三年坂について、新たにわかったことを記しておく。
前回「三年坂という名前の坂が六坂ある」と書いたが、横関英一さんの「江戸の坂東京の坂」(昭和44年出版→2010年ちくま学芸文庫で復刊)という文献によれば、別な場所にもう一つあったので、まずそれを紹介しよう。
(逆に、杉並区の三年坂は取り上げられていない。たしかに江戸時代の杉並区は「江戸市中」ではないから当然といえば当然なのだが)
場所は台東区谷中5丁目(旧住所は台東区初音町4丁目)、上野の山から続く台地から藍染川の谷に降りる坂で、周りは寺院が多い。
横関さんの著書では
「七面坂と三崎坂の中間にあるので中坂とも言った。
坂の正面、崖の上に塔婆や墓石が見える。
霊梅院と本立寺の墓地である。
ここで坂は直角に右へ曲がる。
(中略)
この坂下一帯の窪地は蛍沢と言って、江戸時代のホタルの名所出会った。
そこでこの坂の、もう一つの名を蛍坂とも呼んだのである」
先日、谷中へ赴きその坂を探してみると、たしかに狭く急で直角に曲がる坂道があり「蛍坂」の名前とともに、別名「三年坂」とも呼ばれたとの説明があった。
ちゃんと残っているのは嬉しいことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/36/83f5a6b7c5f4b86207ce4b528bb07ef1.jpg)
さて、三年坂について横関さんは次のように述べる。
「三年坂という坂は、坂のそばにお寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を行ったもののようである。」
たしかに、本家の(?)京都の三年坂は、清水寺に続く坂道だし、(もっと言えば近くに「鳥辺野葬送地」もある)、地元杉並の坂も、寳昌寺のすぐ横にある。
おまけに急な坂だから転ぶこともあるだろう。
なので、「三年坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」という伝説も生まれたのだろうと納得する。
そう考えてみたところで、いささか疑問なことが出てきた。
かたや三年峠である。
三年峠の様子がまるで違うのだ。
三年峠は「あまり高くない、なだらかなとうげでした。春には、すみれ、たんぽぽ、ふでりんどう、とうげからふもとまでさきみだれました。れんげつつじのさくころは、だれだってため息の出るほどよいながめでした。秋には、かえで、がまずみ、ぬるでの葉。とうげからふもとまで美しく色付きました。白いすすきの光るころは、だれだってため息の出るほどよいながめでした。」(光村版国語教科書3年上)
ちょっと待て。
こんな峠なのに「転んだら三年のうちに死ぬ」という言い伝えがあったとはおかしくないか?
実を言えば、こんな疑問は、現職の頃には全く思いつかなかったのである。
そこで、あれやこれや調べてみると意外や意外。
とんでもないことがわかったのである。
この話を「朝鮮の民話」として理解していたのだが、作者の李錦玉(リ・クムオギ)さんは、1929年大阪は阿倍野区生まれの在日作家だった。
さらに、「多分父の所へ手紙の代筆を他の見に来たおじいさん方じゃないかと思う。ちょくちょく来たおじいさんから、その話を言いたのを断片的に覚えておりました。」と語り、日本で在日のおじいさんから聞いた話を元に、李さんが創作したことがわかったのである。
(なんということでしょう!)三年峠をめぐる謎は、まだまだ続きます。
-K.H-
前回「三年坂という名前の坂が六坂ある」と書いたが、横関英一さんの「江戸の坂東京の坂」(昭和44年出版→2010年ちくま学芸文庫で復刊)という文献によれば、別な場所にもう一つあったので、まずそれを紹介しよう。
(逆に、杉並区の三年坂は取り上げられていない。たしかに江戸時代の杉並区は「江戸市中」ではないから当然といえば当然なのだが)
場所は台東区谷中5丁目(旧住所は台東区初音町4丁目)、上野の山から続く台地から藍染川の谷に降りる坂で、周りは寺院が多い。
横関さんの著書では
「七面坂と三崎坂の中間にあるので中坂とも言った。
坂の正面、崖の上に塔婆や墓石が見える。
霊梅院と本立寺の墓地である。
ここで坂は直角に右へ曲がる。
(中略)
この坂下一帯の窪地は蛍沢と言って、江戸時代のホタルの名所出会った。
そこでこの坂の、もう一つの名を蛍坂とも呼んだのである」
先日、谷中へ赴きその坂を探してみると、たしかに狭く急で直角に曲がる坂道があり「蛍坂」の名前とともに、別名「三年坂」とも呼ばれたとの説明があった。
ちゃんと残っているのは嬉しいことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/36/83f5a6b7c5f4b86207ce4b528bb07ef1.jpg)
さて、三年坂について横関さんは次のように述べる。
「三年坂という坂は、坂のそばにお寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を行ったもののようである。」
たしかに、本家の(?)京都の三年坂は、清水寺に続く坂道だし、(もっと言えば近くに「鳥辺野葬送地」もある)、地元杉並の坂も、寳昌寺のすぐ横にある。
おまけに急な坂だから転ぶこともあるだろう。
なので、「三年坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」という伝説も生まれたのだろうと納得する。
そう考えてみたところで、いささか疑問なことが出てきた。
かたや三年峠である。
三年峠の様子がまるで違うのだ。
三年峠は「あまり高くない、なだらかなとうげでした。春には、すみれ、たんぽぽ、ふでりんどう、とうげからふもとまでさきみだれました。れんげつつじのさくころは、だれだってため息の出るほどよいながめでした。秋には、かえで、がまずみ、ぬるでの葉。とうげからふもとまで美しく色付きました。白いすすきの光るころは、だれだってため息の出るほどよいながめでした。」(光村版国語教科書3年上)
ちょっと待て。
こんな峠なのに「転んだら三年のうちに死ぬ」という言い伝えがあったとはおかしくないか?
実を言えば、こんな疑問は、現職の頃には全く思いつかなかったのである。
そこで、あれやこれや調べてみると意外や意外。
とんでもないことがわかったのである。
この話を「朝鮮の民話」として理解していたのだが、作者の李錦玉(リ・クムオギ)さんは、1929年大阪は阿倍野区生まれの在日作家だった。
さらに、「多分父の所へ手紙の代筆を他の見に来たおじいさん方じゃないかと思う。ちょくちょく来たおじいさんから、その話を言いたのを断片的に覚えておりました。」と語り、日本で在日のおじいさんから聞いた話を元に、李さんが創作したことがわかったのである。
(なんということでしょう!)三年峠をめぐる謎は、まだまだ続きます。
-K.H-