先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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沖縄出身女性労働者が多かった富士紡績川崎工場の争議! 1925年主な労働争議 (読書メモ)

2022年07月06日 08時00分00秒 | 1925年の労働運動

 沖縄出身女性労働者が多かった富士紡績川崎工場の争議! 1925年主な労働争議 (読書メモ)
参照 「日本労働年鑑」第7集/1926年版 大原社研編
   『関東大震災で犠牲になった沖縄の女性たち 災厄は弱者にしわ寄せ』(女性史研究者・江刺昭子)

 1925年の紡績工場争議
 1925年の主な紡績・織物・染物工場争議は、愛知織物争議(940名)、大阪の小林友禅工場外29工場争議(830名)、東京の白金メリヤス争議(300名)、大阪メリヤス争議(1,300名)、大阪の柏原紡績争議(320名)、栃木の山保毛織物争議(600名)、京都の洛西友禅争議(400名)、岐阜の後藤毛織争議(500名)、そして神奈川の富士紡績川崎工場(2,000名)です。この年、多くの紡績女性労働者が全国で決起します。
 富士紡争議は、すでに1920年押上工場2,000名争議がありますが、 この年1925年川崎工場争議も過酷な寄宿舎の女性労働者の待遇改善を求めた2千名労働者の決起です。1930年には有名な「煙突男」の争議も起きます。

沖縄出身者が多かった富士紡績工場川崎工場
 『関東大震災で犠牲になった沖縄の女性たち 災厄は弱者にしわ寄せ』(女性史研究者・江刺昭子、47NEWS 2020年9月1日)
https://nordot.app/673009891604005985
 『沖縄県史』。沖縄から本土への出稼ぎが、本格的になったのは1920年頃からで、25年における県外出稼ぎ者は2万人近くいて、男性より女性のほうが多い。女性1万829人のうち、大阪3824人に次いで多いのが神奈川の1832人。そのほとんどが富士紡川崎工場だったとみられます。当時5千人が働いていた富士紡績川崎工場の女性労働者のほとんどは工場内の寄宿舎で寝起きし、12時間労働の2交替についていました。
 
 1923年9月1日の関東大震災勃発、
《富士紡は寄宿舎7棟を含む建物19棟が全壊した。死者154人(女134人・男20人)、重軽傷者35人(女34人・男1人)に及んだ。地震発生が白昼(午前11時58分)だったのにほとんどが圧死だったのは、きつい夜勤明けの睡眠中だったからだ。同年10月に富士紡が川崎町に提出した死傷者名簿によると、亡くなった女工は13歳から16歳が多く、最年少は12歳。生年月日と入社年月日から計算すると、10歳、11歳で入社した人が計14人いる。小学校を出るか出ないかで働きにきて、1、2年で犠牲になっており、いたましい。
 通勤9人を含む死者は全て他府県出身者で、沖縄県がだんぜん多く48人(女46人・男2人)、次いで秋田16人(女14人・男2人)、新潟14人(女13人・男1人)、青森13人(女11人・男2人)と続く。それだけの犠牲があっても、工場が再建されると沖縄からの出稼ぎはさらに増えている。》
《25年には大きな労働争議が起きる。労働組合の全国組織、総同盟が指導したストライキは長期に及び、県知事の調停で終結した。このとき争議団が出した要求書には「寄宿女工の近親者が病気危篤のときは帰郷を許可してほしい」「近親者と面会させてほしい」「休日には外出を自由にしてほしい」といったあたりまえの要求が並んでおり、待遇のひどさがわかる。
 この紛争は「籠の鳥争議」と呼ばれた。「籠の鳥」は当時の流行歌で、それをもとにした映画も人気になった。自由を奪われた状態やそのような状態にある人の暗喩である。》

最後に江刺昭子さんは、
《寄宿舎では昼夜勤の者が交代で同じ蒲団に寝た。昼食は麦飯、たくあんに味噌汁だけだった。人の声も聞えないほどの機械の音と、眉の上に綿ぼこりがたまるほどのひどい塵埃の中で働いた。だから、結核などの感染症が蔓延した。
 病を養うために帰郷して亡くなる人が相次ぎ、沖縄は全国有数の結核県になった。いま、都市由来のコロナ禍で苦しむ沖縄の姿と重なる。
 コロナ禍により女性の雇用環境が厳しさを増している。5月の労働力調査によると、非正規労働者は前年同月比で61万人減り、その7割を女性が占めた。女性の働き手が多い飲食業や宿泊業が深刻な打撃を受け、離職者が増えているからだという。
 災厄のとき、不景気のとき、そのしわ寄せは最初に弱者に及び、解消するのは弱者が最後となる。沖縄の人たちに、職場や家庭で働く女性たちに、かつてと同じような辛酸をなめさせてはならない。》と結んでいます。

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1925年富士紡績工場川崎工場2,000名争議
(参照「日本労働年鑑」第7集/1926年版 大原社研編)
 神奈川県川崎市の富士紡川崎工場で、かねてから日本労働総同盟に加盟している労働者70名の排除を計画し、1925年11月13日、女性労働者阿部こう以下13名を解雇してきましたた。13名は工場長に抗議と解雇撤回を要求し、同時に総同盟に応援を依頼します。総同盟本部の松岡駒吉は工場に乗り込み工場長に面会を求めますが面会を拒絶されます。18日午前6時、争議団一同は大挙して旭町の吉岡工場長の私宅に押し寄せて面会を要求しますが、吉岡工場長は、自宅裏から逃げ出し工場内に隠れます。後を追った争議団一同は工場に入ろうとして守衛と殴り合いの乱闘となりますが、ついに全員工場内に押し入り、会社の寮にいる多くの女性労働者に向けて、ビラ『富士紡の血あり涙ある女工諸君に訴ふ』を配布しました。

(ゴロツキ・ならず者の襲撃)
 一方工場側は、ゴロツキ・ならず者多数を狩り集め雇った暴力団に争議団襲撃を命じ、ついには決起した労働者を暴力で工場外に追い出します。同時に同工場勤務の男女5千名に対して一切の外出、外泊を禁じたのです。

(切実な要求)
 争議団は、19日午前6時半から工場門前に押しかけ気勢を上げます。「日本労働総同盟前線同志会(*)」が応援に駆け付けます。午前10時日本労働総同盟関東紡績労働組合川崎支部として以下の要求書を会社側に提出しました。
要求書
一、寄宿女子の取り扱いの改善
 (イ)近親者に病気危篤のものある際はすぐに帰国を許可してほしい
 (ロ)近親者の面会を自由にしてほしい
 (ハ)休日と事情がある時は外出を自由にしてほしい
一、解雇された者全員の復職
一、食事の改善と栄養と清潔にしてほしい、また一日一度は肉か魚を使用してほしい
一、労働組合加入の自由を認める事

 川崎警察署署長の調停が行われましたが不調に終わります。争議団はこの夜の夜勤勤務者にストライキ参加を呼びかける活動をしますが、その際警官隊ともめます。ストに勧誘することは治安警察法違反でした。20日、会社は女工たちの郷里の親たちに「(女工酷使・虐待・女工哀史の)新聞記事は虚構」だと報告してまわります。 

(2千名女工の抜き打ちストライキ)
 21日午前4時、夜勤中の2千余名の女性労働者は突然動力を止めて全面ストライキを決行します。午前6時の交替時になるや正門と裏門を破って脱出しようする2千名女性労働者に対し、再び会社の暴力団が襲い掛かります。工場の外からは労働者の応援部隊が押し寄せ、数名の検束者をだします。その夜の演説会はおおいに気勢があがりました。
 22日、工場は完全に止まります。会社はやむなく休業とし、争議団は示威行動を繰り返します。

(総同盟と評議会の対立)
 応援に来た関東地方評議会と総同盟との間に衝突が起きます。原因は、関東地方評議会がまいた総同盟批判のビラにあります。その後総同盟は「関東地方評議会の応援を拒絶する」と決議します。23日の示威行動は警察によって中止させられましたが、応援に来た関東地方評議会だけが労働歌を高唱しながら市中を練り歩き、40名が検束されます。
 24日、争議団は雨の中示威行動をやり抜き、会社糾弾演説会を開催します。
 26日、自由法曹団の松谷與二郎弁護士ら10名は、会社を訪ね、「女工監禁」を抗議しますが、会社は面会を拒否します。この夜の関東地方評議会主催による演説会は総同盟側の前線同志会*らの実力妨害で大混乱となり警察から解散させられます。

(県知事の調停で解決)
 29日、神奈川県知事の調停により解決します。
解決要綱
一、寄宿職工の食事の改善
一、被解雇者への解雇手当の支給と16名に金4千円の見舞金の支給
一、今回の争議参加者を解雇しない事
一、スト中の賃金三分の一を支払う
一、(県知事の希望として)労働組合に加入しても解雇しない事

会社もこれを了解し、これとは別に全労働者に見舞金として3千圓を贈ることにします。

 2千名争議団は30日より一斉に就業につきます。

 (なお最後の解決報告演説会の最中に、芝浦鉄工組合員が革命歌を高唱して検束され、それを奪い返そうとした芝浦鉄工組合員150余名が警察隊に押し寄せ、50余名が検束されます。)

*前線同志会
 総同盟右派が、総同盟左派やその後の評議会排除を目的として組織した青年実力部隊



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