ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(20)

2007年08月31日 | 美術

2007年7月、「芦屋町夏井ヶ浜」
木陰に入ると涼しさを感じるようになった。
暑い夏が終わろうとしているのだ。
芦屋町に貸し店舗が集まったコロニーができていて、そこに知人が「自然素材による染めの服の店」を出したというので見に行った。感じのよい店だった。
その店の近くに浜木綿の咲く海岸がある。この絵がそれである。
知人が出したお店と浜木綿がセットになって暑い夏の思い出になった。


げってん(その30)-40年ぶりの対面ー

2007年08月29日 | 随筆
 福田安敏先生は光安の若松高校先輩。二人の歳の差は15歳ある。げってん(その4)で紹介したとおり、光安が勝手に画廊顧問に決めて画廊運営の相談に乗ってもらっている人です。その先輩から相談を持ちかけられました。光安はどんな難しい相談でも応じるつもりで、むしろ相談されることを喜んで話を聞きはじめます。
 「光安君、先輩の遺族を捜しているんだがねえ」
 昭和2年(1927年)から12年(1937年)まで旧制若松中の美術教師をしていた渡辺武比古先生は、福田先生の東京美術学校(現東京芸大)の先輩に当たります。昭和13年(1938年)渡辺先生は肺結核で倒れます。死の直前、同中学校・美術担当の後を頼むと同時に、借金返済に充てて欲しいと水彩画約60点を福田先生に預けてその年の春逝きました。
 福田先生はその年の夏、遺言どおり若松公会堂で遺作展を開きました。愛好家や職員、それに父兄が協力して大半が売れて奥様に代金を渡しましたが、売れ残った16点の作品も何かの機会に売ってやろうと預かっているうちに兵役に召集されてしまいます。日中戦争から太平洋戦争を生きぬいて復員したときは渡辺先生の遺族の消息は掴めなくなっていました。
 「16点の中には、自画像も含まれており、何とか遺族の元に返してやりたいんだ」
 「よし、分かりました。それなら渡辺先生の遺作展をウチで開いてみましょう。“遺族を捜している”という案内状を同窓生に出したら、きっとよい知らせがありますよ」
と、引き受けることが先に決まっていたように再度の遺作展の企画が始まりました。
ところが
 「渡辺先生の奥さんとはよく話したものの、出身どころか名前さえも聞かずじまい。渡辺先生と会っても話すのは芸術論ばかりだった」
と福田先生。光安も若松高校に若松中時代の在籍職員録を調べて欲しいと連絡をとるが、1962年の火災で焼失したとのこと。手がかりを捜せば捜すほど手がかりが遠のくありさまで、ついに渡辺先生の自画像だけが頼りとなりました。

 1978年2月、遺族捜しの「渡辺武比古遺作展」が始まりました。

げってん(その29)―井上由紀子遺作展―

2007年08月24日 | 随筆
 由紀子さんの年譜は悲しいかな短いのです。
 ・1952年門司に生まれ、4歳から近くの画塾に通う。
 ・早鞆中学で美術部に所属。父から「世界美術全集」を与えられる。
 ・門司高校へ進み美術部で絵画一筋。姉のアメリカ留学に刺激され、自分も夢を大きく持とうとはっきりと美術を志望する。
 ・東京芸大を目指して同大の夏季講習に学び入試に臨むも失敗。
 ・戸畑の福田安敏先生[げってん(その4)登場人物]の画塾に通い、リルケの「ロダン」を読む。
 ・鹿児島大学教育学部へ進み、南国の風土の中で青春を謳歌し、画業も進む。日展審査委員の彫刻家・中村晋也同大教授に師事し、彫刻に転向。三年の時、鹿大初の日展初入選を果たす。その後も二年間連続入選し前途を嘱望される。
 ・卒業後は養護学校教諭として勤務のかたわら自宅で創作に励む。
 ・1977年、43日間のヨーロッパ旅行に出かける。
 ・1978年不慮の死を遂げる。「踊る女」が絶作となる。

1976年日展入選作品「ミニヨンとの出会い」 
 
 ヨーロッパ旅行での感想、感動、新たな発見をびっしり書き込んだ日記帳とスケッチブック、それに友人や家族に送った手紙には、彼女の素晴らしい感受性が綴られています。
 「西洋美術の過去の蓄積・・・その量、その質の何という膨大さ、重たさだろう」(ロンドン・ナショナルギャラリーにて)
 「私はニケに涙を流した。量とは何か。・・・要、デッサン」「今まで分からなかったなぞが、とける・・・あれ以上に生命を、自然の心をたたえる彫刻があるか」(ルーブル美術館・サマトラケのニケの像に接して)
 「この親しみ、何たるこの親しみ、私自身がギリシャの昔にかえったようだ」(ギリシャ・デルフィにて)
 「ヘブライズムは平面幾何に始まり、空間構成に至るが、ヘレニズムは量、塊から始まる」
 「私はまだ、中途半端な芸術家・・・」(ベネチア・ミケランジェロと対比して)
 「マリア様に祈る・・・何時か結婚することができるでしょうか。この彫刻と結婚という、この希望の狭間で・・・」
 「沖まで泳いで行って"アフリカよ、今日わーツ"・・・」(南仏海岸で)
 「未来生活のプラン・・・30代でアメリカへ渡り、日本古典シリーズの個展を開き、さらにヨーロッパへ、・・・そこに生き、そこで創りたい。もし明日のない命でもこの道を歩きたい」
 「私があの世へ行ったら、ミケランジェロやダヴィンチにも”やあ”と気兼ねなく会えるよう、今のうちに仕事をしておかなければ・・・」(友人へ)

 由紀子さんの父は悲しみのなか、これらを遺稿集「ヨーロッパ美術の旅」(A5判、126ページ、金山堂書店発行)にした。
 夢多く、力強かった青春の輝きが生きいきと感じとれる。
 由紀子さんは生きるという作品を仕上げたのだと筆者は思う。
 
(この文章の一部はは西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文、及び当時の新聞各誌の記事を引用しています)
  
 

げってん(その28)-井上由紀子遺作展-

2007年08月20日 | 随筆
 久野繁樹さんは刀剣類鑑定では第一人者でした。その久野さんがライオンズクラブの福岡・佐賀・長崎を統括する地区ガバナーをしていた頃、ガバナーの仕事をお世話するもの同士という間柄で小倉西部観光会社の社長・井上忠雄さんと光安は懇意でした。
 1978年6月3日、井上さんの次女・由紀子さんは、子供達の帰宅指導のため雨の中をバイクで見送って行く途中の交通事故で23歳の短かすぎる人生を閉じました。
 その年の夏、光安は初盆のお参りに行く久野さんのお供をして井上家を訪ねました。
 由紀子さんは鹿児島大学の教育学部で彫刻を専攻し、卒業後は郷里の門司で養護学校の障害児教育に当たっていました。光安は由紀子さんのアトリエに案内されて、
 「うーん、こりゃ本物だ!」
と言ってうなりこんでしまいました。
 工房の中には彼女の分身たちが思い思いのポーズで喜々として火花を散らしあっているのです。
 「ぜひ彫刻展を開きましょう」
持ちかけた光安に井上さんはためらいを見せました。
 「鉄っちゃんの所でやんなさい」
と久野さんの一言でその場はどうにか了承した形になりました。
 急逝したわが子を偲ぶため、短かった彼女の生涯の全作品をアトリエに集めて冥福を祈っていたご夫妻の気持ちをかき乱したようでしたが、
 「由紀子も芸術家を志した一人、みなさまに見てもらうのが本望でしょう。供養にもなります」
といって下さるまでに少しの時間が掛かりました。
 鹿児島から訪れた中村晋也先生(芸術院会員)と彫塑教室の仲間たちの手で徹夜で準備され入念な飾りつけをして、同年8月23日、「井上由紀子遺作展」は開かれました。


げってん(その27)-松屋和代-

2007年08月10日 | 随筆
 東京毎日サービスが「天本英世と行くスペインの旅」を企画しました。これに若松から9人も参加しました。
 旅はマドリードから始まる19日間のバスツアーです。いわゆる名所旧跡の旅だけではなく、天本さんの言う「人生を楽しく生きるスペイン人気質」に触れる旅です。何度もスペインを訪れる天本さんは、レシタドール(詩の朗読者)として知られており、背が高く痩身でその存在だけでも絵になる人です。行く先々の酒場やフラメンコ劇場で請われて飛び入りしてロルカの詩を朗誦します。
 バスの中では、旅の疲れで眼ってばかりいる日本人ツアー客を「大事なところは眠っている」と怒るようにして起しながら自分の思いを伝えます。
 松屋さんや光安にとっては、スペインの美術作品は何よりも心を揺さぶられるものでした。スペイン在住の日本人女性のガイドで巡ったプラド美術館、作品を通して巨匠達の素顔を髣髴としたことでした。また、別館では、タイミングよくアメリカから里帰りしてきたばかりの「ゲルニカ」を観ることができました。習作から大作にいたるまでのピカソの苦汁と格闘、そして叫びを聴いたのでした
松屋和代 「ロンダ」1984年頃


 旅から帰ってのち、松屋さんの作品はしばらく「DANCING」の作品が続きます。自身、踊ることが好きで、魂の踊りとも言えるフラメンコには大いに刺激されたことでしょう。「DANCING」の作品が続くと”踊り子を描く松屋”と言われるようになりました。しかし、こう言われることを大いに嫌いました。踊り子を描いたのではなく、踊りを描いてのでもありません。踊ることを描いたのでした。実際に踊りながら描くこともあったと聞いています。
松屋和代 「DANCING]

 
 次の作品は踊っている人物が画面から排除され、「AND ONE・・・・」と題した作品が登場します。和紙の材料で油絵具を受け止める基材をつくり、それにオイルペインティングした作品を生み出します。ロンダの崖の肌と色を思わせるような画面が眼に飛び込んできます。壁に掛けられている平面造形ですが、額縁はなく自由さがあります。湧き出てくる気のようなものが画面に乗り移っています。

松屋和代 「AND ONE・・・・」 

 松屋さんは、あの若さで二束の草鞋を履かない決断をしたこともありますが、早くから九州女流美術や、尊敬する恩師の所属していた行動美術などへの出品を止め、個展による作品発表という姿勢をとり続けています。キュートな中に芯の強さがあることを証しています。それゆえ、これからまだまだ画家として進化するに違いありません。

(この文章の一部は西日本新聞連載「ふり返れば四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」を引用しています。)
 

げってん(その26)-松屋和代-

2007年08月05日 | 随筆
 1978年1月、松屋和代さんの初個展がマルミツ画廊で行われました。
 挨拶文は
  「・・・この度、未熟ながら思いきって個展を開き、お目にとめて頂く決心をいたしました。・・・」
とあります。このあとこの画廊での個展は20回を超えることになります。
 松屋さんは地方では珍しいプロフェッショナルな女流画家です。
 3歳から手ほどきを受け、成長に合わせて3人の師の薫陶を受けています。東京女子美大在学中、小学校教師をしていた母親の強い勧めで北九州市の教員採用試験を受けるため若松に帰省しました。お母さんの作ってくれた弁当とカールトンを担いで元気に家を出ました。
 試験日が過ぎ東京に帰っているとお母さんから電話がかかってきました。いつになく静かな声です。
 「和代ちゃん、あんた採用通知ね、そちらにしているのでしょう?」
 「・・・・・・」
 「ぼちぼち知らせがあってるようよ」
 まさか受験に失敗することはなかろうと思う母の気持ちが分かる優しい声。
 「ごめん、受けなかったの」
 「えっ」
 2000キロ離れた電話の向こうの母の顔が手に取るように見えます。
 「ごめん」と、もう一度小さな声で詫びました。
 
 試験の当日は、母の愛と期待を裏切って終日映画館の中で震えながら決意を確認していました。教師で画家、この二足の草鞋に妥協しなかったのです。このとき22歳の小柄でチャーミングな女性。よくぞそこまで考え切ったと敬意を覚える筆者であります。
 光安も気丈な松屋さんを知るに付け、何かとサポートします。多くの作家に会わせたり、あるときは苦言を呈します。
 光安は若松高校同窓会の世話役をしていました。1980年若松高校同窓会総合文化展には、同窓の俳優・天本英世さん(2003年77歳没)の「スペイン巡礼」出版コーナーを設けました。それに、スペインの写真や民芸品なども送ってもらって飾付け、オープン前日となった時、突然天本さんが帰ってきて飛び入り参加した天本さんが加わった賑やかな前夜祭となりました。
 西鉄ホテル(パークホテル)は天本さんのロルカ(スペインの詩人)の詩の朗誦に北御門さんがフラメンコギターを添えます。フランコの独裁政治が終わり、自由の兆しが見えてきた1979年のスペインを7ヶ月半かけて巡った「スペイン巡礼」の話は、その場にいた人たちを一度はスペインに触れてみたいという思いにさせました。そのなかに、松屋さんも光安も入っていました。

 (この文章の一部は、1990年西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています。)