先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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神戸の川崎・三菱造船所大ストライキ  1921年主要な労働争議⑥ (読書メモー「日本労働年鑑」第3集 大原社研編)

2021年09月27日 08時47分30秒 | 1921年の労働運動

 

神戸の川崎・三菱造船所大ストライキ  1921年主要な労働争議⑥ (読書メモー「日本労働年鑑」第3集 大原社研編)

参照
「日本労働年鑑」(第3集1922年版 大原社研編)
「賀川豊彦」ロバート・シルジェン 新教出版社
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋
「激動期の日本労働運動」島上善五郎

1921年神戸の川崎・三菱造船所の大ストライキ
  大阪の激烈なデモは神戸に波及した

 この年関西では、橋本造船所、東亜セメント尼ヶ崎工場、東洋鑢伸銅工場、汽車会社、大電、坂部刷子、田中機械製作所、川崎鉄工所、住友電線製造所、摂津製油所、住友伸銅尼ヶ崎工場、住友鋳鋼所、神戸製鋼所、台湾製糖、ダンロップ、藤永田造船所と大工場労働者が軒並み起ちあがった。この時、集会や市内に「同情ストライキ」の呼びかけと檄文が配布された。この「同情スト」呼びかけビラは治安警察法第17条の「ストライキ煽動」に違反すると友愛会や争議団幹部数十名が検挙され起訴された。この起訴の中には神戸の住友電線・住友製鋼所・住友伸銅尼崎工場の住友労働者3名が含まれていたことが次の戦線の幕を開いた。

神戸の住友電線・住友製鋼所・住友伸銅尼崎工場3社争議
 6月、住友の3つの工場の労働者は「3名の犠牲を無駄にするな」と叫び同盟を結んだ。ストライキが神戸に起こった。友愛会の賀川豊彦は住友伸銅尼崎工場の団体交渉で「工場協議会の設置」「横断的組合加入の自由」を会社と合意し勝利した。

神戸の川崎・三菱造船所で戦前最大の大ストライキ勃発 
 6月25日、三菱造船内燃機工場の労働者が賃上げなど9項目の要求・嘆願書を提出した。
  要求書
   1、工場委員制度を採用する事
   2、他の労働組合加入の自由を認めること
   3、解雇、退職金手当
   4、日給の増加
     女工の平均日給は男工の半額にも満たず・・・この際金額を増加されたし
   5、「分配法」の明示
   6、病気欠勤手当
   7、応召時の補償を日給の半日分をその期間中支給する事
   8、危険防止の設備を完全にする事
   9、回答日を大正10年7月15日正午とす。
     以上

 翌26日は、発動機工場の200名が呼応し、友愛会に加盟した。会社は労働者側の要求をすべて拒否してきた。全労働者の怒りに火がついた。6月27日、川崎造船所では、支給された賞与と創立25周年祝い金が役員や管理職と労働者に極端に大幅な格差を付けたことが暴露された。この二つの出来事で労働者の不満は一挙に爆発し、たちまち自然発生的なサボタージュ闘争が始まった。6月30日、友愛会神戸連合会は「今や結束して起つ時はきた」と団体交渉権を統一要求とする「神戸労働組合連合団」を結成し共闘して闘うことが決定された。7月2日は友愛会会員820名が構内デモを行い要求を提出した。労働者は、「一日14時間もの労働時間を一日8時間~9時間へと短縮すること」、「組合を交渉団体として認めること」、「賃金の値上げ」、「4か月分の解雇手当の支給」等の切実な要求を掲げた。
 
 川崎造船所では会社は労働者の指導的幹部を無情・矢継ぎ早に解雇してきた。内燃機工場と造船所でそれぞれ千名の労働者が怒りの構内デモに決起した。警官隊が弾圧してきたが、闘いは収まるどころか逆に労働者の怒りはますます燃えた。

 7月7日川崎造船所では1万3千名の大怠業(サボタージュ闘争)闘争が続いていた。一方、工場の門では会社に雇われた暴力団青襷隊・暴漢ゴロツキどもがこん棒で武装し、闘う労働者を襲撃するなどひどい暴行を加えてきた。ゴロツキの一人は短刀でスト労働者に切り付けてきた。この会社の暴挙と怪我をした仲間の犠牲を知った労働者2万5千名は怒りに怒って「死ぬまで闘おう」と叫びながら街頭に打ってでた。多くの黒と赤の旗が神戸の街中にはためいた。

 7月8日三菱造船所も要求を全面的に拒絶してきた。両造船所の争議団が合併した「川崎三菱争議団」が結成された。両造船所の争議団は交互に交流をしながらお互いの工場デモを繰り返した。会社は臨時休業を発表し工場のロックアウトを行ってきた。労働者の闘いは市内デモへと発展した。

(史上空前4万の大デモ) 
 7月10日午前7時日本史上、戦前最大のデモが行われた。神戸の労働者3万5千名と大阪や関西全域から駆け付けた応援5千名総計4万は、神戸港を見下ろす会下山公園に結集した。朝の土砂降りの雨もやみ、うだるような暑さになった。「正義」「死ぬまで闘え」などというスローガンの色とりどりの旗印が掲げられた。賀川豊彦は「われわれも人間だ」と激烈な演説をして労働者を鼓舞した。午前8時デモ隊は出発した。腹の底から怒っている労働者の大部隊だ。スローガンを叫び、革命歌「ああ革命は近づけり」、労働歌を歌いながら10キロ以上にわたって行進し、警察官やゴロツキ共で堅固に守られた川崎造船所前に到着した。工場を包囲した4万労働者は2時間以上もの抗議の叫びと演説ののち、次に三菱造船所に向かった。4万の大軍は、歩武堂々、砂塵をまいて行進をした。まさに空前の大デモだった。

動画「灯をともした人々」

(全市の労働者が立ち上がる)
  7月11日、三菱の電機会社に争議団多数が突入し、守衛・警官と衝突しながら、同会社の労働者の決起を呼び掛け、ついに電機労働者も構内デモに決起した。神戸製鋼所、ダンロップ・ゴム会社などにも押しかけ、労働者の決起を促した。川崎造船所葺合工場でも警官の制止をはねのけ工場内に突入した。
 
 神戸製鋼所では怠業(サボタージュ闘争)闘争が起きた。台湾製精糖、ダンロップ、市電、印刷工組合、マッチ軸木職工組合、など全市の工場、会社のほとんどの労働者が立ち上がり、争議状態となり、尼崎の久保田鉄工所にも飛び火した。

(「工場管理宣言」)
 7月12日、三菱三社は警官、憲兵、水平など多数の警戒のもとに工場の10日間ロックアウト(工場閉鎖)を行い、労働者を工場から締め出した。1万人労働者は工場前に集まり、裏門を破壊して工場に突入した。川崎造船所では労働者は工場へ入ることは許され、労働者は工場内の持ち場でサボタージュ闘争を繰りひろげた。ここでも軍隊が導入され、海軍の士官らは「建造中の駆逐艦や軍艦、潜水艦に対していかなる破壊行為は許さない」とスト労働者を脅した。その後川崎造船所もロックアウトを行ってきた。スト弾圧の軍隊は増強された。川崎造船所は組合リーダー125名を解雇してきた。争議団は怒りをもって抗議し、友愛会の賀川豊彦は「たとえ工場の占拠をもってしても闘争を続ける」と「工場管理宣言」をした。
 
(バートランド・ラッセルが現地で応援講演)
 7月17日イギリスの有名な知識人・社会主義者バートランド・ラッセルがアジア旅行の途中に神戸の阿弥陀寺の労働者集会に出席し、賀川の通訳で講演した。スト労働者は喝采して彼を歓迎し、また労働者自らも励まされ士気を高めた。

(軍隊と会社の巻き返し)
 争議団のストライキと「工場管理宣言」に対し、官憲は「(工場管理は)工場の強奪だ。国法を犯している」と弾圧を言明し、一切の示威行進を禁じ、知事は姫路第十師団第39連隊に出兵を要請し軍隊による弾圧をはじめた。神戸市内は巡査で埋まり、(1923年に大杉栄一家を殺害する)甘粕中尉率いる東京憲兵隊、姫路憲兵隊、舞鶴の水兵も出動してきたため、争議団側も殺気だった。資本は軍隊に出動を要請する一方で、三菱造船所は全スト参加労働者に手紙を出し「スト参加者の家族を助けるために今までのスト中の賃金を支払う用意はある。しかし、万一ストをこれ以上続けるのであればこのような配慮は一切受けられない」と文字通りのアメとムチで切り崩しを図ってきた。スト労働者は長期化するストライキで生活は困窮し、警察は争議団の行商への嫌がらせをしてきたり、東京での支援カンパ集めを目的とした神戸のストの記録映画上映会を禁止した。
 
 最初のゼネスト参加者は4万名近かったが、ストライキ開始から3週間目半ばまでに神戸製鋼、ダンロップ、台湾製糖などの労働者が次々に脱落しはじめ、ついに川崎・三菱の労働者も疲れを見せ始めた。川崎造船所では7月26日には4千名以上がスト破りをして職場に戻った。一方この間警察との闘争で170名も逮捕された。8月2日、スト脱落者の総数は7千名以上になった。しかし、多くの労働者は断固としてストライキを闘い続けていた。

(「抜剣」警官に仲間が殺された) 
 集会とデモが禁止されたため、争議団は戦術として「運動会」や「神社参詣」とする市内デモを大がかりに行った。7月28日は労働者1万名以上が幾つかの神社に分かれ「参詣」し、集会と行進をした。翌日29日の「生田神社参詣」デモで多数の労働者は途中から川崎造船所に向かった。この労働者に対して警官は抜剣して襲い掛かり、100数十名が検束され、20名もの労働者が刺され重傷を負わされ、その中の機械工常峰俊一が抜剣した警官により背後から刺し殺されたため、怒った仲間たちは暴動化した。警察はその晩争議団本部の手入れを行い、賀川ら組合指導者らが一斉に検挙された。7月30日も騎馬警官らとの大衝突もあり、この日も多くの検束者と怪我人がでた。常峰俊一殺害に、急遽松谷弁護士ら10名の弁護団が組織された。

(行商隊)
 争議団は石鹸・パン類・青物類・薪・飲料水・雑貨等を売る行商隊を組織し、遠く九州や四国まで出かけ訴えた。争議団500名毎に一隊(20名)とし、争議団のたすきを着用すること、個人宅の戸別訪問販売は禁止、行商の報酬は純利益の5割を与えるとした。
 また、行商隊は、商品をのせた車を引きながら、会社の入口を徘徊し、市街の要所要所に位置を占め、ゴロツキや警官隊と対峙し衝突も辞さなかった。またスト破り労働者(軟化職工)の監視・阻止の役目も負った。

(常峰俊一の争議団葬)
  8月6日常峰俊一の争議団葬が行われ、2万名の労働者が彼の家から葬列を組んで涙と怒りのデモをした。悲痛な憎しみの空気につつまれた2万名デモは、革命歌をご詠歌の節で歌いながら、春日墓地まで行進した。

(敗北)
 争議団葬の2日後の8月8日、争議団指導部は「無条件就業」を決定した。全面敗北だった。9日、川崎7千、三菱4千の争議労働者が就業した。12日争議団指導部は「惨敗宣言」を発表した。被解雇者1300名、死者3名、負傷者数十名、治安警察法違反で投獄された者180名、検束者300余名にのぼった闘いは終わった。
 
(惨敗宣言)
 「われらの刃は折れ矢はつきた。ここに怨みをのんで兵をおさめる。・・・またわれらの忘るべからざるは、憎むべき裏切り者である。・・・われらは惨敗した。この怨みは刃のごとく全身に喰い込んでいる。悲憤の情胸に迫ってまた多くを言う能わず。われらはここに泣いて兵をおさめる」

(資本の報復)
 争議終結直後から会社は、スト参加者への報復として闘う労働者を大量に解雇してきた。川崎造船所505名、三菱造船所571名、台湾製糖191名、神戸製鋼30名の労働者とこの数倍の家族を無情にも残酷にも路頭に放り出した。

(労働者の急進化)
 友愛会神戸連合会は一挙に弱体化した。それまで関西では不抜の指導力を持っていた賀川豊彦への信頼は一気に冷えていった。賀川の労働争議に対する合法主義、秩序ある争議、暴力否定という考え方への反発が起きた。賀川の労働運動指導者としての権威は一挙に失墜した。「労資協調は一部の指導者の夢、力に対するは力だ、階級闘争だ」との思想がこの闘争を通じて労働者の胸にしみこみ、友愛会全体の急進化も進んだ。10月1日友愛会創立10周年大会で「日本労働総同盟友愛会」が「日本労働総同盟」と変更され、また、友愛会の中で直接行動を唱える勢力が拡がった。

(「浪人支部」「野武士組」)
 大阪、神戸の職を放逐させられた闘士らは、「浪人支部」「野武士組」として、その後、多くの労働争議の現場に登場するその勇敢なる姿は、幾多の悪徳工場主を震えあがらせたことか。



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