先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

新四ツ木橋の労働災害と出稼ぎ農民8名の死亡

2022年10月31日 09時09分59秒 | 荒川写真

写真・手前が新四ツ木橋、奥が四つ木橋

新四ツ木橋の労働災害と出稼ぎ農民8名の死亡

忘れてはならないものの一つ
 私の散歩コースは日によって変わりますが、その内の一つに葛飾側の荒川河川敷の木根川橋を横断をし、下に降りて新四ツ木橋と四つ木橋をくぐって堀切水門に至るコースがあります。
 
 今から53年前、1969年(昭和44年)4月1日、現在は水戸街道(国道6号線)が走る荒川にかかる新四ツ木橋脚の基礎工事中に労働者8名が死亡する大労災事故がありました。川の中に鋼矢板をぐるりと円形に打ち、その川底を掘削する方法で作業を進めていた時に突然吹き飛んだ大きな機器と鋼矢板が倒れ、一気に水が流れ込み、鋼矢板の穴の下方で作業していた労働者があっという間に水に閉じ込めら溺れたといいます。ここで働いていた人の多くの方は青森に家族を残してきた出稼ぎ農民でした。あと一週間後には故郷に帰る予定の人たちだったそうです。

 かつて新四ツ木橋のふもとには犠牲者の出身地だった青森県大鰐町が作った慰霊碑があったそうですが葛飾側には見つかりませんでした。新四ツ木橋の重大な労働災害、亡くなった出稼ぎ農民の無念とその家族や友人の悲しみと犠牲を忘れないようにしたいものです。工事を請け負った現場責任間組は慰霊碑を会社の責任としてしっかり管理・再建すべきです。

新四ツ木橋事故調査報告(国立国会図書館デジタルコレクション) 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10447337
  建設省の新四ツ木橋事故調査委員会報告書の要約です。新四ツ木橋事故は, 一般国道6号線の荒川放水路にかかる新四ツ木橋(延長547.8m, 幅員16.25mの道路橋)の7号橋脚の仮締切りをリングビーム工法によって行い, 7段目のリングビームを設置するため土を掘削中, 仮締切りが破壊して, 発生したものです。この事故について, 本委員会は多くの調査を実施したが, 事故にもっとも深い関係を有すると思われる2つの因子について, 特に詳細な検討を進めた。(1)外力の大きさと, その作用状態について : 円形に打った鋼矢板の外側に働く圧力は, 設計に用いた値とほぼ等しかったものと判断される。(2)仮締切り構造の耐荷力について : 鋼矢板とリングビームで構成されたリングビーム工法による仮締切り構造の耐荷力は, 主としてリングビームの座屈耐力によって支配されることが明らかにされました。本委員会はこれらの結果を総合して, 6段目リングビームの作用軸力がその座屈耐力を超過して, 事故が発生したとの判断に達します。

   工事を請け負った間組の現場責任者らが書類送検され訴訟  
 工事を請け負った間組の現場責任者らが書類送検され訴訟も起こされますが、1983年(昭和58年)5月23日不可抗力として東京高裁の無罪判決が確定しています。

 もともとの新四ツ木橋の「橋」製造は*汽車製造株式会社が制作したものです。

 1923年汽車製造株式会社の大ストライキ
 https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/156b4eed04abcca809b66ce009cd9482

*汽車製造株式会社
1896年(明治29年)9月7日:滊車製造合資会社が大阪において設立
1901年(明治34年)5月1日客車・貨車製造の大手であった平岡工場(東京市本所区)を合併し、社名を滊車製造合資会社に
1919年8時間労働制を採用
1923年ストライキ
1972年(昭和47年)11月1日:神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BD%E8%BB%8A%E8%A3%BD%E9%80%A0



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