先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

川崎造船所3,500人解雇と松方コレクション(国立西洋美術館) 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年07月16日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

上・国立西洋美術館(ロダン「考える人」)
下・金融恐慌勃発で川崎造船所「電機工作物従業員一同」名の
上京中の松方社長宛ての緊急電報
「財政変動により我社もまたその影響を受けるたることと聞く。
真偽いかなるも我ら従業員一同は相戒め、なお一層業務に励まんとす。
幸いご自愛と奮闘を祈る 電機工作物従業員一同」
 松方社長は「貴電感謝に堪えず」と返電

川崎造船所3,500人解雇と松方コレクション(国立西洋美術館) 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
  「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋

初代社長松方幸次郎の「松方コレクション」と「国立西洋美術館」
 日清、日露、第一次世界大戦の軍需事業を通じ巨額の利益をあげた神戸の川崎造船所。初代社長松方幸次郎は、1916年から、1927年の金融恐慌による経営破綻直前までの約10年間、ひたすら高額な有名美術品を買い占めた(松方コレクション)。モネ、ルノワール、ゴーギャン、ロダンの彫刻など1万点を超える膨大な作品を、金に任せてむさぼり集めた。その額は、現在の200億円とも600億円とも言われている。
 松方は、美術品収集にはこれだけの金を使いながら、1927年金融恐慌を理由に、自らの従業員とその家族を大量に解雇し悲惨にも路頭に迷わすという残虐な行為を平然として来ている。
 (1959年これら松方コレクションを保管展示する美術館として国立西洋美術館が設立された。今、私は、あのロダン「考える人」を下から眺める時、1927年、会社と官憲の暴力によって解雇され、人権と生活が虫けらのように蹂躙された先輩3,500人労働者とその家族を想像したいと思う)。

金融恐慌と川崎造船所3,500人解雇 
(金融恐慌)
 1927年の金融恐慌による工場閉鎖や大量解雇の嵐は全国に吹き荒れ、失業者の大群が街に溢れた。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0abf0beb10c6276679da61cdfbfbdc05

 中でももっとも悲惨だったのは約3,500人にのぼる神戸の川崎造船所の大量解雇だった。総同盟・賀川豊彦らの指導のもと闘われた1921年の神戸全市の大争議の中心となったのが8時間労働制を実現した川崎造船所1万6千人労働者だった。この闘いは惨敗し、その後労働者の結束は乱れ、1927年頃の職場の中は、総同盟・評議会・総連合、また右翼団体も生まれて総数10数団体にも分裂し労働者の団結は著しく弱っていた。
川崎造船所労働団体及び政党の一覧表(会社の秘密調査)
 1、評議会―「兵庫県工場代表者会議」
 2、社会民衆党神戸支部―日本労働総同盟
 3、日本労農党神戸支部―
 4、立憲公正会―民政党
 5、立憲昭和会―県会議員宮尾一派
 6、立憲労友会―民政党
 7、立憲労働青年会―
 8、立憲中政会―民政党
 9、新政会―
 10、民衆協会―政友会県会議員仲井一派
 11、愛国自由党―右翼

 日本の大財閥の一つ「鈴木商店」が破綻がした1927年3月からはじまる金融恐慌。川崎造船所は鈴木商会とは大変近い関係を持ち、多大な鉄鋼材や資本の取引をしていた。また9月までに全国で37の銀行が休業に追い込まれ、川崎造船所のメイン銀行であった十五銀行も4月21日に休業した。

(海軍との結びつき)
 以前から川崎造船所は海軍省から水雷艇や日本初の国産潜水艦や軍艦建造を受注するなど海軍と強い結びつきを持つ大軍需産業工場であり、莫大な利益を得ていた。

(伍堂中将5千人解雇豪語)
 海軍は経営危機に陥った川崎造船所を救うべく、造船所の中に「海軍艦政本部臨時艦船建造部」を置くなど一時期海軍が主導権を握って経営を実行した。海軍伍堂中将の社長就任の話もでた。この時伍堂中将は「5千人を解雇する」と豪語したと言われている。労働者は伍堂中将の社長就任に強く反発した。しかし、結局海軍の意向もあり、1927年7月・8月のわずか2ヵ月で約1万6千人の全労働者のうち約3,500人をも首切りにするという異常ともいえる形で自らの経営危機を労働者とその家族の多大な犠牲で解決したのだ。

(労働者の決起を何より怖れた会社)
 1927年4月21日大阪朝日新聞号外によりメイン銀行の十五銀行破綻のニユースが流れるや、川崎造船所が最初にやったことは、兵庫県警察部に厳重な警戒態勢を敷くことを要請することであった。また5月1日(日曜日)はもともと休業であったが、この日は工場を稼働させ4月29日、30日の両日を休日とした。メーデーでの労働者の決起を怖れたのだ。1921年の川崎・三菱造船所の史上空前のかの大ストライキを誰よりも覚えていて、怯えていたのは経営者側であった。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/786c67c1b1fb560ca802d2896f04a6d4

(裏切り者の御用職制「1時間労力奉仕」を決議)
 5月14日、会社の意を受けた御用組織「更生会」の約250人の役付・職制が集まり、「1、今後は日曜日を無報酬で働く、2、日給4割以上は会社に提供する、3、現在の8時間労働を9時間として、1時間は無報酬で働く」を協議、採択をし、「1時間労力奉仕」を可決した。

(口々に罵倒する労働者)
 5月16日、川崎造船所1万6千人の造船・造機・造具、製罐の労働者代表約200名と役付・職制代表10名が緊急協議会を持ち、役付・職制らの音頭により「1時間のタダ働き・労力奉仕」を決議しようとした。役付・職制らは簡単に決まるとたかをくくっていた。ところが、たちまち労働者側から反撃が起きた。登壇した労働者は会社に忖度する役付・職制共を口々に罵倒した。「役付・職制は毎日工場内をブラツキ、我らが1時間の残業をしたからといっても彼らにとってはなんの痛くもないのだ、会社のご機嫌取りにすぎない。真にこの窮状を救うには、むしろ7時間労働とし、役付・職制らを共に労働させれば9時間以上の能率をあげることができる」。

 場内は労働者の怒号と罵声が飛びかい騒然とした。おののいた役付・職制の代表者たちは全員会場から逃げだしてしまった。労働者は満場一致で緊急職工大会の開催を決めた。

(「川崎造船所救済職工大会」準備委員会)
 5月17日午後6時、本社地下室において本工場・兵庫など各分工場労働者代表約580名により「川崎造船所救済職工大会」準備委員会が開かれた。
・蓑合分工場代表「我々の労働は激烈なる作業で、常に欠勤者が多くこれ以上会社に貢献できないので、今回の会社救済の件は諸君の御同情により除外されたい」
・兵庫分工場代表「会社の窮状を救うというなら先ず内情を知らせてもらわねばいけない」
・本工場労働者代表(1)「先年会社は我々労働者の賃金歩合を廃止し、しかも病気になり医師の診療を受ける時間まで賃金を差し引いている。こんな冷淡な会社を救済する必要などない」
・本工場労働者代表者(2)「好況の時は多額の利益を配当し私腹を肥やしていた重役たちは、この際私財一切を投げだす必要がある。会社の窮状を救うため重役に一切の私財を投げだすことを勧告する」

一時間奉仕の件
「我らは八時間労働を九時間に延長する必要はごうも認めない。むしろ現在の八時間を七時間に短縮して工場内でブラツキている役付・職制を共に働かせれば、より以上の能率を上げることが出来る」

(会社の猛反撃 電機部の「職工大会不参加」声明)
 5月18日、電機部は「社の現状に鑑み我々労働者は軽挙妄動を深く慎むべきである。先の準備委員会は正式なものとは認められない。5月22日の従業員大会には電機部従業員は参加しない」と発表した。
 同時に上京中の松方幸次郎社長に向けて「財界変動により・・・我ら従業員一同は相戒めなお一層業務に励げまんとす。幸いご自愛奮闘を祈る。電機工作物従業員一同」の電報をうった。松方社長は「貴電感謝に堪えず」と返電した。

 また会社は工場の他の職場にも、相次いで22日の職工大会への不参加の声明をださせた。

(労働者大会)
 5月22日午後1時から午後7時45分、当初の大倉山での屋外集会が警察より禁止され、神戸市下山手通り基督青年会館で開催されたが、出席者は準備委員会の時より大幅に減り、わずか200名だった。会場入り口で、いちいち従業員たる証明を検査し、外部の労働団体を一切拒否した。その上、当初の議題であった肝心な「重役の私財提供勧告の件」は、提案者から撤回の申し入れがあったとして討議もせず、大会は「現状維持」が決議されただけで終わった。

(会社「歩増撤廃」)
 今まで様子をうかがっていた会社は6月1日、「全工場の歩増の廃止」「臨時職工で日給2円以上の者を2円に切り下げ」「兵庫工場製鉄部利閉鎖」を発表してきた。歩増は日給以外に最高2分5厘、最低1分が加えられていたが、労働者一人平均月20円の減収となる。会社は1ヵ月だけでたちまち16万円もの剰余金を手にすることになった。もともと社員には歩増の制度はなく減収もないが、1万6千人の労働者だけが犠牲となることに不満の声が高まった。6月20日には兵庫県分工場職工大会で「歩増復活」決議がされ、21日に本工場で労働者大会を開こうと計画された。

 6月中旬には、本社地下室の松方社長の浮世絵コレクションの一部が売りにだされたが、これはあくまで莫大な松方コレクションのほんの一部、氷山の一角であり、労働者の怒りの目をそらす、また世間からの非難をかわす巧妙なアリバイ的行為でしかなかった。本気で労働者救済(会社救済)のために松方コレクションを全部売っていたならば、今の国立西洋美術館の存在はあり得ない。

(労働者大会に暴力で襲い掛かる官憲と御用団体)
 6月21日川崎造船所職工大会が開催された。御用団体や官憲・消防士が襲撃した。彼らは壇上から弁士を無理やり引きづり降ろし官憲は指導的労働者をぞくぞく検束し、あるいは検束するぞと脅し、ついに工場職工大会そのものを開かせなかった。こうして職場での大衆の動きを暴力で無理やり抑えつけたのち、いよいよ7月、8月とわずか2ヵ月の間に約3,500人もの大量解雇を行ってきたのだ。

 神戸市内でも評議会と労農党は連日会社糾弾演説会を開催し、市中は、しだいに熱気を帯びていったが、どの会場もすべて、警官多数が占拠し、立ち上がる労働者に襲い掛かり声を挙げる労働者たちはつぶされていった。

(大量解雇)
 7月23日、会社は軍艦建造部門以外の全工場の休業と3,037人の解雇を発表した。8月5日、6日はさらに504人の第二次解雇があった。

(官憲の暴圧支配)
 22日夜から、相生橋警察署は警官を非常召集で総動員し工場と付近にいっせい警戒線を引いた。23日早朝から神戸市内各警察署はもちろん、明石、東尼崎にいたる各署からぞくぞく動員した警官隊が、制服・私服姿で全工場周辺を支配した。評議会、労農党は必死に解雇反対の労働者大会、工代会議、市民大会、抗議集会、示威行動を呼びかけ行動したが、その全ては戒厳令さながらの官憲の非情な暴力により蹴散らされ、労働者の幹部は総検束されてしまった。

(まとめ)
 この時、川崎造船所の全労働者は、ついに反撃のストライキに立ちあがることは出来なかった。官憲と会社の戒厳令さながらの暴力弾圧が一番の理由であるが、総同盟、評議会・総連合などの労働者側の分断・分裂も大きな原因であった。こうして労働者の決起を未然につぶした会社は、今度は自らの危機を公然と労働者の犠牲に転嫁させ、3,500人解雇という異常とも言える残酷な仕打ちを振るいつつ、一方で松方コレクションに象徴される資本家階級のどん欲さを貫き通したのだ。

 現代においても有名資本・企業の美術館は全国各地に存在している。しかし、今、その企業や関連企業、下請け企業の多くの労働者がどんな労働条件のもとで働いているか、とりわけ非正規労働者や派遣労働者や外国人労働者などの人権蹂躙の実態は世間みなが知っていることだ。莫大な「内部留保」も同じ思想なのだろう。彼らは美術品には幾らでも金を注ぎ込んでも自分の会社の非正規労働者や派遣社員にはビタ一文だすことはとんでもない損だと本気で思っていると思う。だから戦後もリストラとか、整理解雇とか、派遣切りだとか大量解雇の歴史は枚挙にいとまなく続いている。彼ら資本家の思想と民衆の助け合う思想とはまるで違うのだ。幻想は持つまい。
 
以上



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