蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『品梅記』 京都彙文堂 (1919.9)

2020年08月20日 | 梅蘭芳 来日公演、絵葉書他

   

  諸大家支那劇談 品梅記 京都彙文堂刊

品梅記

  大正八年秋刊行于京都

 引  大正乙未七月   彙文堂主謹記

 本書編纂の順次は、玉稿入手の前後を以てす、他意あるに非らず。左に執筆諸先生の芳名を以てす。

             彙文堂主人又記

  内藤虎次郎先生 
  狩野直喜 先生
  藤井乙男 先生
  小川琢治 先生
  鈴木虎雄 先生
  濵田耕作 先生
  豊岡圭資 先生
  田中慶太郎先生
  樋口功  先生
  靑木正兒 先生
  岡崎文夫 先生
  那波利貞 先生
  神田喜一郎先生

〔口絵写真〕

 
        

 ・〔梅蘭芳〕 〔上左から、1枚目〕
 ・天女散華 (其一~其三)
 ・梅蘭芳 孟月華 (御碑亭)
 ・琴桃 梅蘭芳
 ・梅蘭芳 黛玉 姜妙香 寶玉
 ・梅蘭芳 黛玉葬花 〔同2枚目〕 
 ・梅蘭芳 姚玉福 (即阿順) 〔同3枚目〕 
 ・嫦娥奔月 梅蘭芳
 ・梅蘭芳扮嫦娥奔月
 ・女学生觀書 (化粧) 梅蘭芳 〔同4枚目〕 
 ・鏡影中之梅蘭芳 〔同5枚目〕

  梅郎と崑曲       … 青木正兒
  梅劇雑感        … 如舟
  梅劇を見る記      … 岡崎文夫
  梅蘭芳の御碑亭を見て  … 顧曲老人
  支那劇一見一口評    … 青瓢老人
  我輩の所謂「感想」   … 青陵生
  梅蘭芳に就て      … 不癡不慧生
  觀梅雜記        … 豹軒陳人
  支那劇を觀て      … 豊岡圭資
  梅蘭芳を見て      … 神田鬯盦
  梅蘭芳を觀て      … 落葉庵
  梅蘭芳         … 天鵲
  梅劇一見記      … 洪羊盦

 〇支那の戯曲に就いては余も是迄折々其の道の人の話に聞いた事はあつたが、實演はまだ一度も見た事はなかつた。先年故桃華先生が支那學會で當時第一名伶譚鑫培について話のあつた後、蓄音機で譚鑫培其他一流の俳優の唱曲を聞かされた、その音調は甲高く張上げた異様なものとのみ感じたのであるが、是れは余の耳が未だ支那の音曲に熟しなかつた爲であつたのであらう、遺憾乍ら珍噴漢であつた。併し何時か本物を觀る機會を得て多少理解を得ることが出來るだらうと期待してゐたので、時折支那通の天狗などに吹かれては垂涎した事も屡々ある。所が今春圖らずも現今北京第一の名伶で靑衣として尤も評判の高い梅蘭芳が我邦に渡來するといふ幸運に遭遇したのである。最初、東京帝國劇場で五月一日から十日間開演と聞いた時には奮起して遠征せうとまで決心したのであるが、幸にも其れが終ると大阪公會堂に於て十九、二十日の兩日開演する事になつたので自分の胸は躍り上がつた。茲に京大の先生や其の他の學者連よりなる聽戯團體が出來て余もその末班に隨伴して大阪へ出かけた。
 〇第一日は「思凡」、「空城計」、「御碑亭」の三齣が演ぜられた。此の中梅郎が上場するのは御碑亭丈であつた。余は開幕前から早やゞと出かけて待ち構へたが、舞臺には刺繍を施した美麗な緞帳が吊り下げてある。間もなく緞帳は引上げられた、舞臺を見ると背景は無くたゞ後方に花や鳥の繍つた綺羅燦爛たる緞帳が吊り下げてある。それが電燭の光に映じて舞臺に一段の美觀を添へて居る。右方にはよく街道筋で見る茶店の樣なものがある、之れは囃方の居る所で、支那獨特の音樂がこゝより發せられるのである。
 〇先づ第一に尼姑思凡劇は開演せられた。尼の趙色空に扮した姚玉芙が靜に歩みをはこんで舞臺に現れた。此劇は趙色空と云ふ若い尼僧が自分の身の果ない境遇を悲んで尼僧となり、日々讀經や燒香をして修業に勤めていたのであるが遂には靑春の気が燃へ我身の味気なさを感じて下山し去ると云ふ單純な筋の獨唱獨舞のものである。聞く所によれば此後に羅漢などが出るのだそうなが其れは略してあつた。姚玉芙が扮した趙色空の衣裝は上衣は黑に白の緣を取つた地味な風で頭飾も餘り華でない、一體が飾気のない淋しい服裝である。色空が我身のあぢなきをかこちつゝ思案の歩みを運ぶあたりは大に感にうたれた。此の若い尼僧の佛門を棄て去るが如き破戒無慙を取てする事は罪の深いことであるが、然し相手が可憐な女性であるのと、誰を戀すると云ふこともなくたゞ靑春の血がゆらいで娑婆が戀しくなると云ふ極めて淡白なものだけに、淸水淸玄を見るやうな深刻な寧ろ惡感を催すやうな所は少しもなかつた。又是が日本の尼さんのやうに頭をつるゝに剃つて居たら極めて色気の無い變なもので芝居は成りかねることだらうと思つた。
 元來此の劇は梅郎の得意の出しものであるが、姚玉芙が代てやつたのである姚玉芙も女形としては名優で容貌は梅郎に劣つて居るが似た所がある。振や所作事は可なり手に入つたものである。觀客の中に梅郎と間違へて一杯食はされた人があつたそうな。
 〇第二囘目は空城計と云ふ劇である。是れは時代物で、孔明が計略を以て敵の仲達を走らしたと云ふ筋である。孔明が長髯をひねり廻し悠然として仕卒を集め、仲達が西域を攻め來ると云ふので評議を擬している。此の時唱ふる所の曲調は高く張り上げ、極致の所に至つて更に高調に永く引張る、實に雄壯又た悲壯なるもので、すると看客中から支那人が忽ち好々 ハオゝ と言つて盛んに拍手喝采をした、余も其れにつれられて拍手をやつた、成程支那人の喝采するのは彼の樣な所にあるかと獨りうなづかれた。
 さて孔明が空城の計を以て敵を追拂う策は、如何と見れば、舞臺の右の方に机を三脚程積重ね布に書いた城門の幕を其の前へ引き廻して一つの城が出來上つた、實に滑稽なものであるが、面白い思付である。孔明先生は此の城門の上へ座つて、長い髯をひねくり廻し二童をして側に琴を弾じさせ、酒を飲んでは曲を唱ひ意勢を張つてゐる。その狀を見た仲達は驚くまいことか此奴今戰の最中と云ふのに呑気な奴、城門を空け放して陽気にやつてゐる、油斷はならぬと天晴れ深慮を廻らし、却てまんまと孔明の計略にかゝつて引上げる。一寸面白い仕組である、日本の時代物の浄瑠璃に似た樣な所がある、之れを浄瑠璃にでも作つたら面白からうと思ふ。
 〇三囘目、今日の尤も評判の高い御碑亭である。此劇は梅郎が十八番の出し物ださうな。滿堂の觀客が緊張した視線を集中して居る裡に幕は切り落とされた。孟月華に扮した梅郎がしづゝと歩みつゝ現はれると、觀衆は一齊に拍手喝采鳴もやまず。其の美貌を桟敷の方に一寸振り向けた時、更に急霰のやうな拍手は起つた。之れは梅郎の評判と其の美貌が然らしむのであらう。眉目淸秀丹唇含珠、たしかに人を魅する力を持つてゐる。どうしても彼れが男性であらうとは思はれぬ程である。其の扮装は下に白衣を着し黒みのある上衣を着け、頭髪の裝飾も淸楚である。其の品位ある服裝は孟月華の精神をよく現はしてゐる。小姑の王淑英と頻に對話するあたり、目許や口許やその表情が如何にも自然でわざとらしい無理がない。今劇の筋を云へば孟月華は里方から先祖の墓參するからと云うて呼びに來たので小姑の淑英に留守居をさせ今夜歸る事を約して出掛けた。所が歸途に驟雨に會ひ、取敢へず御碑亭に避けたのである。折しも柳生春と云ふ若い書生も雨を避けて此の亭に飛込んで來た。月華は驚いてこんな所で若い書生さんと一所に在るを非常に心許なく思ひ、不安を感じつつ一夜を明方早々歸つた。
 孟月華が小姑の淑英に昨夜の一件を一伍一十話しすると意地惡い淑英は婿の王有道に此事を嘘八百無い事まで惡ざまに告口した。此れが爲孟月華は遂に破鏡の悲運に陥つたのである、其後王有道が京師に上り試驗を受け及第した、其の時同じ及第した柳生春が試驗官の問に答へた事があつた、それは御碑亭一件の事で、王有道が其れを聞てゐて前非を悔ひ、孟月華を再び里より迎へて目出度しゝの團圓となる。此の劇は全體に悲調を帶びたものであるが、其の中に淸らかな婦女の貞操的精神が漲つて居て、道義により養育せられた支那の女性美をよく發揮して居る。孟月華に扮した梅郎の唱曲が主になつて居る、その唱ふる音聲を聞くに、初めは稍高く句切に於て細く寔に哀怨の調である。余は其の唱曲を聞いて月華の淋しき境遇が此の歌曲に依て深く身に沁み込むやうであつた。又た其の所作に於ても其の藝の凡てが實に綿密に意を寫し情を表はして人物が躍動するにも余は深く感じた。寔に現今第一の名聲を博し得たのも當然の理である。彼が目許口許に現はれる表情は、吾人が嘗て我邦俳優からも経驗した事の無い強い魅力を有するものであつた。彼の先天的な美貌と表情とは彼の藝をして一層強からしむるものである。
 〇第二日目が來た。早々出掛けて見ると最う滿員だ。昨日の評判と今日は梅郎が二囘出ると云ふで多いのだらう。出物は「琴挑」、「烏龍院」、「天女散華」の三齣である。舞臺の裝飾は前日と少しも變りはない、豫定時刻より遲れて、琴挑劇は開始せられた。此劇も殆んど梅の獨舞臺で、陳妙常と云ふ女に扮してゐる。妙常は實に哀れな身の上で、許嫁であつた潘必正と云ふものと或事情の爲に離婚し、父母も病沒の非運に遭ひ、世を果なみ剃髪して尼となり、妙常庵に入りて修養し、琴など彈じて其の日を慰めてゐた。一方の潘必正は京に受驗にいたのであるが落第したので大に悲觀して此の庵に假住ひすることになつた。日々妙常の琴の音を聞き自分も琴を彈ずるのが緣となつて互に相遭ふやうになり、琴を彈たり合唱したりして段々馴染が重なるにつれ、遂には互に元の許嫁であつた事が知れて目出度く夫婦の緣を結んだと云ふ、情味の深い筋である。妙常が彈琴の悲哀な音調は聽者をして深く感動せしめる、實に梅郎の技藝の凡ならざるを思ふのである。「思凡」、「御碑亭」、「琴挑」の如き劇は感傷的のものであつて、其の曲は如何にも悲痛を極めて居る、天女散華の如きは華やかな者で曲調も疳高く華麗である。
 〇第二囘の烏龍院は時代劇で左程興味を覺えなかつたし、また梅郎劇でないから叙述を略して置かう。
 〇三回目は「天女散華」 之れが最終の出物である。是は梅郎獨特のものであつて彼れが開場の度毎に必ず一度は演ずる十八番である。それも其の筈此の劇に特に梅郎の爲に作曲した新作であるそうだ。此の曲調は二黄に始まり崑曲が大部分をしめてゐる。二黄崑曲の説明は靑木先生の詳細なる説があるから一讀せられんことをお勸め申す。
 さて待ち構まへてゐた天女散華劇は梅の扮せる、天女が八仙女を引き連れて舞臺の其中に現はれることによつて開始せられた。八人の仙女を兩脇へ並べ梅の天女が中央に在つて、しとやかに科白する有樣は誠に優美の中に莊嚴の気を含み、舞臺忽ち天堂と化したかと疑はれた。暫時科白があつて一同樂屋に這入り衣裝を更へて又た現はれた。是れより梅郎得意の天女の舞に移 のであるが余は之れで云ふ事は止めよう。是れに關しては拙劣なる余輩喋々を要しない。已に諸先生の卓説が紙上にあるから無益の事だ。
 併し一と事言うて見たい、梅郎が天女の舞を舞ふ時の足取りや、腰つき、手つきは、凡てが實に繊細で、蹁躚として歩を進める所などは、如何にしても天女が雲上を歩行するとしか思へない程自然的であつて、梅郎の神技を嘆ずる外はない。日本の舞や演劇に於ては迚も見る事の出來ぬ妙味がある。
 〇余は初めて支那劇を見て大に感じたのである。其の時代物にせよ、世話物にせよ少しも惡感を起さない、實に高雅なるものである。演者の唱曲は支那劇の尤も特徴とする所である、支那劇は歌曲を以て其の喜怒哀樂を表し、之れを助くるに科白を以てするのである。其れで支那の演劇は寧ろ聽く可きものであつて、見ると云ふことは第二次である。支那劇を見る人は二黄とか、やれ崑曲とかに就て唱ひ方を批評し之れを以て役者の藝評の第一要件とするのである。
 日本の芝居は長唄や常磐津、義太夫などの出語りはあつても語り手と俳優は分業になつて居るから、俳優は必ずしも勝れたる喉と歌曲に對する學修とを要しないが、支那の俳優は一人して兩者を兼修せねばならぬから、其の骨折りも一通りであるまい、彼等は歌ひ手であると同時に踊り手である。又劇其物の性質から云うても單に事件を面白く展開させて行くと云ふよりも詩歌として勝れたる所を示さねばならぬ。先づ我國の能樂を今一歩進歩させたやうなものであるからして、從て高尚優美なことは、勘平、五郎助が膓切や、御岩、累の幽靈の俗惡なる比ではない。それで支那劇の文學的社會的地位は我國のそれの如く河原物の扱ひにされたのとは譯が違ふ。唐の玄宗の時既に宮中に梨園の弟子が置かれ、明の太祖なども天下一統後優伶を宮に召しかゝへて常に演ぜしめられたさうで、其の皇子には戯曲作者として有名な寧献王を出した位である。太祖が圓明園の劇場に宸筆を揮つて
  堯舜淨、湯武生、桓文丑旦、古今來、幾多脚色、日月燈、雲霞彩、風雷皷板、宇宙間一大劇場、
と書かれたことは有名な話である。淸朝でも乾隆頃宮中に俳優の養成の爲、唐代の梨園のやうなものが置かれたと云ふことを耳にして居る。近年では西太后などは非常な劇通で、其の宮殿たる頤和園には美事な戯臺が有り、内廷供奉の優伶をして常に演ぜしめられたと云ふことがある。梅郎が崑曲を教はつたと云うふ喬惠蘭は西太后の殊寵を蒙つたものださうな。今日でも貴族や富豪の邸内には私有の戯臺が建てられて居ると云ふことなどは、宛も我邦の大名屋敷へ能舞臺があるやうな有樣で、之れを見ても如何に支那が士君子の鑑賞に適するかを知るべしである、到底我が河原物の成り上り芝居などとは同日の論でない。

  聆劇漫志        … 那波利貞 〔下は、その一部〕

 嘗て蓄音機を通して譚鑫培の黄金臺の二黄一段、提曹放操のに西皮二段、金秀山の草橋關の二黄一段、劉鴻聲の斬黄袍の西皮一段二段、孫菊仙の桑園寄子の二黄一段等を聽き、數年前より支那劇に對して多大の興味を寄せ居りし余は今第一流の名伶の做工を眼前に觀、その唱工の淸喉を聽きて更に豫想以上の價値を有するものなるを知り得たると共に、記錄のみに據りては充分の知識を得能はざる支那劇の或る點に於て日本劇洋劇などよりも勝れたるものあるを覺つた。今聽戯一場の所感を述ぶるに當り更に此の點に就ても一應述べて試たいと思ふ

 曲目

  尼姑思凡
  御碑亭
  天女散華

 大正八年 九月十五日發行
 正價金壹圓八拾錢
 發行兼編輯者 大島友直
 發行所    彙文堂書店



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