「みちのくから来た絵かき」は56のエッセイをつないで構成されており、初めの15は長谷川健治の生い立ちや家族のことが書かれている。要約すると、
・1936年、父鶴松と母ヒサとの間の5人兄弟の末っ子として岩手県釜石に生まれる。
・父は東京で修行した料理人で無類の酒好き。そのために母は大変苦労しながら5人を育て、その生活をいつも詩に詠んでいた。
・1945年春、ヒサの生まれ故郷秋田県大曲市に疎開。終戦後再び釜石にもどる。
・釜石第二中学校時代、兄の勤める富士製鉄釜石製鉄所の美術サークルの講習会に職員に混じって参加。石川滋彦画伯(新制作協会)が健治 の画才に驚き絵具セットをプレゼントしている。
・1952年、釜石高校入学。美術部と水泳部に所属。石膏デッサンなど絵画の基礎を学ぶ。中学校時代の美術教師、菊地君雄先生の勧めか影響で、読売アンデパンダンテ展、県展に出品。
・1954年、長兄克夫が結婚、両親が製鉄病院社宅に移り住んで、高校3年の健治は兄夫婦と暮らすも健治のワルサで兄の怒りを買い大学進学をも支援してもらえなくなる。
・高校卒業後、天性の自由人としてはもっとも相応しくない、自衛隊で2年間の隊員生活を体験する。
・1956年、富士製鉄に入社。規律厳しい保安係に配属。
・製鉄所の楽団でドラムに興味を持ち、流行の太陽族よろしく自前のドラムを給料10ケ月分の借金で購入。キャバレーでのトロンボーン奏者欠員を狙って給料6ケ月分の借金でトロンボーン購入。高いキャバレーの時給で楽しみながら借金を返そうとするも、上司からキャバレーでの副業を止められる。将来は自分の楽団をつくる夢は破れ、失恋、借金を払ってくれた母の死と悪いことが続き、何をしても枠カらはみ出してしまう健治の心に、眠っていた絵心が目を覚まし始めます。
遂に、すべてを釜石に捨てて長い旅立ちが始まります。
出釜石
ゴットン。列車の連結器が音と同時に健治の体を小さく揺すりました。ぼーっとしていた健治を、いよいよ出発だゾ、とうながしたようです。あわてて立ち上がった健治は、下がっていた窓を引き上げて止めました。閉じられた窓はコトコト音をさせます。わずかな隙間から煤も慌てて紛れ込み、健治の白いワイシャツに止まりました。大正時代につくられてような立て付けの四両編成で走るこの列車を、地元ではカラス列車と呼んでいます。釜石から花巻まで全長90キロの北上山地を、バタフライの選手のように、40回以上も顔を出したり潜ったりするので、列車も乗客もカラスのようになるからです。
(中略)
製鉄所が窓の向こうに消えると、我家のある中妻町の辺りです。八雲小学校が見え、左の窓には第二中学校、今度は右に昭和園グラウンド。どこもここも健治が慣れ親しんだところばかりです。
(中略)
超一流企業のサラリーマンを、あっさり退職させたものはいったい何だったのでしょうか。やはりそれは寂しがりやの健治には堪えられないオフクロがいないという寂寥感なのです。そんなもの足りないような、飢えたみたいな渇きを感じている健治の気持ちをみたすものは、自由な「創作」だと次第に心は燃えてくるのでした。自分もまた「いつか死ぬ」と考えたとき東京に出て絵を描こう。「自分自身の人生ではないか」という思いに至ったのでした。
(後略)
(この文章の一部は「みちのくから来た絵かき」光安鐵男著を引用しています)
・1936年、父鶴松と母ヒサとの間の5人兄弟の末っ子として岩手県釜石に生まれる。
・父は東京で修行した料理人で無類の酒好き。そのために母は大変苦労しながら5人を育て、その生活をいつも詩に詠んでいた。
・1945年春、ヒサの生まれ故郷秋田県大曲市に疎開。終戦後再び釜石にもどる。
・釜石第二中学校時代、兄の勤める富士製鉄釜石製鉄所の美術サークルの講習会に職員に混じって参加。石川滋彦画伯(新制作協会)が健治 の画才に驚き絵具セットをプレゼントしている。
・1952年、釜石高校入学。美術部と水泳部に所属。石膏デッサンなど絵画の基礎を学ぶ。中学校時代の美術教師、菊地君雄先生の勧めか影響で、読売アンデパンダンテ展、県展に出品。
・1954年、長兄克夫が結婚、両親が製鉄病院社宅に移り住んで、高校3年の健治は兄夫婦と暮らすも健治のワルサで兄の怒りを買い大学進学をも支援してもらえなくなる。
・高校卒業後、天性の自由人としてはもっとも相応しくない、自衛隊で2年間の隊員生活を体験する。
・1956年、富士製鉄に入社。規律厳しい保安係に配属。
・製鉄所の楽団でドラムに興味を持ち、流行の太陽族よろしく自前のドラムを給料10ケ月分の借金で購入。キャバレーでのトロンボーン奏者欠員を狙って給料6ケ月分の借金でトロンボーン購入。高いキャバレーの時給で楽しみながら借金を返そうとするも、上司からキャバレーでの副業を止められる。将来は自分の楽団をつくる夢は破れ、失恋、借金を払ってくれた母の死と悪いことが続き、何をしても枠カらはみ出してしまう健治の心に、眠っていた絵心が目を覚まし始めます。
遂に、すべてを釜石に捨てて長い旅立ちが始まります。
出釜石
ゴットン。列車の連結器が音と同時に健治の体を小さく揺すりました。ぼーっとしていた健治を、いよいよ出発だゾ、とうながしたようです。あわてて立ち上がった健治は、下がっていた窓を引き上げて止めました。閉じられた窓はコトコト音をさせます。わずかな隙間から煤も慌てて紛れ込み、健治の白いワイシャツに止まりました。大正時代につくられてような立て付けの四両編成で走るこの列車を、地元ではカラス列車と呼んでいます。釜石から花巻まで全長90キロの北上山地を、バタフライの選手のように、40回以上も顔を出したり潜ったりするので、列車も乗客もカラスのようになるからです。
(中略)
製鉄所が窓の向こうに消えると、我家のある中妻町の辺りです。八雲小学校が見え、左の窓には第二中学校、今度は右に昭和園グラウンド。どこもここも健治が慣れ親しんだところばかりです。
(中略)
超一流企業のサラリーマンを、あっさり退職させたものはいったい何だったのでしょうか。やはりそれは寂しがりやの健治には堪えられないオフクロがいないという寂寥感なのです。そんなもの足りないような、飢えたみたいな渇きを感じている健治の気持ちをみたすものは、自由な「創作」だと次第に心は燃えてくるのでした。自分もまた「いつか死ぬ」と考えたとき東京に出て絵を描こう。「自分自身の人生ではないか」という思いに至ったのでした。
(後略)
(この文章の一部は「みちのくから来た絵かき」光安鐵男著を引用しています)