先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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『野田の奴隷を解放せよ』と刻苦奮闘した小泉七造。野田醤油争議(その二) 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年10月04日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

写真
上・二列目右のネクタイ姿が小泉七造(野田支部長)
中央に小岩井相助(野田支部主事、1927年争議時の争議団団長)
下・野田争議団家族慰安子供演劇会(1924年)

『野田の奴隷を解放せよ』と刻苦奮闘した小泉七造。野田醤油争議(その二) 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会」史料
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉

偉大な先輩小泉七造の努力
 北海道の室蘭日本製鋼所の旋盤工であった小泉七造は、室蘭日本製鋼所の大ストライキを多数の仲間と共に果敢に闘ったひとりだ。1919年室蘭日本製鋼所を追われた小泉七造は、その後東京山崎鉄工所鉄工となり、1920年暮れに同工場野田工場担当として野田町に派遣された。山崎鉄工所は野田醤油会社など醸造工場に諸機械を納入し、小泉七造は、その機械の据えつけや修理を請け負っていた。この仕事を通して野田町の各醤油工場に出入り、労働者の劣悪な労働状態と仲間たちとその家族の悲惨さと苦しみ怒りを目の当たりにした小泉七造は、1921(大正10)年9月頃より独り労働組合の組織化オルグをはじめる。

(石鹸の行商)
 1921年9月、小泉七造は野田醤油第15工場で機械の据付中、左腕に大怪我を追う労災事故に遇い、野田醤油が経営する野田病院に運びこまれ入院した。野田醤油は日給30日分を見舞金として与え、山崎鉄工所は怪我をしている者はもう使えないといくばくかの解雇手当金で小泉を解雇した。大怪我にもめげず退院したあとも野田町にとどまった小泉七造は石鹸の行商で生活の糧を得ながら野田醤油労働者へのオルグと働きかけに刻苦奮闘した。

(『野田の奴隷を解放せよ』)
 小泉七造は、ひそかに『野田の奴隷を解放せよ』というスローガンをかかげて、野田醤油の仲間たちに労働組合の必要性を説き、一人一人の労働者と必死に団結した。ついに1921年11月6日8人、8日には22人の野田醤油の労働者が総同盟に加入した。同月末には更に120余人、12月には約250人となり、12月15日午後1時、愛宕神社境内の広場において日本労働総同盟野田支部発会式が挙行された。当日は総同盟本部から鈴木代表と室蘭日本製綱所争議時代に共に闘い、今は総同盟本部にいる松岡駒吉や日本労働学校の主事ら全体で1,500人、野田醤油労働者は約300人が出席した。小泉七造は司会と支部結成までの経過報告を行った。総同盟鈴木代表や松岡らも演説した。労働組合結成ではかつてなかった花火まで打ちあげられた発会式は参加した野田醤油労働者に多大な感動を与えた。小泉七造の喜びもいかばかりであったろうか。午後4時、会旗と小泉七造を先頭にした1,500人は町の大通りを大阪屋旅館まで黒山の群衆の前を堂々とデモを敢行した。野田町歴史上初めての出来事であった。会社は驚愕した。

(御用団体発会式粉砕闘争)
 労働組合野田支部の登場にあわてふためいた野田醤油会社は、ただちに組合攻撃を画策しはじめた。まず各工場ごとに「親和会」「調和会」「萬友会」「交調会」等という御用団体をつくり労働者を強制的に加入させた。しかも加入時には一人金2円を与え、労働組合攻撃の部隊にしようとした。支部組合員への職場でのいじめもはじまった。1922(大正11)年2月24日、会社は、同じ愛宕神社の境内の広場で御用団体発会式を大々的に開催した。当日は、折詰、酒の壜詰めと金50銭を労働者400人の参加者ひとり一人に配布した。壇上には茂木啓三郎役員を御用団体の代表とする重役陣が勢ぞろいした。規約が提起された。規約の中に労働組合加入を禁ずる条項があった。これに発会式参加労働者が一斉に抗議の声をあげた。同時に愛宕神社の外からは小泉七造を先頭に支部組合員300人が柵を乗り越え怒涛のようになだれ込んだ。境内広場に響く労働歌と怒号と混乱。その中を小泉七造はひとり壇上に駆け上がって大アジテーションをする。過酷な職場環境を改善する必要と労働組合加入の自由とこれを禁止しようとする御用団体を糾弾する大演説であった。『野田の奴隷を解放せよ』の小泉七造のこの叫びはそこにいた全労働者の魂を震わせた。会場の労働者は拍手喝采で応えた。非組合員であった400人労働者も一緒に立ち上がったのだ。御用団体の発会式はめちゃめちゃになり粉砕された。ほどなく野田醤油醸造労働者のほとんどが組合員となった。こうして職場の御用団体は消滅した。

(2,200人の大労組へ発展)
 小泉七造野田支部長のもと、わずか2年足らずで野田醤油16ヵ工場1,500人を擁する大労働組合がうまれた。1922(大正11)年には、行徳町の第16工場労働者も組合に参加し、また樽工組合、鳶工組合、製樽工組合、木工組合など職業別に組織を変更し、それぞれに執行役員を決めた。この頃より、南盛堂印刷所、中惣味噌工場、大日本醸造株式会社岩名工場、丸三運送店、白木工場、野田運輸会社等野田醤油の関連会社と運送会社の労働者もすべて加入した。1923(大正12)年2月に、職業別組織を工場別組織と変更、一工場一組織とし、野田支部聯合会と改称した。1927(昭和2)年には組合員は2,238人でそのうち女性は430人であった。組合費として毎月40銭を納め、ストライキの闘争資金の貯金もした。
 小泉七造ら野田支部は労働学校を頻繁に開催し、また児童や家族向けの催しも頻繁に計画した(上の写真は1924年争議時の組合主催の児童演劇会の様子)。

(野田町メーデー)
 5月1日のメーデーを野田町地域独自メーデーとして開催し、野田町を練り歩く大規模なデモを毎年行っている。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/dded2ca78605bf6ad80afacefef38cb1

(小泉七造の命を狙う敵)
 1922(大正11)年7月、野田支部所属の桶工組合170人が、会社とそれぞれが所属している棟梁(親分)に対して、ピンはね(中間搾取)撤回を要求した。会社と各棟梁はこの機に乗じて組合をつぶさんと堅く結束した。まず、野田分署長警部石原徳太郎を買収し治安警察法で小泉七造らを獄につなげてしまえと、「菓子折」の中に金50圓を入れて石原徳太郎宅に持参提供したが、徳太郎から拒絶されてしまった。あきらめきれない会社と棟梁らは、組合に反感を抱いていたならず者で凶暴者木村純一郎に金・日本刀を渡し、小泉七造らの殺害を命じた。木村純一郎は小泉七造を殺害しようと徘徊をはじめた。野田支部はただちに防衛隊を組織し、小泉七造らの護衛に入った。7月23日の夏祭り、ピストルを持った木村は小泉に迫った。たちまち小泉を護衛していた組合員2人が木村を短刀で反撃し、木村を殺してしまった。小泉七造ら19人が検挙(そのうち1人は獄死している)、小泉も一年近く千葉未決監に拘留され、一旦は有罪判決がでたが、1924(大正13)年2月28日の東京控訴院において小泉らの無罪が確定した。正当防衛でやむなく木村を殺害したと主張した組合員2人は懲役5年の判決で服役した。2人は1927年のストライキの真っ最中に出獄し組合に帰ってきた。争議団は歓声をあげて2人の帰りを迎え入れた。
 小泉らの殺人を教唆した会社側人事係ら8人も殺人予備罪で起訴され、全員が有罪となり懲役1年(執行猶予)となった。
 
 野田支部全組合員は激怒し7月26日までの全員ストライキに突入した。世論は会社が憎き労働組合リーダーを亡き者にしようとした大謀略事件として厳しく非難した。1922(大正8年)年8月2日の国民新聞が「封建時代の頭が 白昼に暴露される  ー驚くべき会社の陰謀ー」「その旧式極まる皮を引き剝がされんとしているのである」と記事にしたように、世論は野田醤油にごうごうたる非難を浴びせた。「ピンはね」闘争は勝利した。

(労働者から慕われる小泉七造)
 危機を乗り越えた野田支部にとって、この事件以降、会社の職場の劣悪な労働環境となにより悪逆非道な労働組合への謀略攻撃に全労働者の怒りは爆発し、また世間の非難が会社に集中し、一方小泉七造の名声は益々高まり、野田2千の醸造工は獄に繋がれた彼を心から慕い尊敬した。一年近くたってわが野田労働者の英雄小泉七造は出獄し野田支部に戻ってきた。労働者間の団結は兄弟のようにますます強くなった。

(「ひろしき」の廃止) 
 かくして1922年(大正11年)の野田醤油争議の闘いは、賃金の増額など多くの労働条件の改善が実現した。とりわけ「ひろしき」(タコ部屋)における食事、寝具、その他の大幅な改善がなされ、翌1923年(大正12年)に近代的宿舎の建設に着手させ第一・第二の寄宿舎が完成した。ついに「ひろしき」そのものを廃止させたのだ。

(その後の野田醤油争議)
1923年(大正12年) 待遇の改善要求争議(スト26日間)、児童同盟休校
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/f08172bebd0506688e4078c5eccfbeb2
1924年(大正13年) 会社の食言問題(賃上の約束を会社が守らなかった)
1925年(大正14年) 小麦過剰問題(組合幹部6名の解雇と復職勝利)
1927年(昭和2年) 大ストライキ
 
(産別労組の誕生)
 小泉七造ら野田支部の活躍で関東一帯に醸造労働者の組合が次々にうまれた。1923(大正12)年6月、関東醸造労働組合を創立した。野田支部長にはあらためて小泉七造が就任した。関東地方における醸造労働運動は一気に拡大した。幾多もの争議が闘い抜かれた。小泉七造ら野田支部が中心となって支援、指導した。

(「中国出兵反対」の緊急動議)
「支那四億の民衆は、軍閥、資本家、官憲のために圧迫されている。国民の輿論を喚起し出兵反対を唱へせしめよ」
 大ストライキ勃発の3ヵ月前、1927年(昭和2年)6月1日午後3時から愛宕神社境内広場において野田支部の定期総会が開催された。小泉七造は開会のあいさつで、「今や資本主義末期の現象なり、今こそ無産階級の解放運動の重要性が問われている」と熱烈に訴えた。この大会で一組合員から緊急動議「支那出兵に関する件」がだされた。その中身は「支那四億の民衆は、軍閥、資本家、官憲のために圧迫されている。国民の世論を喚起し出兵反対を唱へせしめよ」という中国人民との連帯と日本軍の中国山東出兵に反対する運動を野田支部がおこそうと呼びかける画期的な緊急動議であった。その実行方法として総同盟関東同盟会大会と社会民衆党大会に野田支部から出兵反対の決議文を送ることを提案している。この緊急動議は野田支部大会で保留決議とされたとはいえ、その一ヵ月前の5月の田中反動内閣による第一次山東出兵やその後の日本軍による1928年4月第二次山東出兵、5月第三次山東出兵、6月張作霖を爆殺、1931年9月18日には柳条溝事件、いわゆる満州事変、中国全面侵略、日中全面戦争を起こしたことを考える時、この時の野田支部大会における一先輩労働者の「出兵反対」の緊急動議の歴史的意義は実に大きいし、またこの緊急動議が大争議勃発の3ヵ月前になされたことも当時の野田支部、野田醤油先輩労働者の階級闘争の闘士、解放戦線の前衛としての自覚と雰囲気が良く伝わってくると思う。もうここには昨日までのたんなる荒くれ者はいないのだ。

 
(次回)
野田醤油争議(その三) 関東醸造労働組合の創立 1927年の労働争議(読書メモ)



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