ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(56) 東日本大震災一周年の日に

2012年03月11日 | 随筆
 NHKテレビが追悼式を実況するというので、構えてテレビの前に座った。2時46分、全ての被災地に鳴り渡るサイレンに合わせて私も黙祷を捧げる一人になった。祈らないでは居れなかった。
 黙祷しながら、脳裏に現れたのは昭和20年の大阪大空襲で逃げ惑っている母と私の姿である。父や兄姉達は、焼夷弾の破裂で飛び散っためらめらと燃える油の小塊を軍手で壁から剥ぎ落としていた。先に逃げろと怒鳴りつけられて、5歳の私は母に手を引かれて防空壕へ走った。壕の中には同じような親子が沢山避難していた。そのうち、シューと渇いた音がしたと思うと防空壕の入り口の柱や梁が燃え始めた。悲鳴をあげて皆が反対側の入口に走り寄るとそこも燃え始めていた。母はあとで「もう駄目かと思った」と言っている。「誰かが水をかけてくれて炎が弱まったので助かった」と。それからどう逃げ惑ったかは分らないが、かなり大勢が入れる建物にたどり着き、母と私はそこで身体を寄せ合って数日間を過ごしたと聞かされている。運良く、父と兄姉たちとは無事でここで再会を果した。命だけは失わずに済み、命以外には何も無い7人家族の人生がここから始まることになったのだ。命だけから始まる人生という意味で、大津波災害とよく似ている。
 どん底からのスタートは、長い時間かかるが僅かづつでもよくなる。だから、希望を持って歩みはじめて欲しいと思う。
 

げってん(51) 桑野郁司さんの絵~余滴~

2012年03月04日 | 随筆
「桑野郁司さんの絵」を読んで行動を起こして下さった方がいた。桑野さんの絵の手掛りを求めて志徳公民館へ足を運んだのだ。志徳公民館は今は企救丘市民センターとなっているが、センターの方々は亡き父の作品に会いたいといっている娘さんの気持ちを汲み取り、動いてくださった。

 数日後、ブログの読者の手から私に一点の小さな愛らしい絵が手渡された。そして、その絵は小倉の喫茶店で娘さんに渡った。想像したよりお若く、想像した通りの働く女性だった。ちょっと控えめに
「私も絵を描くのが好きでした」と。
「この額縁は父が自分で作ったものだと思います。」
と言って、私に感情の全てを晒さないようにしておられたが、目はその絵をしっかりと見つめて、
「父の絵に会うだけでよかったのに、作品を譲って下さってありがとうございます。」
と礼を述べられる声が少し詰まっていた様に聞えた。
 知っている限りのお父さんの話をしなければいけなかったのに、私自身が娘さんと同じように絵の好きな子だったから、絆されていつの間にか絵の話をしていた。絵は人と人の間に入って何かを通わせるものらしい。
 
 この一件について有り難い配慮をしてくださった方々に、娘さんのお気持ちも合わせて心からお礼を申し上げます。