ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その10)ーみちのくから来た絵かきー

2007年05月31日 | 随筆
  
 1977年の長谷川健治の初個展以来、画廊主(光安鐵男)は、長谷川との付合いがどんどん深まります。それは、光安鐵男が1991年に「みちのくから来た絵かき」を著すまで続きます。
 実は、長谷川は1986年に50歳の若さで人生を閉じるのですが、光安にしてみればその後の5年間を長谷川と本当に別れるために長谷川のことを書き続けました。できあがったのが「みちのくから来た絵かき」です。長谷川の人生をエッセイで記すページをめくれば、それを想起する作品が同時に見られるように構成してある120ページのしっかりした画文集です。僅か10年間の付合いだったのですがそれが濃密だったことがこの本から分かります。
 長谷川と出会う前の生い立ちや家族のことをいつ取材したのだろうと不思議に思ったのですが、「ふり返れば四半世紀」を読んでわかりました。
  長谷川が二度目の個展以降、作品はどんどん進化を遂げていきますが時には酷評を受けることがあります。作家は誰しも謙遜して「ご批評いただければ有難い」と言って案内状を書くのですが、文字通り酷評されては得体の知れない空しさを感じます。そんな時、長谷川が採る手段はある種の放浪です。本来底なしの酒好きですが、それを絶っているのですから彷徨うほかなかったのでしょう。やるせない気持ちを鎮めるため、見知らぬ町や村、山なみを縫ってどこまでも車を走らせるのです。光安はこの車の助手席にいました。
 大分の国東からの帰りこと。日豊本線の椎田あたりでたいへんな渋滞に遭い長谷川はさも訳知り顔にわき道の農道に車を入れます。どこをどう走ったのか光安が目を覚ました時には全く方向違いの宗像街道を若松方面に向かっていました。こうした二人の彷徨うようなドライブは九州全県・中国地方に及びました。塗炭の笑みを浮かべて話す長谷川の生い立ちや破天荒な放浪生活のことを光安は助手席で聞いていたのです。
 「みちのくから来た絵かき」は自費出版のためリンクできませんから、次回から幾つかを紹介しましょう。

(この文章の一部は西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀」光安鐵男文を引用しています)


ギャラリーNON(17)-夏の川・中洲-

2007年05月27日 | 美術

 ひびしんギャラリーでの私の作品展に来てくださったあるお客様がご自分のギャラリーでも展示して欲しいとおっしゃるので、ひびしんギャラリーの会期を終えたあと作品の一部をそのギャラリーへ移し展示した。自分で案内状を出さない作品展、芳名帳への記帳が少ない作品展、自分がギャラリーで来廊者とお話することのない作品展となった。見知らぬ土地で作品を見せるチャンスが与えられたら、それを生かす力がなくてはならないと思った。せめて一点なりとも新作をと思って描いたのがこの写真の絵である。

げってん(その9)

2007年05月21日 | 随筆
  1968年、1969年、1973年、1974年、1976年とマルミツ画廊での個展の記録があるその人は、谷川義和さん(現75歳)。八幡製鉄の朱画会で腕を磨き、1951年ころから出展活動を始め、市展、県展、西日本展、中央展(独立展)と歩を進めた。力漲っていた1961年、1962年の県展では二年連続で受賞し、大賞を受賞した作品、「結合の進化」は当時の絵かき仲間の目に焼付いている筈である。 しかし、谷川さんは家業の造船所を継がなければならなくなり、八幡製鉄を退社、若松に移り住み、若松の谷川造船所の社長業で忙しくなる。だから、文頭のマルミツ画廊での個展には新作だけを並べることは困難だった。にも拘らず昔の絵描き仲間は洞海湾の渡船に乗って若松の画廊へやってきた。社長になったアーチストは、そんな仲間との画談義がなによりの安らぎだった。そして、飲んで裸踊りをする絵描きたちと、これをまとめる磊落(らいらく)陽気な谷川さんの人脈パイプを最大限に利用したのは画廊主だった。
 谷川さんは、後に、自分の経営する造船所の近くで、岩手県・盛岡発、北海道、青森、秋田、東京、大阪、広島経由で北九州に入ってきた放浪の人、長谷川健治と出会う。そして画廊主と谷川さんとこの放浪人の3人が素晴らしいドラマを演じることになる。

 1977年2月、長谷川健治油絵展が催された。
 谷川さんは、
 「初めて彼と会ったと時、何かある・・・と感じた。一見、長谷川利行(画家1940年没)を思わせる風貌の彼、ユニークな画法で熱っぽい感情は私を魅了させた。そんな彼の今後の活躍を期待してやまない。」
 と紹介しています。そして長谷川さん本人は、
 「牛をモチーフにした作品を中心に並べてみました。これを契機に20年の空白を作画活動で塗りこめてゆきたいと思っています。」
 としるしている。
 中学時代に絵をはじめ、釜石高校を卒業してから釜石の製鉄会社に就職、かたわら出品活動を始めていたが酒の失敗で離職、以後、北から南への放浪生活を始める。北九州小倉に入った頃は30歳半ばになってた。彼は相変わらず飲んだくれ、警察の世話になり、しまいに精神病院でアル中の治療となる。退院後の仕事先は若松のスクラップ業をしている梁川商店だった。そこでは牛50頭、ニワトリ30羽、犬7匹、アヒル2羽、ウサギ2羽、オウムとカメの世話。谷川さんの勧めで描き始めた絵は純粋な愛に溢れた牛や犬たちである。二年間かけて描きあげたときは40歳だった。
 この展覧会はひっきりなしの来廊者を呼ぶことになった。私もその一人だった。牛の目の愛らしさは長谷川健治そのものと私は感じた。しけた日の北港・船留め風景は今も私の目に焼付いており、大体の構図は目を閉じれば今でも模すことができる。
 この放浪人とげってん人が心通わないはずはない。画廊主は手を尽くして長谷川健治の実家に個展の案内状を送った。返って来た手紙は音信不通だった姉からのもの。その末尾には、
 「さすらいし絵筆に春のめぐりきて弟またず逝きし父母」
とあった。なんとしたことだ、親の死も知らず放浪していたのだ。

(この文章の一部は西日本新聞掲載の「ふり返ると四半世紀」を引用しています)

げってん(その8)

2007年05月13日 | 随筆
 画廊開設5年(1970年)ごろから、出品者の幅が広がり始めた。
先に登場した、森鐵蔵のクレパス画をはじめとして、秋枝義幸の写真、片山正信の版画、木内廣の淡彩画、火野葦平(芥川賞作家・1960年没)の色紙・縁品、久保田華房の南画などなど。
又、作家達の海外取材旅行なども頻繁になって旅のスケッチ展、さらに、女性の美術教師らの作品発表、夫婦展、あるいは絵画教室も盛んになってきたのでグループ展。流れができたのである。
 1973年9月に行われた女性美術教師の作品展案内状の文面を紹介しよう。
 
 「宮嶋千鶴子油絵展」 福岡県女子師範学校本科一部卒、中学校教諭、54歳。
 絵を描くことが好きで、いつも思いっきり描いてみたいと考えている。しかし、教師、主婦、母親、この頃は七人の孫の祖母という役目まで加算されてくると、思いっきり描きたいという切なる念願はだんだん儚くなるばかり、筆を握るのは一ヵ年の間ほんの僅か・・・。
 バラも、紫陽花も、ドイツ薊も、コスモスも、我家の庭では絢爛と美しく、キャンバスの中では、なんとなく洞ろに変わり、気になる作品ばかり、でもこれを第一回作品展として、今からの新しいスタートにしたいと考えている。

 私は健気な姿に弱く、この文はどにか切ない。
 宮嶋先生は教え子らの絵画作品を多数もっておられたので3年前、その作品展を催した。作品と同世代の子を持つようになった教え子らが画廊を訪れ、思い出話が尽きなかった。
 私も、先生と話す機会があった。
 先生は退職すると直ぐに
 「私、今度は生徒になる」 
と宣言して、朝日カルチュアーの文章教室へ通い始めた。その教室の生徒らの作品集を読ませていただいた。先生の書かれた、じつにきれいな文脈の随筆があった。挿画とカットはもちろん宮嶋先生の役どころ。
 今年の新春色紙展には先生からの出品がなかったのだが、お元気に作文を楽しんでおられることと思う。

 

ギャラリーNON(16)-原画・寺田竹雄-

2007年05月10日 | 美術

 私のところにフクニチ新聞掲載の寺田竹雄(1908~1993、福岡市生まれ、二科会会員、サンフランシスコ美術協会会員)の原画が舞い込んだ。
もう亡くなられたのだが、元フクニチ新聞の記者が持っておられたもの。
この原画が新聞記事「着物の女性」になったところを切り抜きで示しましょう。
 読みやすくするため寺田竹雄の文をそのまま書き写すと次の通り。

 正月らしく花びらのような雪が舞っていた。年始の友人達と飲んでいると玄関のベルが鳴った。「S君だよきっと」とみんな玄関の方に心を向けながら待った。だが、はいって来たのは女性だった。鮮やかな色彩の着物を着飾ったその女性がはいって来ると一時に部屋が明るくなったかと思われる程だった。「なあんだ。K子さんじゃないか」と私がいうと「なあんだとは随分しつれいね。お正月早早」と早速しっぺ返しを食わす。いつも洋装で、スラックスなどの時には人前でも平気であぐらをかくK子なのだが、日本の女性は矢張り着物を着ると美しいとつくづく思った。

 文は正月の華やいだ雰囲気が見事に表現されている。それに「・・とか、・・みたい、・・けれども、・・ぜんぜん、めちゃくちゃ・・、・・っていうか、なので・・」といった奇妙な日本語にへきへきしているストレスをかき消してくれて、懐かしいような、癒されているような思いが拡がる。
 原画を写真で示しても原画の持つ生々しい息使いを伝えることはできないのが残念だが、鉛筆の線は生きいきとして気持ちよい。
 

げってん(その7)

2007年05月05日 | 随筆
 1970年10月画廊開設5周年を記念してグループ北斗展が行われた。
 北斗は新日鉄八幡製鉄所と同八幡化学の絵画グループから選抜されたメンバーの集まりである。
 村田東作、星野順一、首藤末雄、寺田一男、平田逸治、米田和美、佐野正隆、円福清隆、木浦寛治、原田靖雄、吉田邑、谷川義和」らの面々である。村田さんは北九州美術家連盟の会長で、地方画壇の実力者です。
 開設5周年の祝いの会は、この北斗展の面々の他に、遠方や地元の絵かきさん、それに画廊の支持者が集まり、料亭「にしき」で行われた。その席で、 村田さんは画廊主らしくなった光安鐵男に頼んだ。
 「若いころ、一緒に絵を描いた仲間が若松の自宅で闘病生活をしています。彼が生きているうちに、ぜひ一度個展を開いてやってください。古い絵だったら持っているはずです」
 数日後、肺結核でふせっている森鉄蔵さんを訪ねた。
 「毎朝、私には大変な『行』があるとですよ」
といって、肺にたまった水を一時間かけて洗面器に吐き出す。
そんな寂しそうな顔を見て、個展を勧めるのは残酷な気がしたが、勇気を出して切り出した。
 「先生の手は一切煩わしません。絵だけお貸し下さい」
弱々しい小鳥の目のような眼差しが一瞬キラリと輝いた。
 「ふるーい絵は、見せたくなかですよ・・・。しばらく待ってくれませんか」
という返事。
 一年後の1971年11月、森鉄蔵さん満71歳の初個展が開かれた。なにがなんでも絵を描きたい一心がクレパス画を思いつかせ、作品は基本を崩さない朴訥さが滲みでており、その情念が見る人の胸を打ったと記録がある。。
 来客の一人ひとりを10日間、終日画廊で相手をします。健康な人でも個展は疲れるものですが、日に日に元気になっていくようだったと光安鐵男は述懐している。
 森鉄蔵さんは小倉師範の柔道部出身、卒業して最初に就職したのが八幡高等小学校、まさに体育系の巨体の持ち主、しかし意外なことに図工主任を命ぜられます。それならと文部省検定試験で美術教師の資格を取るため、上野美術学校をでた安藤義茂先生の隣の家に引越し、指導を受け始めます。同先生に教えを請う仲間が自然に増え始めたなかに村田東作さん、船越達雄さんらがいた訳です。
 森鉄蔵個展はその後八年間続き、さらに81歳まで生きられたそうです。

(この文章の一部は1990年に西日本新聞連載の「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)



げってん(その6)

2007年05月03日 | 随筆
眼鏡店の中の画廊は小品10点前後の飾りつけしかできないものであった。それでも、当初は月2回ペースの展覧会が催され、質も高いものとなった。
 彼の画廊記録は1965年開設の3年半後から始まっている。この頃から本気になっていったに違いない。
 当時の出品者を挙げさせていただくと、
 千原稔(国画会)、首藤末雄(新世紀)、谷川義和(独立)、安松恒男(新世紀)、福田安敏(県美)、原田靖雄(独立)、有働計紀(元新世紀)、木浦寛治(新制作)、永野一利、佐野正隆(主体美)、米田和美(春陽会)、陣内正司(独立)、正本嘉(新世紀)、石松辰彦(日本美)、木内廣(国画会)、森鉄蔵、船越達雄(新世紀)、中村茂(示現会)、島泉(示現会)、宮嶋千鶴子、寺田一男(県美)、米村光雄(主体美術)、木本重利(新世紀)、星野順一(第一美)、横尾御斗潞、安部福一・・・・。企業(新日鉄)の絵画グループ、美術教師仲間、県・市の美連、或いは地元出身で中央で活躍中の作家などなどの面々である。
 彼は画廊にますます力を注ぎ、好きになっていった。1971年3月彼は朝日新聞の取材に応じてこう言っている。
 「程度の高い作品を鑑賞してもらいたい」
 「思いつきや安易な作品展はお断り」
 「光安さんの画廊にレビューするにはまだまだ力不足」と地元画家のバロメーターになっているとも。
彼の作家に対する真からのアシストと作家達の情熱とがうまくかみ合って、この小さな画廊は地元に根を下ろし始めるのである。しかし、奉仕から成る画廊であるから収入など全く考えていない。むしろ出費のほうが多いことには変わりないのである。だがよくみると人の輪は大きく広がっている。