先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

大久保製壜所闘争と覚せい剤謀略犯罪

2021年07月08日 15時49分27秒 | 大久保製壜闘争

 

大久保製壜所闘争と覚せい剤謀略犯罪

(覚せい剤謀略犯罪の前史)
 大久保製壜所闘争10年目の1985年、5名の障害者と労働者1名が大労組を脱退し、東部労組大久保製壜支部に加入し共に闘いをはじめた。1975年のキリスト教会ろう城闘争が解決した直後から労務ゴロ屋上八郎を雇った大久保製壜資本は、不当解雇、不当配転、大量処分、いじめ、差別、団交拒否、不当告訴・・・・等々とおよそ考えられるあらゆる労働組合つぶし攻撃で大久保製壜検査課労働組合(東部労組大久保製壜支部)に襲いかかった。いったんは36名から8名に切りくずされたにも関わらず、組合員は歯を食いしばり頑張り抜き、東部労組、職場、地域、全国の仲間に支えられ闘い続けた。76年には職場で新たに6名の障害者の仲間が立ち上がり、77年には向島警察署の3名の仲間の不当逮捕を不眠不休の闘いで取り戻し、ストライキや恒例となった「路地裏デモ」、都労委、裁判闘争と連日闘い続けていた。こうして10年間の労組攻撃に支部はつぶれるどころか逆に職場で仲間が増え、地域・全国の支援は拡大する一方だ。そこに来て、10年目にまた6名もの大労組の仲間が支部に加入してきたのだ。慌てた大久保製壜所は労働者をなんとか締め付けようと大労組の組合員を「しごき・地獄の特訓」で有名な富士宮管理者研修に無理やり、強制的に行かせだした。これに反発した青年労働者が長崎に助けを求めてきた。1987年5月20日、製壜課と検査課の22名の青年労働者は大労組を脱退し大久保製壜所新労働組合を結成した。その中には身体障害者3名と組長2名も参加していた。支部の長崎と鈴木が新労組の特別執行委員に任命された。ついに職場では支部・新労組が過半数となったのだ。(写真1)
 
 新労組結成のその晩、社長は千葉船橋の社長宅に会社幹部を緊急召集し、「俺は60歳を過ぎているから長くは待てない。明日から行動を起こせ」と社長自ら労組攻撃の陣頭指揮を執った。翌日から新労組員に「監禁・暴力・処分・尾行・買収・怪文書での脅し・・・・」とすさまじいばかりの不当労働行為の嵐が襲った。新労組と支部はただちにストライキで反撃した。生まれて初めてのストライキに新労組の青年たちは「いつも支部のストライキを見ててうらやましかったからストはうれしい」と文字通り「嵐の中でこそ、強い樹はそだつ」の通り、半年に及ぶ会社の新労組攻撃は失敗し、逆に新労組・支部労働者を鍛え、資本の汚い本質をはっきりと認識させた。

(長崎のオートバイに本物の覚せい剤)
 1987年11月6日午後2時20分、東部労組大久保製壜支部副委員長、長崎広(製壜課)が、会社の午後3時から午後10時の2部勤務に出勤しようと公団の自宅の前に置いてある自分のホンダ250㏄のオートバイに向かうとそこに2名の制服警察官がいて「すみません、今さっき、あなたのオートバイに不審物が隠されているという通報が交番にあったので、ちょっとオートバイ見せてもらっていいかな」と話しかけてきた。長崎は「そうなんですか、よくわからないけど見てください」と返事をすると、警察官はすでにわかっていたかのようにオートバイの座席シートの裏を覗きこんだ。そこにはガムテープで数センチの透明な袋が貼り付けてあった。警官はそのガムテープをはがし、透明な袋を手にすると「交番で調べるから」と長崎に交番への同行を求めた。2部勤務に遅れると危惧する長崎に警察官は「すぐに済むから大丈夫」と強引に交番へと促した。(写真2)

(逮捕)
 すぐ近くの交番に着くと、警察官は、さきほどの透明の袋の中の白い粉末を試験管のようなガラス管に入れて「今からこの中に薬を入れて、色が変わったら本物の覚せい剤だから。心配ないと思うよ」と言った。「覚せい剤?」。何が何だかわからない長崎は「そうなんだ」と言い、警察官が何やらを試験管に入れた。目の前の試験管の中の色がみるみるうちに変化した。すぐに警察官は「覚せい剤不法所持現行犯で逮捕します」と言う。長崎が「おいおい、ちょっと待て。わけがわからん」とか言っているうちに無理やり両手錠をされ腰縄を付けられてしまった。パトカーがサイレンを鳴らして飛んできた。自宅周辺の顔見知りの住民らが取り巻く中で、交番前から無理やりパトカーに押し込められ、本田警察署(現葛飾警察署)まで連行された。

 保安課の刑事二人の取り調べが始まる。テレビドラマの場面と同じだ。刑事の一人は高圧的、もう一人はえらく優しい。長崎の腕にはやけどの傷後が何か所かあった。灼熱の真っ赤に溶けたガラスを相手にしている製壜工なら誰でも日常的に持っている傷後だ。これを見つけて最初は喜んだ刑事も注射針の後の傷ではないとすぐに気が付いてバツが悪そうだ。
 刑事は「交番に『会社関係者』が来て通報してきた」「本物の覚せい剤約8グラムだ」と言う。これは会社の謀略に間違いない。公安もでてきた。公安は1975年のキリスト教会籠城闘争はすぐ近くの地元堀切なので教会籠城闘争をよく知っていた。長崎は弁護士への連絡を求めたが警察は一向に連絡してくれない。

(ガサ入れ)
 夜遅くには手錠・腰縄姿のまま公団住宅の自宅のガサ入れに連れていかれた。なんと小学生の子供たちはパトカーの中に押し込められて待機だ。家に入って長崎がカミさんに大声で叫んだ。「会社のワナだ。オートバイに覚醒罪を隠したとでっち上げられた。東部労組と弁護士に連絡してくれ」。刑事はこれにはびっくりしたようだ。あわてて「会社のワナ?   どういう事? 」と長崎に聞いてきた。人を無理やり逮捕しておいて「どういう事?」はないだろう。公団の住民がたくさん取り巻いている。家族や子供たちも辛かったと思う。その後は家の中のタンスやらなにやら家中を形だけは覗いたが、当然だが押収するものは何ひとつない。最後には書類や本の山や本棚には触りもしなかった。夜は小岩警察署に留置された。同房の青年は親切だった。

(深夜の抗議闘争)
 11月6日の夜、緊急執行委員会を召集した東部労組本部と弁護士は、状況分析の討議を行い、そのまま深夜の本田警察署に押しかけた。「一体何の陰謀だ。長崎が覚せい剤犯罪などするわけがない。大久保製壜所のでっち上げだ。警察は犯罪に手を貸すのか」と東部労組沢村委員長を先頭に執行委員全員と弁護士が血相を変えて大声で糾弾・抗議した。この深夜の本田警察署への抗議闘争は警察の目を「通報者、会社関係者、そして大久保製壜所」へと向かわせ、長崎の早期釈放につながった。

(支部・新労組緊急会議)
 11月7日、東部労組大久保製壜支部と新労組の緊急合同会議が行われた。東部労組本部の石川書記長、足立相談員から長崎の不当逮捕の報告を受けた支部・新労組の全員が事態の深刻さに誰もが顔をひきつらせ青ざめた。その時、新労組鈴木延春委員長がすくっと立ち上がり、「長崎さんの無実を絶対に信じよう。会社の大謀略であることは間違いない。今こそ、一丸となって闘う。みんないいな」と大アジテーションをした。支部、新労組の反撃の第一歩が開始されたのだ。

(マスコミ報道と地域・全国から会社へ抗議が殺到)
 11月9日、長崎釈放。11月16日緊急支援集会。緊急にもかかわらず200名近い地域の仲間たちが続々と駆け付けてきた。
 11月25日、早朝からNHKテレビをはじめマスコミが実行犯4人の逮捕と「バイクに覚せい剤 労組幹部に白いワナ」と全国的に報道。その日の夕方、長崎と東部労組は記者会見で、「会社の上層部こそ真犯人だ」と大久保製壜闘争の経過と資本の徹底暴露を行う。たちまち地域・全国から会社に抗議の声が殺到した(写真上・国労千葉地本江東支部の抗議文)。
 支部と新労組は、12月2日から5日間の連続ストライキに突入した。(写真3・石川さんデモ指揮)

(職場から届いた重大な内部情報)
 ほどなく、大久保製壜所内の匿名の労働者から、密かに、真実を明かす重大な内部情報が記された「大学ノート」が長崎に届いた。「大学ノート」のそれによるとこの数年、社長が千葉にある知的障害者施設大久保学園内で実行犯と深く結びつき、その後1987年5月の新労組結成に慌てふためいて、この実行犯を新労組員が多く生活している大久保製壜所平井寮(男子寮)の寮監として新労組つぶしのため雇い入れたこと等詳細な内容だ。東部労組と弁護士の意見で、この「大学ノート」をそのまま本田警察署に提出した。

 12月14日、社長は当局の目をそらすために社長退陣を表明した。

(前社長逮捕と実刑2年の判決)
 1988年1月11日早朝、前社長ら二人は「ぶ告、逮捕監禁の疑い、覚醒剤取締法違反」で逮捕された。
 1989年2月8日、東京地裁は「卑劣で悪質極まりない犯行で、厳正であるべき捜査を誤らせ、刑事司法の信頼と権威を失墜させた責任は重い」として主犯格としてぶ告罪に問われた同社の前社長に懲役2年の実刑判決を言い渡した。この夜、亀戸駅近くの公園に550名が結集し、判決報告集会のあと、「前社長は罪を認めて謝罪しろ!」と叫びながら、降りしきる雨の中3キロの道を亀戸から会社までデモを敢行した。全国からの抗議電報は600通に達した。屋上八郎は取締役を解任された。(写真4・550名デモ)

(大久保製壜所(長崎)事件 損害賠償)
高裁判決(1994年2月28日)
「本件は警察権力を利用し、一審原告を犯罪者に仕立て上げることによって、労務対策の手段として労働組合の活動家である同人を会社から排除するだけでなく、その社会的生命までも葬り去ろうとした極めて異常な目的及び手段によって敢行された不法行為であり、その結果、全く身に覚えのない嫌疑で逮捕され、その身柄拘束期間中、被疑者として捜査官から厳しい追及を受けるとともに、手錠や腰縄の姿で連行されたり、カテーテルの使用による強制採尿を受けるなどによって被った一審原告の精神的、肉体的な苦痛は甚大というべきであり、一審被告らが今なお本件誣告についての一審被告乙二の関与を頑強に否定して謝罪すらしていないことをも考え併せれば、本件により一審原告が被った精神的損害を慰謝するための金額として300万円が相当というべきである。」
https://www.zenkiren.com/Portals/0/html/jinji/hannrei/shoshi/06353.html

(覚せい剤謀略犯罪まとめ)
「組合の切り崩しのため、その幹部である被害者を手段を選ばず解雇しようと狂奔し、種々不当なことを画策したあげく、ついには被害者を犯人に仕立てた犯意の覚せい剤所持をでっちあげ、単に被害者の逮捕に止まらず、社会的生命さえ葬りかねないことを当然認識しながらあえて警察に虚偽の申告を行ったもので、その経過、動機は卑劣にして悪質極まりなく・・・」「長崎に謝罪すら行っていない。」と地裁判決文で厳しく指弾された前社長は1989年3月5日控訴を取り下げ服役した。

 これで長年の大久保製壜所の労働争議はついに解決するかと誰もが思った。しかし、会社は居直り続けた。そのため激烈な闘いはその後1997年8月18日に東京都労働委員会の場で「争議全面解決」の協定が締結されるまで8年間も続いたのだ。特に1995年~1997年の「争議全面解決を勝ち取った2年間の闘い」は後に報告したい。

以上

写真1 大久保製壜所新労組結成

 

写真2 オートバイ座席シートと長崎

写真3 ストライキ デモ指揮をする石川さん

写真4・550名デモ

写真5 デモ指揮の岸本さん

 



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