蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『津門』 3 (天津) (1911.1-3)

2020年09月17日 | 清国日本人 燕塵、津門

   

津門 第貳年 第一號  〔明治四十四年一月十五日発行〕

 口絵 西藏達賴喇嘛の宮殿、支那風俗高脚

  西藏拉薩に於ける達賴喇嘛の宮殿或は普陀羅或は布達刺と稱す
  西藏拉薩は圓形にして周囲一里或二里位あり
  布達刺は其中央に在り本國は南より見たる正面也拉薩は神の塲所と謂ふなり

  支那風俗高脚日本の竹馬或はさぎ足と稱する者なり

 ◉論説

 津門の憲章

 我輩は昨年の暮に忘年會を遣り去年のことは綺麗薩張り忘れた、之は去年がどうのこうのと今更に愚痴つたつて何の役に立たんからである、年々歳々送迎する年末年始に對する感慨などのあつて堪まるものか、人生の行路より謂へば一轉瞬の事件ではないか
 雖然、歷史は過去の事實を語ると謂ふ如く、舊いからと謂つて忘れる譯には行かぬ、雑誌津門が二拾有餘名の發起者に依つて呱々の聲を揚げたのは去年の二月十一日、號を重ねること拾有壹、茲處に初めて第二年の新春を迎ふ誠に愉快の情に堪へざるものがある、
 津門創設當時に於ける發起人は小幡酉吉、菊池季吉、豊田〇吉、福山義春、森本啓太郎、原田俊三郎、矢田七太郎、松村利男、山下竹三郎、田村俊治、吉田良繼、西村博、早川吉次、今井嘉幸、山根虎之助、田添豊造、鈴木藤藏、足立傳一郎、牧野田彦松、西村虎太郎、瀨上怒治、小田切勇輔、岡島光久、嘉悦敏の諸氏なりしも今や森本氏は大連に去り、岡島氏は神戸に去り、矢田氏は北京に去り、嘉悦氏は東京に去り、山根氏は山口に去り、小田切氏他界に逝き、前後六名の發起人を失ひしとは雖、尚ほ十有八名の發起人のあるあり大に我徒の意を強ふするに足る
 津門第一號發刊の辭に曰く
  〔省略〕
 津門は斯の如き宣言を以て生れた、是れ津門の大憲章にして即ち之れ津門の主義主張抱負を語る者なり、我誌の主義主張を知らんと欲する者は乞ふ去つて白河の岸に立て!
 即ち我徒は此の大憲章を遵守し一步ゝに津門の行程を進むれば足る又た何う他を謂はん、雖然吾人の微力は未だ以て此の大憲章に副ふこと能はざるを誠に遺憾となすのみ

 ◉雜錄

 天津見物      村會議員 畠野田五平
 回鑾記(二)         馬脚散人譯
 天津繁榮記          繁華子 〔下は、その一部〕 

 太沽より白河の九十九折をぐるりゝと廻はつて五十哩の上流に一寒村があつた以前は名もなき荒廖たる地方で長蘆が繁茂して居つた許り、處か明永樂二年に天津衞とかを置き城壁を築き軍事上頗る重要の地となつた、夫れも四通八達の運河の在るが爲めにして、南から船、北から馬と謂ふ調子で大分賑やかになつた、兎角船の着く所は人気か惡い、天津も其選に漏れす遂に衛嘴子と云ふ難有い異名を頂戴した、楊柳靑の田舎娘を天津で仕込み京班即ち北京の藝者たと振れ込む、コンな具合で義和團の時まで來た、聯合軍の都統衙門が天津を占領してから城壁抔は無用の長物だ城内城外の交通を阻害するのだと謂つて遂に取拂つて仕舞つた、其城壁の後が即ち今の東西南北の馬路で電車が通り馬車が往來し昔日とは雲泥の差だ、北京の古色蒼然たると天津の新式のハイカラとは面白いコントラストである、之から少々天津の繁榮を語つて見よふ
 ▲天津の人口  正確なる調査ではない相であるが天津市及四郷の各村莊を合併すれば戸數が十五萬七千九百五十二戸、人口が八十七萬九千四百五十一人
 天津に居留地を有するは日本、墺太利、伊太利、佛蘭西、白耳義、獨逸、露西亞、英國等であるが天津在留の諸外國人は三千五百餘名位の者である勿論此の内には英國兵の千餘名、獨逸兵の二百五十名、佛國兵の二百餘名は筭入し居らす
 日本人は男女合せて千九百餘名なるが昨年十二月末日本警察署の調査に依れば左の如し
         戸數    男     女      計
  日租界   四四四   八八九   七五一   一、六四〇
  英同     四六    六四    五三     一一七
  佛同     二二    一〇     五      三五
  獨同      五           四       五
  露同      四    一一    五一      一五
  租界外    三九    七一           一二二
   計    五六〇  一、〇四五   八八九   一、九三四   
 前月に比し戸數十一戸、人口二十四名の増加となれり、日本軍隊は此内に在らす 

 天津の未來記         千里眼   
 資政院會議(四)       員外郎
 淸國内外小史(十二月)    小僧
 天子禪と將軍禪        野僧大錢師   
 病床錄            涙仙
 支那の言文一致體       美智春

 ◉北津紳士錄

 ハン子ツケン氏

 日淸戰爭の數年前から直隷の陸軍教官として聘はれて居つた獨逸の青年士官中尉フォン、ハン子ッケンなるものがあつた、時の直隷總督李鴻章の信任する所となつて軍事上に献策した事も少なくなかつた、戰爭の始め威海衛に出張して淸國軍の参謀となり又鴨綠江の戰にも参加したりして淸國軍の爲めには随分盡したものだ淸國はサンゞ日本の爲めに敗られ旅順口の陥ちた時分に天津に於て李鴻章はゴルドン將軍の常勝軍に倣ひ外國武官一隊を作つて、下士等の指揮の下に若し日本軍が秦皇島から攻め寄せた時には天津でクイ止むる計畵を、總費用百五十萬兩を支出する事に定まつて居つた其總指揮官にハッ子ッケンが任ぜられて、海關等に居る有志の外人三十名を募集して愈々新常勝軍の組織に取りかゝつたが、ハッ子ッケンは全權を與へよと云つたが、李鴻章の承諾しない爲めに此計畵は遂に失敗に終つた、然し此時一萬圓はハッ子ッケンの手に渡されて、已に太沽ロードなどには日本軍の攻入を防ぐ爲め棚迄造つたと云ふ事である
 日淸戰爭後依然淸國軍に雇はれて居つて、時の天津税關長で李鴻章の親友(講和談判で神戸まで出て來て我政府の拒絶する所となつた)デットリングの娘を娶つて夫人とした、
 彼は其後陸軍の方をやめて井陘礦務局の取締役となり變り、專ら實業方面に力を伸ばし、其他土地の賣買などでも少なからぬ財産を作つたさうだ、然し個人としては實に親切で愛嬌のある好紳士である、デットリングと幷んで北淸に於ける獨逸の先進者で又目下尚獨逸の勢力の代代表者と云つてよからふ、彼は支那の陸軍少將であるが之は日淸戰爭の當時貰つた官名である     TY生

 ◉各地消息

 伯林より (手書の一節)   中島半次郎
 雲南府より 十二月七日    佐藤生
 東京より    参謀本部副官 岡大尉          
 雲南省城より 十二月七日   嘉悦生
 長江船中より 一月十四日   嘉悦敏

 ◉文苑

 寒月照梅花          津村香雪謹草
 湘蕭遊記           日東遊士赤城山人          
 茶碗酒(三)         凡生
 津門日記 〔十二月十四日~一月十五日〕

 ◉支那女丈夫傳

 朱木蘭(二)

  

津門 第貳年 第二號  〔明治四十四年二月十五日発行〕

 口繪 西藏喇嘛の會合、天津金華橋

  〔西藏喇嘛の會合の写真説明は、上部欠〕
  天津風俗金華橋ジヤンク通過の所なり

 ◉雜錄

 淸國人縦横觀         長髪生
 觀津記            西沽次郎
 祁州視察記          黑澤兼次郎
 甚忙行記 十二月二十七日瀘州を過る時 子龍生
 回鑾記(三)         馬脚散人譯
 資政院會議(五)       員外郎
 天子禪と将軍禪        野僧錢師
 淸國内外小史(一月中)    小儈
 音樂會お茶評
 音樂會感想記         紫竹林子
 凡人語            凡生
 支那俚諺譯解      津門 美智春 〔下は、その一部〕

 〇一枝不動 百枝不搖

  譬ば或る事をなすに其の上に立つ一人が承認をせないと其下に居る澤山の人も強て爲す事は出來ないなど云ふ塲合に用ゆ、上に立つ者がシッカリしてさへ居れば其他の者も矢張りシッカリして居る

 〇人無千日好 花無百日紅

  人間は何時ゝも順境に居るものではないソレハ丁度花は美麗に咲いても其紅を百日保つ事の出來ないのと同じ事である所謂人不能常有好機會の意である

 〇南人操船 北人乗馬

  南淸地方の人は舟を能く操縦し北淸地方の人は馬に乗る事が上手だ、南船北馬と云ふ句は矢張り地勢より出來たものだと思ふ南方多水、故南人善操舟、北方多陸故北人善乗馬、人は習慣に依り其技能の發達も異なるものである

 支那の言文一致體       美智春

 ◉文苑

 漢詩             在京生

 ◉支那女丈夫傳

 朱木蘭(三)

 津門日記 〔一月十五日~二月十一日〕 〔下は、その一部〕

  十六日 墺太利租界にペスト初めて發す

 ◉雜報 〔下は、その一部〕

 天津のペスト  去一月十八日墺太利租界に於て滿洲歸來の苦力に同病を發するや病毒は次第に蔓延し天津市の洛中洛外毎日ペストに斃るゝの惨狀を呈せり初發以來二月十二日迄公然通報されたる患者は四十餘名に達せり尚ほ此外多數の患者ある見込なり

 明治四十四年一月中ノ銀塊相塲及日本向賣爲替相塲一覽表
 明治四十四年一月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松

  

津門 第貳年 第三號  〔明治四十四年三月十五日発行〕

 ◉口繪

  蒙古多倫諾爾舊制喇嘛廟の大殿の光景
  總督外出の光景

 蒙古多倫諾爾舊喇嘛廟の一部にして大殿と稱する主要の建築物なり喇嘛僧の家屋三百戸計り東西に廣かれり、喇嘛僧は新舊両廟にて約七八百名明治三十二三年の頃日本に遊へるアザヤ活佛の別院は閑靜涼快塵埃に遠かれり一般人民の市街は約五淸里の處にあり

 總督轎に乗り外出儀仗の撮影なり

 宣統三年歳入出豫算原案及資政院の審査議決案  編輯者

 ◉漢詩

 訪津村先生不遇                村岡融軒
 三浦直隷警務顧問與津村先生俱見過賦此贈謝   仝 
 村岡翁辱見訪余偶不在翁賦一首而去即步其韻却呈 津村香雪
 聞翁與余同郷爲孔子祭典會委員始相逢海外遇亦奇 仝

 儒教廻瀾錄(一)    融軒 村岡素一郎著
 觀津記(二)         西沽次郎
 支那異聞蒐錄(一)      書香の徒

 ▲桃は五木の精なり  支那家屋の門首に桃枝を挿すは百病を除き邪気を壓伏するの祈禱なり蓋し桃は五木の精にして邪気を壓伏する者なりとの信念に基く古語に謂ふ梟桃樹に在り落ちされは百鬼を教す玉桃を食せは長生不老と言傳へらる、猶ほ酒に桃花を漬けて之を飲めは百病を除き容色を美にすとあり
 ▲葱嶺の起源  葱は五味を調和する者にて所謂消化作用を助ける者と信せり、春月酒を飲むに葱を加れは以て五臓に通すとは之が爲なり、靑海燉煌の四方八十里にして高山あり山上には大葱を生す故に葱嶺の名之に基く
 淸國内外小史 二月中     小僧

 ▲爆竹 支那人は何事に依らす大に爆竹を鳴らす支那全國に於て一年間に消費する爆竹は非常なる鉅額に及ふだろふと思はれる天津でも爆竹製造者は毎日仕事に追はれて居ると言ふ有樣である、此頃も淸曆正月以來、そこ此處に爆竹の音がする夫れが例年よりも爆竹の鳴らし方が馬鹿に長いのみならず支那官憲は例年の如く爆竹禁制の布告を出さぬのて段々聞き合せて見ると本年はペスト流行せるを以て之を退散せしむるため官憲に於ても却て之を奬勵した樣な傾がある、 开は兎も角として古傳に依れは西山に鬼あり長さ尺餘、之を見た者は直に病気になる此鬼の名を山臊と稱し竹を火中に入れ其爆聲を聞けば山臊も閉口たれて遁け去ると謂ふことがある支那人の爆竹を鳴らすは眞面目に惡魔除けと思ふて遣つて居る、爆竹を鳴らすことも畢竟是等の事から起つた者である

 宋代禪風の特色        野僧大錢師
 重慶通信           子龍生
 淸國内外小史 二月中     小僧

 ◉各地消息

 香港より           兒嶋喜代藏
 大阪より(天下茶屋東遊園地) 田中信吉
 東京より           莊田三平
 東京より 三月三日      嘉悦敏

 支那俚諺譯解         美智春
 對津水樓           背水樓主
 開平礦務最近の情況      編輯者

 ◉津門たより

 天津領事團と審判廳
 溫世霖流謪後の始末
 直隷省の留學費

 直隷省が歐米日本留學經費として支出する者は毎年二十万七千餘兩あり内譯左の如し
  米國學生監督薪水        七千〇八十三兩
  米國學生經費        八万七千九百十六兩
  留英學費               千六百兩
  留佛學費                六千兩
  留白耳義學費            四千五百兩
  留歐米學生監督薪水           五千兩
 以上海關道支出
  日本留學費          五萬三千百八十兩
  歐米留學費          二萬九千七百十兩
 以上學務公所支出
  財政總滙處海防粮餉股の留日學費 六千八百七十兩
  陸軍粮餉局の出洋陸軍學生贍家費 五千百四十六兩

 津門日記 〔二月十二日~三月十一日〕 〔下は、その一部〕

  十八日 共立病院午前八時全燒す

  十九日 本日迄天津市内外のペスト患者は六十一名 

   三日 天津幼稚園開園

   五日 本日迄のペスト患者六十九名

   九日 津浦鐵道開通

 愚言を樂童村岡君に呈す    茶目坊
 天津輸出入月計表
 安流廣惠永定河神廟碑文

 明治四十四年二月中ノ銀塊相塲及日本向賣爲替相塲一覽表 
 明治四十四年二月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。