蔵書目録

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「丹沢山」 武田久吉 (1913)

2018年03月06日 | 趣味 1 登山・ハイキング

 

 八月丗一日の朝、曾屋の旅館を出たのが四時半であつた。前日来の快晴なりしに似ず、空には雲が多い、山にもちぎれた雲が掛つて居て、朝瞰に映じて色は紅に、所謂朝やけだ、あまり有望な空あいではない、念の為めに宿の者に、此の辺の朝はいつもかうか問へば、へいこんなに疾く起きた事がありませぬからと云ふ答へを得て、一歩引退つたとたんに、案内兼弁当持の人夫をせき立てヽ山に向つた。
 四時出発の予定であつたのが、案内が遅参した為め三十分を空費した、それを補はうと云ふので可なり急行して行く。十分間で、町はづれの俚俗一本榎と云ふ所へ着いた、五万分一の地形図(東京十六号、松田惣領、明治三十年製版のもの)に一四九米突 メートル と高距の記してあつて、道の二岐する所がある、一行は右の路を採つて西田原に向ふ。名物の煙草が大分栽培してある。大山は右に厳然と座し、菩提の山は正面に手に取る様、塔ノ岳の方面は雲に隠れて居るが、富士はものヽ半分もぬけ上つてヌツと雲から頭を出して居る所がうれしい。
 西田原の村落の西のはづれに、鎮守の八幡様がある、それについて右に折れて、足が北に向ひはぢめてからは、只上り一方、雑木林の中を行くのだ、道はよいが暑い、先に立つて草苅馬に乗つて行く者が羨ましい、雑木が段々少くなると、スヽキを初めとして、種々の雑草が現はれる頃から、右の方の展望がそろゝきヽはぢめる。五時三十分、東田原から来る間道が合する所へ出た、東南方の平原が一目に見える所で一息入れる為めに休むだ地図によると四八〇米突許ある。ボンヤリと霞のかヽつた海上に、江ノ島が朧げに見える。
 此処から山の中腹に沿つて暫時行つてから、草山の背を行くのだ、ミシマサイコ、ヒナノキンチャク等此の辺の山野でおなじみの草が大分ある、露出して居る岩石は御坂層に属するものと思はれたが、概ね激しく風化して居る日が漸く照り出したので、暑い事夥しい、休むよりは寧ろ日に輝り付けられる時間を減じた方が得策と云う方針で、前面に聳ゆる大山を睨みながら急行する事にした。
 一時間許り息をもつかせずに登つて、六時半に峠の頂上に出た、高距は八〇〇米突余である。此処は諸戸の切通しと称する所で、丹沢村への関門である、南北に通じて一と息に吹はらす処なので、大風の時逃げ込む為めの洞がしつらへてあるのも妙だ、成程去る廿七日の大風雨の痕跡を見ると、雨が殆んど十度位の角度で降つた形跡がある。昔諸戸氏が所有の山林の事務所へ通ずる路をつけた時には、尚よく馬力を通じたそうであるが、毎年雨の度に山がくづれるので、修繕はするものヽ、今は只駄馬を通ずるに過ぎない、しかし道巾は三尺内外は充分にある。
 左側の細い谷に水晶の様にすき通る水が流れて居る。フシグロセンヲウや、オトコヘシ等が美しく咲ける路を、この流れについて下つて行く事二十分許りで、門戸口と云ふ所に出る、甞ては門があつたそうなが、今は只家一軒あるのみである。(門戸口の位置は二万分の一の地図には出て居るが、五万分の一には載つて居らぬ)此の辺より諸戸氏の所有林で、スギとヒノキが栽植してある、又所々にこれ等の樹木の苗圃も見える。古いトノキがそこにあるのは多分野生のであらう。
 門戸口をすぎて五分許りも行くと、諸戸氏の事務所がある、其他家が二三軒もあつて、しきりに犬が吠へ立てる此の先には追々人家が現はれ、菓子屋などさへある、しかし何れも穢くろしい茅屋にすぎない。五万分の一の地図に「俚稱新宅」と記してあるのは、恐らく此の辺の小を意味するものと思はれる。
 沢について益々下る、左右の山はヒノキと、スギの混植林である、木は未だ二十年を経ぬものらしく望見した。遠くを見ると、まつ黒なもみの老木で蔽はれた山の一角が見える、そこは官林で、諸戸氏の山林との境界に当ると聞いた、その麓間近く来ると、復た少数の人家がある、札掛と呼ぶのは此所だそうな。
 茣蓙 ござ でスヽキをおしのけながら、勇を奮つて突進を試み、尾根へついたので一息入れる、此処は大凡 おおよそ 八五〇米突許、札掛より高い事、約三五〇米突程の地で、此辺を金林と云ふて居る、前回には深い谷をへだてヽ、所謂三ツ峰の尾根が見える、丹沢の頂上は、おしや陰雲にとざされて望む事が出来ぬ。望遠鏡を把つて三ツ峰を眺める、三角測量台は中部以上破壊されて居る。其の下の沢の近くには石小屋といふ樵夫小舎があつたのが、過る廿七日大嵐れに崖が崩れて川におし流され、五名の樵夫は非命の最後を遂げたとやら。


 路程変更に決した吾々が、札掛を出て塔ノ嶽に向つたのは、彼是八時であつた、今迄沿ふて来た沢を対岸に渡り、人家の間をすぎて、菩提の山の裏より、流れ出る水沢と云ふ「二万分の一による」沢に沿ふて行く事数町、一寸景のよい路を右へゝととつて、やがて小渓について尾根に登る、此の樵路は地図に記載はないが、可なりよくつけてある、只所々数日前の暴風雨の際、崖がくづれ等して路が亡せて所もあるが、概して言へば悪路ではない、只スヽキがいやが上に生ひ繁つて居るのと、日かげが少しもなく、暑さの猛烈なるのは辟易せざるを得ない、しかし荒川嶽の登りに、五十度もあらうかと思はるヽ急坂を、真一文字に上らせられたことを考へると、僅々三十五度位の傾斜を、千鳥にからんで登るに、苦情を言へた義理ではない。
 

 龍の御場から北には尚高い樹木の繁つた峰が雲間から隠見して居る、丹沢山の絶点は其方なのだ、例の深い笹をかきわけて進む事二十分で、いよゝ丹沢の頂上一、五六七米突へ着いた、頂上は可なり広い平坦な草原で、東西に狭く、南北に長い、三角測量の標石の他は何もない、櫓は無論腐朽して居る。路は幽かに草の間に通じて、蛭ヶ嶽方面に向つて居る。生憎霧が深くかぶつて、予期した眺望は絶無である。
 頂上を一周して見た、ヤマトリカブトの紫濃く、シホガマギクは紅にアザミの淡紫と交はつて叢生せるカリヤスの間にさびしく咲いて居る。所々に木が立つて居る、マメザクラ、メギ、ヒメシャラ、イボタ、グミの如きものである。草蔭にノビネチドリが一二本立つて居る、此の辺では珍とするに足るべきものである。
時間に制限がある一行は、蛭ヶ嶽方面へ探検の余裕がないので、往路を塔ノ嶽へと進行した。途中は龍の御場で多少植物採集をした他、一回も休憩せずに、荷物を置いた場所に帰り着いたのが二時十分。鳥捕共は已に下山したと見えて姿が見えぬ。最後の食事をして荷物を出来るだけ減じたが、採集品がふえたので、全体の重量は恐らく多少増加したらう。
 塔ノ嶽の絶頂を、南に指して下り始めたのが正三時。霧に交つて雨がハラゝ二三滴襟元に入る。これは去る明治三十八年の九月に、夜行して下つた路である、当年の事など語りながら行く、灌木林の下をくゞり、深い草をおしわけ、時には笹の間を歩いて、やがてカリヤスの多い草山に出た、「馬の背」の険なども、昼間では容易なものだ、しかし概して言へば、此の路は一行の今朝登つた路に比して細く、且つ草が生ひ茂つて居る、尤も中腹以下は割合によくふめては居るが。
 頂上から四百米突も下つた所に、水溜りがある、清冷とは申し難いが、飲用するに足りる。此の前の時には山麓の燈火を見ながら、つま先で路をさぐりながら下つたのが、今日は其の患がないので足が捗 はかど る、早川の流れ、酒匂の人家より、遠くは伊豆の真鶴崎より熱海の初島が見える。
 急行して下り、二本松に着いたのが四時半、彼の鳥捕三人に追ひついて、一緒に小憩した。此所より尾根一つ下れば堀大倉で、あとは曾屋まで畑の間を行くのだ、堀山下で水無川を徒渉し、再び一本榎へかヽつて、曾屋の旅宿へ着いたのが、吾々の時計で六時半頃であつた。風は未だ吹き荒むで、天はくもり、折々雨が一滴か二滴顔に当る、只附近の低い山々が、黒い空よりも尚黒く見えて居つた。 

 (附記)丹沢山及び塔ノ岳の登山者の為めに、一ニ婆言を添へて見たい。

 一、曾屋に達するには二ノ宮駅より湘南軽便鉄道によれば容易である、五十分以内で達する、片路十七銭通行税一銭。
 一、案内者は碌なのがない、丹沢へ行くと言へば、此の辺の人は丹沢のと早合点して、道は近いの、泊るに便利だのと、手軽い事を云ふ、山の頂上の測量部の三角点のある所へ行くのだと云ふと、急に様子をかへてそれは話がちがう。私には案内が出来ない等と尻込みをする。猟師を頼むか、駒鳥捕を● やと ふかがよからうと思ふ。吾々は、木樵 きこり として丹沢の奥に入り込んだ事のある、城所鉄五郎と云ふ者を使用した。尤も此男は山頂へ登つたのは今回が初めてゞあるーそれはあとで白状したのだ。日当二円乃至二円五十銭を要求したが頗る不当である。此男を連れヽば丹沢までは尾根道を通つての往復なら間に合ふが、小生等は推薦することは躊躇する。但し音無しい男で足も可なり達者荷もよく背負ふ。
 一、丹沢山へは塔ノ岳から行くのが順路であると思はれる、前項記載の三ツ峠へかヽつて行くのは大まはりである。尤も丹沢の村へでも泊ればどこを歩いても自由だ。
 一、塔ノ岳へ登るには、吾々の取つた道によるのは面白いが、里程は、堀山下を通つて行くのよりは、二里許りは遠くなるとのと、諸戸の切通しなる峠をこえねばならぬ為め、五百米突上下するだけ損になる。
 一、塔ノ岳の頂上までは、堀大倉を経て直行しても、四里は慥 たし かにある、これから丹沢山への往復は、三時間で充分。丹沢山頂か蛭 ひる への往復は四時間で出来るだろうと推測する。されば未明に曾屋を出発し、日没後帰着する予定ならば、蛭の往復は不可能とは思はれない、但し急行を要する事は疑を容れずである。
 一、塔ノ岳だけならば堀大倉を経て上り、帰路は吾々の上つた路を東へ下り、僅にして右折して、菩提ノ山へ向つて尾根を伝ひ、大倉と横野との間に下るも面白からう、但し此の路による時は、菩提ノ山(五万分の一の地図に一二六米突と記せるが頂上なり)の直西北の一点(一二三七米突)に達するまでの尾根伝は、楽ではなからうから、可なりの健脚と、忍耐と、時間とが入るだろうと思はれる。
 一、塔ノ岳のみを只上下したいとなら、京浜から一番電車で行けば日がへりが出来る、七時半頃までに曾屋へ帰着けば、八時五分の軽便鉄道の終列車に充分にあふから、九時五分二ノ宮発の上り列車に乗れる。土曜の午後から出て、曾屋へ一泊すれば、丹沢山頂まで往復して、前記の列車に乗る事は、左程困難ではない、但しあまり道草をするのは禁物である。
 一、吾々は随分急行したが、全体で三時間は休憩等に費した。只一つ御断りして置きたいのは、夕刻曾屋に帰着の折、吾々の時計が半時間許り、旅宿の時計よりも遅れて居た事だ。止つてまた動き出したに相違ないが、今となつては、其の何の辺なりしやは知るに由ない。
 一、塔ノ岳へ玄倉 くろくら から登る路順は、第一年第一号に高野君の記事があるから、之を参照され度い。此の方面からの登山は、最も趣味ある事と思ふ。玄倉川上流、逆木 さかさぎ から鍋割迄は、川だけを探る価値が十分にある。近年は諸士平 しょしだいら に製板小屋が出来たり、鍋割へ行く道が修繕されたりして、此の渓谷に入るの便は、昔し吾々が行た頃から見ると、数倍容易になつた訳である。
 (大正二年九月於東京記)

 上の写真は、東京十六号 松田惣領 五万分一之尺 年代不明より、その一部。
 上の文は、大正二年十二月二十五日発行 の 『山岳』 第八年 第三号 より、その一部。



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