた気がした。



どこか遠く、もっと暖かい場所で、丸くなって眠れるといいね。
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永久欠番

2010-01-21 21:42:08 | 回想
「~さんが亡くなったんだって」

起きがけに聞いたので一瞬なんだかわからない。言葉が一瞬活字のまんま宙に浮かんで、そのまま目の前にばらばらと落ちた。

~さんは近所の人で小さいころから知っている。両親より10才以上年上だろうか。お孫さんもいて、特に入院していたわけでもなく、数日前自宅で倒れてそのまま亡くなったらしい。



今でもわりとそういうところがあるが、小さい頃、私は大きな音が苦手な子どもだった。家族にあまり大きな声を出す人がいなかったので、大きな物音に対する免疫がまったくなかった。朝、ハウス名作劇場で「小公女セーラ」のいじわるな女の先生が、大きな声でセーラをしかる場面になるたんびにあわてて廊下へ逃げていたくらいだ。


~さんは、地声が大きい人だった。
幼稚園児だった私は、彼が誰かを呼んでいるだけでも、大声で怒鳴っているのかと思って、網戸越しに恐る恐る覗いては家族のいるところへ走って避難した。


大きくなるにつれわかったことは~さんはちっとも怖くないし、いつもにこにこと話しかけてくれるということだった。声は相変わらず大きかったけれど。


家にいると、よく彼が植木の手入れをしているときの、高枝鋏のリズミカルなチョキチョキという音が聞こえた。大げさなくしゃみや、飼い犬を呼ぶ声も。



大学を出て、家に戻った時、色んなことが家を出る前とは変わっていた。そうした変化の中には~さんのこともあった。私が家を出ている間に、病気をした~さんはとてもゆっくり歩くようになっていた。庭を歩きまわることもなくなって、高枝鋏はたまに使うことがあっても、とてもゆっくりしたリズムになっていた。前ほど大きくはない声に咳が混じっていた。

もうその声も二度と聞くことはない。
日常から、誰かの立てていた音が消えてしまうこと。
誰かが死ぬこと。
別れること。


友達ができること。
恋をすること。



私たちはみんなでジェンガのようなバランスゲームをしている。色んな人が途中でいなくなってゆく。誰かが去った後はバランスが変わる。失うものが増えるほどバランスを取るのが難しくなる。
新たな誰かが加わり、また別のバランスになる。


誰かの代わりはない。ぴったり同じ位置におけるものなど、この世には何一つない。


最初は、人は下にしかいなかった。下を見ると、支えてくれる人がたくさんいて、自分はてっぺんでたくさんの支えの上にただ寝そべっていた。支えてくれていた人が一人、また一人と去って、いつの間にか少しずつ、上に人がやって来たようだ。そしていつかは私も、役目を終えて隊列から離れていくことになるだろう。


それはとても孤独なゲームだ。家族も恋人も親友も、どんなに近しく思える人同士でもみな、少しずつ足場も違って抱えているものも違っている。持ち場を離れる時期は、人によって違う。


でも、そこには組み体操の、一番下の段同士のような、確かな連帯感と信頼感がある。私たちは、たまに愚痴ったり、苦笑いしたり、腹を立てたりしながら、すぐそばで、一人ひとり別々のものを抱えているという状況そのものを共有することができる。抜かれ続け、積まれ続けるタワーの中で、顔をあげたときに、違うけど同じようにたたかっている大切な人の存在にどれだけ励まされたことだろう。同じ場所にはいれなくても、背負った荷物を少しなら一緒に背負えるかもしれない。顔をあげたときに、この人がいてくれたなら、自分は頑張れるかもしれない。相手にとっても、自分がそうでありたい・・・。そんな思いで、人は人と繋がり、それは世代を超えて何万回でも繰り返される。


高枝鋏の音がしなくなる。
小さい頃サクランボをとっていた八重桜が切り倒される。

景色は変わり続け、私たちは失い続ける。

でも、走光性の、単純で、簡単な本能が、それでももっと先の風景を見たいと言っていて

顔を上げると大切な人たちが周りにいるのがわかって

失う以上にまた新しい何かがその先に待っている気がして

目を逸らせないでいる。








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無題

2009-12-29 00:42:07 | musicnuts(音楽)
CDは持ってるんだけど、ipodにFABFOX以降のは入れてなくて。
クロニクルも入れてなくて。

ずーっと昔に入れた桜の季節と陽炎と赤黄色の金木犀を聴きながら、そういえば銀河も入れてないんだったとオリオンを見上げて思った。

今日は仕事納めだった。一人でささやかにスタバのほうじ茶ラテで乾杯した。甘党にはやっぱりホットチョコかも。

なんとなく花を買いたくなって、閉店間際の花屋を見て、小さなブーケはなくてあきらめた。バスで帰る途中で、もうそっちはしまっているだろうと諦めていた地元の花屋さんがまだあいていたので、途中下車して、戻って花を買う。以前、同級生が亡くなって、おうちにお焼香をあげに行く時、ここで花束を作ってもらった。そのとき、一緒になって泣いてくれた店長さんが今日はお正月風の赤を効かせたかわいらしい花束を包んでくれた。



ここ数日なんとなく頭の隅にいつもあって
でも話題になった時も普通に話してて

でも今日、花屋からの帰り道でPERIDOTSの「労働」聴いていたら、気がついたときにはしゃくりあげるようにして泣いててびっくりした。本人の歌聴いてる時は泣かなかったのに。

何年も前にジャパンサーキットで、渋谷AXか恵比寿のLIQUIDROOMかどこかで実際に見たら、ライブがすごく良くて、本当に独創的でびっくりした。
ヒアリングで絶対お地蔵さんって言ってるよなーって思ってたら本当に言ってるし。「いやしかしなぜにー」ってセリフのリフレインでなんであんだけ踊りたくなるのかとか。フェスとかで、見るたびにステージが大きくなっていって、大きな箱でもすごい一体感で。私のようにワンマンに行ったことがないような人間でも、飛び入りでも、一見さんでも、歌詞に面食らってても、まるごと包んで持っていけるような、文系男子にみせかけて緻密な理系肌でもあり、何より最終的には肉体に訴えかける体育会系なところのあるバンドだったと思う。カウントダウンのあの大きなearthステージで、華奢な体にサラッサラの黒髪な彼が、凄まじいエネルギーを放つ光景を、たくさんの人たちが彼の声に嬉しそうに揺れる光景を、見ることはもう、ない。




フジファブリックのステージは音楽が発熱しているようなステージだった。感情を解放して、体を預けてしまえるくらいゆるぎなく強い音楽がそこにはあって、それを発していた人がいなくなったのだからそれは本当にきついことだと思う。

でも、泣いても、知らないふりをしても、もうどうしようもないくらいその「不在」という存在があってカウントダウンは予定通りやってくる。今日はもうクリスマスイブから四日も経ってしまって、どこかにはずっとあるといっても、普通に仕事して普通にご飯食べて、普通にお正月用の花を買って、体はどんどん未来へと進んでいく。



どっか
この地上のどこか
僕の体があるのなら
声を返せるのだろう
ぽっかりと空いた穴などふさいで

無理はしない
僕は向こうにいるよ
”愛したら報われる”んなら
どんな手でも使うところだけれど
君のいない世界にだって
おそらく何らかの幸せを見出す
そんなことは当たり前になってしまう
働こう
 

(PERIDOTS「労働」より)


若いままで、すごい才能があって。

でも、年取って、なんかおじさんになったねって言われながらも歌い続ける姿が見たかったな。





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抱きつく

2009-12-23 21:16:32 | 回想
大きな駅に飾られたクリスマスツリーの横の柱には、いくつかの袋を持ってアウトドアジャケットにくるまったおじさんがしゃがみ込んでいた。

去年新宿サザンクロスで見た、夜景を撮る、温かそうな色とりどりの服を着た人たちの間を縫って、もう何年も洗っていない、色さえ分からなくなった服を着てリヤカーを押した老人のことを思い出した。

昨日は冬至で、朝は冷え込みが激しかった。


ふいに学生の頃の教授の話が頭をよぎった。教授が学会の関係である大きな町に行ったときの話だ。その先生は地理学を歴史的観点から取り上げていて、そういった関係でその町の近くのドヤ街に行ってみることにしたのだそうだ。町に一歩踏み入れると、彼はスーツを着てきたことを後悔した。その町でスーツを着ている人間は彼一人だった。

そして、彼はそこの住民と思しき中年の男性に抱きつかれた。


その先生はおじさんで、おじさんがおじさんに抱きつくというのがどうしてもぴんとこなくて、妙に印象的な話だった。


ドヤ街のドキュメンタリー番組を見たことがある。
以前ほど日雇いの仕事がなく、朝の集合所にやってくる車に乗れる人は本当に少ない。高齢化が進み、福祉の隙間からこぼれおちるように孤独死する人もいる。


知らないおじさんは知らないおじさんにどんな気持ちで抱きついたのだろうか。そこにあるのは、人に抱きつくとき我々が抱く、好きな人への瑞々しい感情でもなく、友達に対しての強い信頼でもなく、親子の愛情でもない。そんなのって妖怪みたいじゃないか。おんぶおばけとか子泣き爺とか。スーツを着た、身なりのいい男性への嫉妬だったら殴るのだっていい。自分の鬱屈した感情の発散なら大声で怒鳴ってもいい。でもその男性は抱きつくことを選んだ。それは咄嗟の感情の発露としてはかなりとんちんかんなものだ。
とんちんかんで、滑稽で、笑ってしまった後にたまらないほど淋しくなる。

本当の話というのは往々にしてそういうものだ。
そこには教訓もなく天からの啓示もない。

謎は謎のまま。勧善懲悪もなければ、起承転結もない。尻切れとんぼに突然、幕が下りる。

でも、何かがもう少しで見つかりそうで、何度も何度も取り出してはひっくり返してみる。銀紙の雪が音もなく降り積もるスノードームみたいに。



帰りに古本屋に寄った。古本屋の一か所の入り口は内側のドアマットに猫が陣取っていた。黒とぶちの、とっても肉づきのいい貫禄のある猫だ。外側のドアマットではその猫をうらやましそうに見つめる、ロシアンブルーの猫。内と外はドア一枚で隔たっていて、店主は外の猫に気づいているのかいないのか、外の子を中に入れる気配はない。

家を持つもの、持たないもの。なんとなく、宮沢賢治の「シグナルとシグナレス」という題名が思い浮かんだ。



「そのさびしさは、君自身の人生の孤独から来るんだよ。とはついに言えなかった。」という文章は誰の小説で読んだんだっけか。割と最近読んだはずの、でも遠ざかっていた記憶の端っこをきれぎれに追って行っても、舌の上で転がした飴がいつの間にか溶けてしまったように、いつの間に消えてしまう。


先生は、いつかおじさんのことを思いだすだろうか。おじさんは、いつか先生に抱きついたことを思い出すだろうか。もしかして、人生の最期に、そういえば最後に抱き締めたのは知らない、スーツを着た奴だったなあとか、最後に抱き締められたのはあのおじさんだったなあとか思うことがあるのだろうか。


死が迫り一番最期に思い出すのは、どんな、誰のぬくもりの記憶だろうか。

クリスマスで、町が明るい。町が明るくて、光があふれている。でも、気持ちを動かすのは、そういうものではなくて、もっと奥にあるものだ。それは謎めいていて、一貫性がなくて、でも、すとんと腑に落ちるような感覚的なもので、場合によってはおじさんを抱きしめるおじさんの話だったりする。


本日の一曲
鬼束ちひろ「We can go」

どうか完全なものたちが そこら中に溢れないように
We can go to the place
Where we're forgiven



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I LOVE マミー.

2009-12-16 00:02:22 | 日々のつぶやき
帰り道は空気が冷たすぎて
瞼が薄くなった感じがして目がうまく開けられなくなる

乾いた冬の空気の中に吐き出した息が一瞬白く霞んで
そのまま音もなくなくなっていく。

最近やたらとマミーを買ってしまう。
小さい頃よく飲んでいた乳酸飲料。やたらカラフルな赤にかわいいライオンたちの絵の(あのライオンはマミーレオというらしい)。


そしてやたらとお風呂にばかり入っている。お風呂に入らないとあったまった気がしないのだ。

だからバスソルトの減りが早い。

ホット飲料。
ルームソックス。
温めた牛乳に蜂蜜をいれること。
ふとんにくるまって眠ること。
白いお気に入りのコート。
ブーツ。

冬の好きなものはたくさんある。


冷たくかじかんだ手で開く携帯の画面に浮かぶメール着信のしるし。
澄み切った冬の空にくっきりとうかぶオリオン。

横に歩く友達が笑った瞬間の白い息。
乾いた落ち葉の上を歩くこと。

霜柱を踏みしめるときのさくさくとした感触。
寒いねーといいながら公園で飲むあったかいお茶。

凍った水たまりの割れた欠片。
町のイルミネーションのちかちか。


寒さで冴えた気分。


もうすぐ冬至。お日様が沈んだら、柚子湯に入ろう。
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かいじゅうたちのいるところ

2009-12-07 22:28:37 | 回想
「かいじゅうたちのいるところ」が映画化されたそうです。
原作はモーリス・センダック。私の大好きな絵本作家です。


高校時代、美術の授業だったか、図書室を利用するという授業だったかで図書室で自由に本を閲覧していい時間があった。

美術書のコーナーだったろうか、『センダックの世界』という本があった。黒い、大判のボックスに入ったその本の表紙には「かいじゅうたちのいるところ」で遊んでいるマックスとかいうじゅうたちの姿があった。

私は、小さい頃、この作家の絵本を何冊も読んでいたけれど、彼の絵を絵画作品として見たのはこれが初めてだった。彼の絵は気味が悪いのに温かで暗くミステリアスで何よりもユーモアがあった。図書室の床にじかに座り込んで、ずっと、時間がくるまで、その本のそばを離れなかった。


高校の決め手は図書室だった。中学三年生の学校見学のとき、一目見て大好きになった。図書室は円形で、コロッセオのように、中心に向かって本棚の間に放射状に階段があり、中央が低くなっていた。中央にも何列が本棚があり、部屋の外縁には本棚と自習用の机が配置されていた。この図書室のある高校に通ってみようと思った。


図書室以外にも好きな場所はいくつかあった。美術室。選択科目で美術を選んでいたので、授業はそこで受けた。海に向かって広く、大きな窓があり、天窓もあった。天井が高く、広々とし、開放的な場所だった。

中央廊下は空中に橋のように浮かび、「星の王子さま」に出てくるうわばみの腹のように中央が丸く膨らみ作りつけのベンチがあった。

校舎は向かい合う二つの棟からなり、片方からもう片方を眺めると、ガラスケースの中に作られたアリの巣のように、それぞれのフロアで歩くいろんな生徒たちを見ることができた。


けれど、それらはすべて入れものに過ぎなかった。
私はどうしてもその中にある中身が好きになれなかった。


それでも、特に休むこともなく学校へ行っていた。そんな感じで2年生になって九月になった。相変わらず学校は全く好きになれなかった。休み時間にぼんやりと机の木目を眺めていたとき、ふいにここにいなくてもいいんだ、という考えが頭をよぎった。そのときの、解放感は忘れられない。


仲のいい、本当に気の合う友達もいたけれど、そういう子とはきっとここをやめてもつながっていけることはわかっていた。私はここに必要とされていないし、私もここを必要としていない。そう思うと一刻も早く家に帰り、そのことを言いたくてたまらなくなった。


父は「あなたは頑固だからこちらがなんと言おうと聞かないだろうけど、高校を中退するというのはリスクを負うことだから、そのリスクは自分自身が今後ずっと負っていくものだという覚悟をもって、それでもやめたいならやめなさい」と言った。

翌日学校で先生に話した。先生は友達もいて、コンスタントに学校に来ていて、成績も特に問題なかった生徒が急に辞めたいといいだしたので驚いたようだった。
とりあえず籍は2年が終わるまで置いておくことになった。話の分かる、いい先生だった。

仲の良かった友達何人かにだけ伝えて、荷物を運ぶのを手伝ってもらった。

修学旅行だけは図々しく参加して、それ以外は、退学の手続きのため以外には一日も行かなかった。

大学は行くつもりだったので大検は受けなければならない。担任の先生は私が辞める時に大検用の問題集をくれた。

最後に高校に行った時、私はもうあの大好きだった図書室にも行くことがなくなったのだと思った。私が辞めることで親しい子もそうでない子も何人かが泣いてくれた。私は泣かなかった。

あのセンダックの本は、自分で買わなければならない、と思った。私はあとの1年半、高校とは別の場所を選んだのだから、別の場所で別のやり方でたとえ偏ったやり方になろうとも私なりに成長していかなければならない。


今、私の家の本棚には『センダックの世界』がある。
大検に受かり、そのまま行きたかった大学を受験し、合格した。
高校時代からの大切な友人は今も数年に一回くらいのペースで会えている。(もしこれを読んでいるようなら、そろそろ遊びたいね)

大学や、社会人になってからの友達から高校時代の楽しそうな話を聞くと不思議な感覚になる。みんなが文化祭や運動会なんかで青春を謳歌してる間、私は旅に出たり映画を見たり本を読むことに多くを費やしていたからだ。もちろん恋愛もしたし、友達とカラオケをするようなこともあったけれど、自分の内側を見るのにかなりのエネルギーを使っていた気がする。

その分、大学に進んでからは、自分以外の、他者というものがともかく面白くて今まで使っていなかった筋肉を一気に動かしていくことになったように思う。


もし、もう一度高校生に戻れたら、私はもう一度同じ選択をするだろうか。答えはyesでもありnoでもある。高校生特有の過剰な自意識や潔癖さが決断を後押ししたところは多分にあるだろう。でも、今結果としてあの決断を悔いていないのだから、もう一度同じ状況になったら同じ決断をするようにも思える。


「結果よければすべてよし」
人生を悔いないようにするには今、このときを充実させていくしかないような気がする。今がこれまでのすべての人生の結果であり、これからの人生の最初の一歩なのだから。


「かいじゅうたちのいるところ」のマックスは相変わらず、表紙で楽しそうに怪獣たちと遊んでいる。






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冬の蟷螂

2009-11-13 17:19:36 | 日々のつぶやき
病院からの帰り道
蟷螂が死んでいた。

蟷螂は冬になってもたまに見かける。

弱ってたり、道端で死んでいるのを見かけることも多い。

食料になる他の虫がいないのに、なんでこんな時期まで、と不思議になる。


昨日、今日と急に冷え込んでいる。銀杏や花水木が色づいて、落ち葉が道に厚く降り積もっている。寒そうな、薄い灰色の空を烏が数羽で諍いながら飛んでいく。

寒くて、あんまりきちんとものが考えられない。考えれば考えるほどあんまり正しいとは思えない考え方に近づいていっている気がする。


虫は、かわいいとかがなくて
全く気持ちが通じない感じがして
その、違う世界にいる感じの外骨格とか複眼とかになぜかすごく惹かれてしまう。

ずっと見ていると
「気持ち悪い」とか「かわいい」とかそういう感情みたいのから離れて、
一対一に向き合って、張りつめた静かな世界にいる感じがする。

でも今日見た蟷螂の複眼にはもう何も映っていない。

サザンアイというおもちゃがある。小さなベルの形をしていて、てっぺんからレンズを覗き込むと、昆虫の複眼のように何十もの重複した世界が映る。

死の最後の瞬間に蟷螂が見たのは何十にも連なった自分の命を奪うタイヤだったのだろうか。


もうすぐ、長く厳しい冬が始まる。
春まで生き延びる蟷螂もいるのだろうか。





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