先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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第一回メーデー (読書メモ——「日本労働年鑑」第2集/1921年版 大原社研編) 

2021年08月11日 19時42分08秒 | 1920年の労働運動


写真・1920年5月2日第一回メーデー 上野公園

第一回メーデー(読書メモ——「日本労働年鑑」第2集/1921年版 大原社研編)

参照
「日本労働年鑑 第2集 1921年版」大原社研編)
「日本労働運動史㊤明治・大正_」犬丸義一
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋

第一回メーデー宣伝ビラ
 労働日を祝せよ!
万国の労働者の国際的大祝日たる五月一日来る! 労働祭が世界の労働運動史に現れてより、ここに三十有余年その威力は年と共に加わりつつある。この日、ロンドン、パリ、ベルリン、䊼育(シカゴ?)その他あらゆる世界の大都市では全労働者が隊伍堂々たる示威運動を行い、盛んなる祝祭を挙行する。
 諸君よ!  労働者はみな兄弟である。我々にとって男女の別も、人種の別も国民の別も何もない。ただ我々の鉄腕より生まれる、我々生産者はすべて一体である。
 新しい戦闘的精神に燃ゆる我日本の新興労働者諸君よ!  今日の労働祭を祝福せよ、万国の兄弟は今日、労働者解放の大絶叫をなしつつある。我々も彼らの声に応じて我々の奴隷的境遇の破壊を叫ばねばならぬ。
 労働祭は労働者の階級意義の表現である。我々の労力の上に眠る資本家に挑む定期的戦闘である。我々の心底からの要求の声をもって資本家の眠りを破れ。
 五月一日を祝福せよ。五月一日に大示威運動を敢行せよ。労働を祝福し、生産者たるを誇れ。万国の労働者団結せよ。
(1920年5月メーデーの事前に配布されたビラ)

第一回メーデー

日本のメーデー前史 日本労働者大懇親会 1901年(明治34年)4月3日
 片山潜と友人『二六新報』の小野瀬記者が計画し呼びかけた日本労働者大懇親会。4月3日、隅田川沿い向島の白髭神社を中心した会場で開催された。前売り入場券は5万枚が売れ、警視庁の妨害をはねのけた労働者は、夜中の一時、二時から集合し100名、30名と隊列を組んで会場に乗り込み、それぞれがかがり火をたいて、夜が明けるのを待った。    午前7時には入場者はすでに5千人を越え、会場中央の丘には「黒丸の旗」が掲げられた。3万人の労働者がつめかけ、入れない者は丘の周辺を取り囲んだ。演壇から片山潜は「工場法」「普通選挙」の実現を要求し、また毎年この労働者懇親会を開催することを提案し、参加者は可決した。閉会は幹事が「天皇陛下万歳!」を三唱した。千名の警官のいる前で、吉原遊廓のならず者たち50名が殴り込み、会場設備を破壊する大乱暴を公然と行った。政府は翌年からこの懇親会の開催を禁止し弾圧した。

第一回メーデー 1920年(大正9年)5月2日
 5月2日日曜日、午前上野公園に赤黒とりどりの会旗を先頭に労働者が続々と詰め掛けた。午後1時開会。赤インクで書いた大のぼり旗には「治安警察法第17条の撤廃」「失業の防止」「最低賃金を設定せよ」「8時間労働制を」などの大文字が。主催団体の総同盟友愛会、信友会(活版工組合)、正進会(新聞印刷工組合)、大進会、汎労会、小石川労働会、自由労働者組合、工人会、機械技工組合、日本労働組合、全国鉱夫組合、工友会、鉱山労働同盟、交通労働組合など15の労働団体と啓明会という教育者の1団体で、参加した労働者は約1万余名。

 正進会、信友会の一隊は真紅の旗を押し立て、街々でチラシを撒きながら上野公園に向かっていたところ、警官から阻止され数名の労働者が検束された。この一報がメーデー会場に知らされ参加者の怒りが高まる。午後1時、総同盟友愛会会長の鈴木文治が割れんばかりの拍手のもと開会を宣言し、続いて松岡駒吉による「宣言」と信友会による「決議」が朗読された。

「宣言
 われわれは、ここに日本最初の労働祭を挙行す、労働祭は労働者の自覚、訓練、団結を表現する祝祭にして、この祝祭の歓喜は労働者のみこれを知る。われわれは今日、世界万国の労働者と共に労働者階級の解放と万人の自由を絶叫す。
(略)
 いまや恐慌が来て資本家の破たんがあいつぎ、労働者は不合理の犠牲になろうとしている。恐慌は資本主義の一大特徴である。われわれは敢然として、その余波がわれわれにおよぶのを防衛しなければならない。
 労働祭を祝おう。しかしてわれわれは、この日の祝祭を意義あらしめよう」

「決議
一、われらは、悪法治安警察法第17条の撤廃を要求す
一、われらは、恐慌来にさいし、失業の防止を要求す
一、われらは、人間としての生活を保障する最低賃金法の制定を要求す」

 この宣言と決議は、満場の拍手で可決され、続いて緊急動議が提案された。信友会代表は「8時間労働制」を、啓明会代表からは「シベリア即時撤兵」「公費教育の実現」「言論絶対自由」の要求を提案し、参加者は熱誠をもって可決した。

 会場の3ヵ所での演説会が1時間ほどあり、労働者や学生、社会主義者が次々と立って自由に演説し、会場の労働者からは大いに歓迎された。労働歌は絶えず歌われた。午後3時半に鈴木文治が「今年は日曜日を選んだが、来年は何曜でも構わぬ。仕事を休んで、この会を開こうではないか。私は、マルクスの言をもって閉会の辞とする。"万国の労働者、団結せよ"」と叫び、会場の労働者も「万国の労働者万歳!」と何度となく三唱し、その声は上野の森をゆるがした。

デモ
 警視庁は当日の街頭デモを禁止したが、信友会から「本日の犠牲者、検束者の解放を迫ろう」と緊急動議がだされ、労働者は喚声をあげて応え、たちまち隊伍を組み、会旗を翻し、労働歌を歌いながらデモに入った。労働者は「ワッショイワッショイ」と数十の旗を先頭に、上野の山を下りてデモに突入した。上野広小路交差点で、弾圧してきた警官ともみあい、万世橋付近で待機していた警官がデモ隊に襲いかかり、いたるところで乱闘や格闘が起き、5.6名が検束された。デモ隊は、そのまま神田錦町警察署まで押しかけ警察への抗議と検束者の即時釈放を要求した。午後5時にようやく散開した。検束者はその夜全員釈放された。

メーデー歌
 今歌われているメーデー歌は1922年の第3回メーデーから歌われる。池貝鉄工所ストライキの中で生まれた。作詞大場勇(池貝鉄工所労働者、機械労働組合連合活動家)。

社会主義同盟1920(大正9)年12月9日結成
 弁護士の山崎今朝弥、社会主義者の山川均、無政府主義者の岩佐作太郎、麻生久(友愛会)、荒畑寒村、加藤勘十、大杉栄、堺利彦、和田厳らが発起人。参加希望者はたちまち全国で千名を超えた。10日午後1時の演説会。数十名検挙。同日夜の後援会は3千に余る警官に囲まれ、200名ちかくも検挙。13名が起訴される。

革命歌
ああ革命は近づけり
ああ革命は近づけり
起てよ、白屋襤褸(はくおくらんる)の子
醒めよ市井(しせい)の貧窮児



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