大久保製壜闘争資料
「悪らつな障害者虐待に抗して」東部労組大久保製壜支部
1975年のキリスト教会ろう城闘争から約5年目の1981年2月に「解放教育 №132」(全国解放教育研究会遍 明治図書発行)に掲載された東部労組大久保製壜支部の「悪らつな障害者虐待に抗して」です。このたび加筆して紹介します。
(資本論第8節労働日第3編第4節昼間労働と夜間労働 交替制より)
「一日まる24時間の労働をわがものにするということこそ、資本主義的生産の内在的衝動なのである。しかし、同じ労働力が昼も夜も続けて搾取されるというようなことは、肉体的には不可能なので、この肉体的な障害を克服するためには、昼間食い尽くされる労働力と夜間食い尽くされる労働力との交替が必要となるのである。」
「(ガラス工場では児童を)夜間労働が、交替制によって、まる一週間休みなしに・・・・ときには12時間制度では、交替員の欠勤のために彼らは2番分の24時間労働をしなければならなかった」
「子供達の『規則的な食事』は不可能だ。というのは、そのために炉の放射熱の一定量が『純粋な損失になったり浪費』されることになるからだ。・・・・・その間に、たぶん夜おそくのことであろうが、『まったく禁欲的な』ガラス資本は、ポートワインに酔っぱらって、クラブから家へとよろめきながら、白痴のようにうなることであろう、『イギリス人が奴隷になってたまるか!』と。」
悪らつな障害者虐待に抗して
東京東部労組大久保製壜支部(検労組)
「解放教育 №132」全国解放教育研究会遍1981年2月号(明治図書発行)
──人肉取引の周旋人や下請け人が1860年に農業地方をほとんど成果なしにあさりまわったのちに、ある工場主代表は、救貧局長官ヴィラズ氏に、救貧院から貧児や孤児を供給することを再び許可するように請願した──
(『資本論』第八章 労働日より)
100年前の英国でガラス工場や紡績工場の資本家どもは、低賃金・酷使・長時間労働・深夜労働のなにより従順な労働力として婦人、児童、そして救貧院の孤児に目をつけた。そして救貧院からかりあつめた孤児たちに深夜労働、 長時間労働をはじめとする、まさに文字どおりの酷使、虐待を長年にわたり加えることによって自らの巨万の富を築きあげた。そして今日、大久保製壜資本は、これと全く同様、同じ目的で「障害者」に目をつけ、そして実行した。
資本家階級が彼らのどん欲な、残酷な階級的本性をむきだしにして「障害者」にねらいをさだめ実行した時、いかに数々の違法行為・虐待・酷使・暴力・差別を平然と行うか。一介の町工場のガラス会社の工場主が、資本主義社会から無限に産みだされる矛盾や差別を逆に搾取の道具としてのみ利用し、利用しぬく時、バラック建ての工場はみるみるうちに近代的工場と化し、全国に幾つもの関連会社を持ち、今では韓国にまで進出し、社長一族は千葉の船橋の高級住宅街に次々と豪邸を建て、高額所得者名簿にその名をの載せる。その一方では工場の多数の身体・知的障害者の労働者とその家族が、信じられないほどの悲惨な状況に置かれている。
100年前の「人肉周旋人、工場主」となんら変わらない資本家階級の底知れぬ悪虐非道の本性がそこにある。しかし、私たちにとって彼らの暴虐や仲間たちの悲惨さをバクロするだけでは決定的に不十分だ。むしろこのような困難な条件のもとでも仲間たちはたちあがったし、これからも、もっともっとたちあがるだろうということこそが大事なのだ。
このことは世界の多くの国の歴史が示している。昨日までいじめられ、抑圧され、搾取されつづけた人びとが、結局は自らの運命を自らの団結と闘いでにぎってきた歴史のように大久保製場における闘いにおいてもそうであったということ。仲間たちは闘争前の悲惨な状況に決して屈服していなかったということなのだ。
〈大衆は必ずたちあがる〉。このスローガンはこの間、私たちがいつも身にしみて知らされるスローガンだ。それはわずか5年前、決起のその日まで、大久保資本は勿論のこと、私たちですら目の前に日常的にくりひろげられる暴力・虐待・酷使に「一つの反抗もせず文句も言わず、あきらめきった、酒や競馬でしかウサをはらせず、毎日おどおどして、まるでドレイのような」仲間たちが、敢然と決起し敵と真向からたち向かい、仲間のためには給料が減らされてもどんな弾圧を受けても犠牲を恐れず頑強に闘い抜く、こんな5年間を想像すらできなかった。あるいはてっきり敵側だと思っていた職場の労働者がこっそりと千円札をわたしながら「ビラ代にでもしてくれ」といってくれた時の私たちの驚き。こういう場面はこの5年間、何十回となく経験してきた。私たちはあくまで職場内外の全ての抑圧され差別されつづける仲間の力を信じてこそ、敵の悪虐非道の全てをバクロし、闘い続けていけるのだと思う。
「障害者雇用のモデル工場」大久保製壜株式会社
大久保実社長が「障害者」を雇い使いだしたのは1960年頃で、10年後の1970年には東京墨田の本工場だけで200名労働者のうち身体、知的障害の労働者は100名を超え、 以後多い年でその数は130名近くにのぼった。1972年に至っては自ら知的障害者更生施設大久保学園を千葉船橋に設立し、露骨に低賃金労働力供給の場とした。この間、労働大臣からは身体障害者雇用促進に貢献したと感謝状や、かのシュバイツァーがもらったという国際アメリカン学術協会からアカデミー賞を受賞し、世間からも障害者雇用のモデル工場と認定され、その結果、莫大な融資を受けつづけた。社長はマスコミ等で「働く障害者に愛と希望を与えたい」とのべ、また多くの「特殊」学級、養護学校の教師からは卒業後の貴重な就職先として口々に感謝される。
リポビタンDなどの茶色のガラス壜を製造する一族経営の工場である。どこのガラス工場と同じ灼熱地獄と粉塵の舞う24時間操業、3交替勤務の正月など数日をのぞいては年中休みなしで操業する工場である。
(組合員、身体障害者日向さんの賃金明細書から)
就労の実態
上にあげた表は組合員日向君(身体障害者)の賃金明細書からのうつしである。大久保製壜における身体・知的障害の労働者の仲間の多くは、ほとんどがこのような苛酷な労働を強いられていた。深夜労働とは、夜の10時から朝の7時までの9時間の肉体労働。休憩時間は20分で3回しか与えられない。もちろん仮眠時間などない。7日間ないし6日間ぶっつづけで働く。たまに1日その間に公休をもらえれば、その労働者は仲間からうらやましがられる。
月4回の公休日は会社の(職制の)一方的な指定であり、日曜日に指定されるのは年に何回あったろうか。しかもこの公休も前日になるまで本当に休めるのかどうかまずわからない。その理由はこの上の表の「休日(公休日)出勤」である。前日の「明日でろ」。この職制の一言で決まる。知的障害者の労働者は全員寮生活である。日向さんたち身障者も何人かも寮生活だった。公休出勤命令は拒否などできない。職制が直接寮まできて、寝ている本人を怒鳴って、中にはぶっとばして起こしてつれてゆくケースもしばしばあった。ことわったらどんな暴力や虐待があるか。拒否した次の日から村八分にあった仲間もいた。しかも一か月の4回の公休日の中には、深夜労働一週間が終わったその日もふくまれる。深夜一週間ぶっつづけで働き、最後の日の朝七時まで働いたその日が公休というわけだ。この日は寝るしかない。代替休日など与えない。「休日(公休)出勤」、こんな日が続いたら一ヶ月丸々休みなしということだ。
強制的に夜勤労働日がふえるのがこの表からわかるだろう 。つまり、大久保製壜においては24時間操業を一部(朝7時~昼3時)、二部(昼3時~夜10時)、深夜労働(夜10時~朝7時)の三組にわけ、これを一週間ずつ交替でやる。だからふつう深夜労働は一か月に一週間の場合と二週間の場合がある。本来一ヶ月内で深夜労働は7日間か14日間ということになる。ところがこれも、年柄年中「休日(公休)出勤」でこれ以上やらされるのだ。それでなくても身体の不自由な仲間たちが、まさに世間の何倍もの酷使をこれでもかこれでもかと強いられていたのだ。表にあるように日向君は1974年の1月に20日間も深夜労働をやらされていた。他にも22日間もやらされていた知的障害者の仲間もいた。
これだけで終わらない。14時間、15時間の通し勤務 (一部二部・·二部三郎)や三週間に二回は全員で必ずやる12時間労働(夕方7時から翌朝の7時までと朝7時から夕方の7時まで)の日があった。これを〈出会い〉と言った。まだまだある。
日向さんの1974年5月の賃金明細書をみてほしい。深夜労働回数17日間と休日出勤6日間、一ヶ月ほとんど休んでいない。賃金からは社内預金31,000円が引かれている。しかし、これ以外にも食券代、寮費、衣服代、ふとん代、お茶代、親睦会費、売店代、クリーニング代と引かれるのだ。こうして本人に手渡されるのはわずか8,929円。当時の会社内の健常者平均賃金は8万8千円だ。
この文章を書きながらつい数年前までの工場の状況が次々に頭の中によみがえる。憎しみで腹の中がにえくり返ってくる。
日常的暴力と虐待
このような労働条件の中で、いったい何人の仲間がたおれていったか。耐えきれずに逃亡した仲間、 つれもどされぶっとばされた仲間。みんな青白い顔をしてガリガリにやせ、フラフラになり、何万本とベルトコンベアーにのって絶え間なく流れるガラス壜を眼で追いながら検査し、その中の不良品をすかさず取り除く身障者の検査員。決して途切れることのないガラス壜はコンベアーの最後ではターンテーブルに溢れる。そのビンを、両手で一度に何本も持っては猛烈なスピードで次々にダンボール箱につめていく知的障害者の仲間。一晩中立ちつづけてトイレに立つひまもない。手もずーと動きっぱなしだ。学生アルバイトや出稼ぎのおっちゃんたちが二人がかりでやっても間にあわない仕事を仲間たちは一人でやる。
職場内で仲間が倒れても機械やコンベアーをとめはしない。仲間たちは、次々と身体をこわし、また大きな労働災害が続発した。 千葉組合員は機械で指を切断した。職制からは「指の一本や二本なんだ。なくても仕事はできる。休むなよ」と言われ、社長には「けがする奴は大馬鹿野郎だ」と逆にどなられ結局一日も病気欠勤すら認められず、また「てんかん」保持者であることを会社は十分承知すぎるくらいしっている労働者を、労基署からの指導すら無視し、長時間残業や深夜労働で酷使した。そのあげくに会社内風呂場で深夜ぶったおれ溺れ死んでいった仲間もいた。死んだ彼は深夜労働を一番暑い七月に16回、八月に19回とやらされ、そして九月に12回、十月に14回、死んだ十一月には月の半ばなのに8回やっている。
過去にも社長は向島労基署から1966年、69年労基法第六二条違反、「未成年、婦女子への深夜労働の強制」で二回も摘発され、書類送検、罰金刑をくらっていたことをキリスト教会ろう城闘争に決起したあと私たちははじめて知った。なにが障害者雇用促進だ! なにがシュバイツァーと同じアカデミー賞だ。
上にあげた表で示したようにこれだけの重労働、長時間労働の上もらえる給料はわずか何千円。社内貯金はもちろん自由に引きだすことなどできるわけがない。大久保製壜の最低賃金法違反は教会ろう城闘争直後に国会でもバクロされた。この5年間で私たちの闘いを通じ、向島労基署が会社を摘発した中身は何十項目にも及ぶが、その中には1977年の最賃法違反での摘発や1980年にも28名もの仲間を最賃以下でこき使っていたことがわかり再び摘発。その他に労基法37条違反(77年)割まし賃金のごまかし、同24条違反(76年)違法な賃金からの社内貯金の差しひき、同108条違反賃金台帳の不備など次々と摘発された。
まさにめちゃくちゃな大久保資本のやり口。ではこの最賃法違反で摘発された以外の他の年には全ての知的障害者の労働者の仲間に最賃制以上の金を払っていたのか。とんでもない。大久保資本が目をつけたのは 「最賃制除外申請」だ。知的障害者の多くを最賃制から除外するように労働基準監督署に申請し、なんと労基署署長は昨年(1980年) 私たちの闘いによって阻止されるまで、1966年以来多い年で36名もの最賃除外を毎年許可していたのである。
「精薄者(知的障害者)は大猫と同じだ。春になるとさかりがつく」と暴言した某職制、現場ではなぐるけるはあたりまえ。風呂場で桶にいれた小便を頭からかけられた仲間。モンキースパナでなぐられ頭を血で染めた仲間。鎖でしばられからかわれる仲間。風呂場で陰毛をそり落とされた仲間。性器を無理やり露出させられ女性の前であるかされた仲間。
わずか二年間に女子身体、知的障害者の労働者への性的重犯罪が6件。取締役工場長(社長の実弟)が女子寮に深夜しのびこみ、おそいかかるというひどさ。この6件は大久保資本自ら裁判でも認めるほど身体、知的女性障害者への暴力と虐待は日常化していた。その上、知的障害者を一様に「子供」と呼び、名前ではなく「おい子どもちょっとこい」と怒鳴られる。日常的に「生きたロボット」「子供」「パップ」「バカ」「ビッコ」等の差別罵声が飛び交う、「パップ」とは大久保製壜工場内の独特の知的障害者への蔑視呼称だ。御用組合からは、知的障害者と重度の障害者は「労働組合加入資格なし」と掲示板の名簿の名前の上に赤まるを付けられた。東部労組大久保製壜支部初代委員長の杉田さんの名前の上にもその赤まる印がつけられていたのだ。
そして決起
5年前の1975年11月30日、検査課の身体障害者と知的障害者の仲間を中心とする40余名は徹夜で工場内にすわりこんだ。その中には3人の健常労働者もいた。深夜、鉄パイプで窓ガラスをくだき、おそいかかり暴力をふるう職制と御用労組幹部。みんなは死にものぐるいとなって体を張ってそいつらを工場の外に追い出した。寒さと恐怖で歯をガチガチとならしながらも敵への限りない憎しみは一気に爆発した。もうあとにはひけない。大久保製壜闘争の今日まで丸5年の闘いは、この日から開始されたのだ。
知的障害者の仲間に暴力をふるった一人の職制への抗議行動は、 この日の昼にA班から勃発した。あっという間にC班、B班へと爆発的に拡がり、そしてそのまま工場内徹夜すわりこみへと発展した。長年にわたり暴力・虐待・差別・酷使をほしいままに行いつづけ、私たちを侮辱し、おどし、搾取し続けたあの鬼のような大久保資本に、私たちはついに団結してはじめて闘いにたちあがったのだ。翌朝、工場を追いだされた36名は、その後、10日余りのキリスト教会ろう城闘争を闘い、自らの労働組合結成をかちとり、大久保資本の悪虐非道の全てをマスコミで満天下に暴露した。東京東部労働組合の中小工場で働く全組合員、日本基督教団堀切教会斎藤牧師、キリスト者、保母、地域の障害児の父母グループ、地域の区役所ら労組員、部落解放同盟墨田・葛飾支部、知的障害者通勤寮原町成年寮職員集団、家族等全力をあげての炊き出し支援など私たちをどんなに勇気づけ、そして敵に打撃を与えたことか。まさに当該、支援一体となった、よってたかっての闘いであった。たまたま国際障害者年という年でもあり、マスコミもテレビのワイドショーなど連日大きく報道した。国会でも取り上げられた。
私たちの要求は「ボーナス一律2カ月」だ。「一律」にこそこだわった命がけの闘いだった。そして全面勝利をかちとった。
しかし、工場復帰就労直後から敵の報復、巻き返しはただちに開始された。教会ろう城直後の正月休みで田舎に帰った知的障害者の組合員の多くは、もう二度と工場に帰ってこなかった。卑劣な会社が手を廻したのだ。労務ゴロ屋上八郎導入、ガードマン導入、買収、おどし、不当配転、村八分、2年間に及ぶ団交拒否、組合員のみ年末一時金未払い、NHKテレビなどへの告訴攻擊、当該一名支援二名の不当逮捕、暴力事件でっちあげ攻撃、不当解雇一名を含む大量不当処分(出勤停止・降格・減給など)、製壜課の副委員長の頭上にだけ監視カメラ設置等、この徹底した組合つぶし攻撃といじめは5年後の今日まで続く。
このすさまじい組合つぶしにより、いったんは組合員は36名から8名に切り崩された。3交替勤務の為、職場では組合員は誰でも一人か二人ぼっちだ。周りはすべて御用組合員と職制だ。しかし私たちは歯を喰いしばり、あくまで職場の仲間を信じ、仲間との団結を求め頑張りぬいた。この悪虐非道のもとにいじめられ苦しめられ続けられている仲間たちがたちあがらないわけがない。そしてこの大弾圧のさなか、ついに6名もの仲間が新たに組合に参加したのだ。
「障害者差別反対 ! 組合つぶし粉砕 ! 不当解雇撤回 !」のスローガンのもと、「職場大衆との団結を基礎に、彼らと共に職場内実力闘争で決着をつける。地域の支援と積極的に団結し、地域から大久保資本を包囲し、都労委、裁判、労基署闘争などを通して社会的にも敵を孤立させる」を基本方針として私たちはふたたびたちあがった。
職場内でのストライキ、そして地域の仲間たちの献身的支援のもと、1年に及ぶ毎週の門前闘争や今日まで40万枚にのぼる工場周辺路上ビラまきや地域各戸ビラ入れ。会社の周りの路地から路地を巡る2時間に及ぶデモを350名の仲間と貫徹。決起集会と工場包囲デモ。不当逮捕に対しては、ただちに向島警察署前に100名で深夜3時まで糾弾するなど不眠不休の闘いで3日後に奪還。そして都労委、裁判闘争、労基署闘争と連続して闘い、団交再開を獲得するなど、敵の弾圧を一つひとつはねのけてきている。
同時に職場の苛酷な労働条件の改善を職場大衆と共に闘い、大幅な改善をかちとってきた(一か月の深夜労働の日数をなんと半分にさせ、休日を倍にさせるなど)。なにより資本と御用労組幹部の支配のもとで苦しめられている仲間たちとの団結は飛躍的に前進し、仲間たちは私たちに声援を送り、あるいは情報を流すなど、共に闘い、敵の支部組合孤立化策動を粉砕しつつある。
組合員不当解雇の撤回を
東部労組、支援連帯会議や地区労各労組、部落解放同盟墨田支部をはじめ多くの仲間たちは、この5年間私たちと共に不眠不休で闘い、地城共闘で大久保資本を地域から包囲してくれている。工場周辺住民は積極的に私たちに声援を送り、カンパを届けてくれ、とりわけ昨年7月から4か月闘った署名運動に工場周辺の地域住民から1,400名もの署名がよせられた(全国から400団体、34,608名)。
1977年3月、身体障害者である組合員A君を大久保資本は突然解雇してきた。A君が結婚の約束をし、このことを仲間にも相談して何年も前から公然と交際していた同じ職場の女子労働者Eさんが知的障害者であるということを、卑劣にも利用し、なんと「精薄者(知的障害者)には恋愛、性行為など社会的に信頼し得る承諾をなす能力を有しない」、 だから二人の交際はA君のワイセツ行為であるとでっちあげ、二人の意思を乱暴にも抹殺し、二人を暴力的に引き離し(Eさんを無理矢理退職させ、姿をくらまさせた)、その上でA君を解雇するという、まさに組合をつぶすためには手段を選ばないやり口をとってきた。都労委においても敵は「素直なだけが唯一のとりえの精薄者(知的障害者)」と平然と証言する大久保資本ならではの卑劣なやり口である。彼らの障害者差別・虐待、組合つぶし、労働者搾取の本質は何ら変わっていない。
私たちは現在14名という本当に小さな火花ではあるが東部労組の「足を職場にすえ、胸で国をおもい、目を世界に放て」のスローガンのもと、職場、地域・全国、そして光州人民をはじめ世界の仲間たちに学び、本当にあらゆる「差別」をなくすために、大久保製壜闘争の最後の勝利まであと5年でも10年でも頑張ります。全国の仲間の皆さんの御声援、御指導これからもよろしくお願いもうしあげます。
以上
(追)
大久保製壜闘争はこの年以降も幾多の闘いが続き、その過程で職場の仲間たちが次々と決起してきます。1987年5月にはついに御用組合の青年労働者22名がたちあがり、支部は職場で過半数となります。その年11月に会社は「覚醒剤謀略犯罪」を起こし、前社長らは獄に繋がれます。それでも組合攻撃をやめようとしない会社に対し、1995年東部労組と大久保製壜支部は、「大久保争議の全面解決をめざす総力戦」の方針を決定します。地域・全国の方々の応援による2年間の大闘争のすえ、ついに全面解決を勝ち取ります。実にキリスト教会ろう城闘争から21年9ヶ月目の1997年8月18日でした。「争議の全面解決をめざす2年間の総力戦」の詳細はいずれ資料としてこのブログで報告する予定です。(2024年1月29日)