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ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(XX)-エピローグ(2)-

2011年03月04日 | インポート
 2011年2月5日 「マルミツ画廊ラストパーティ」を企画し案内状を出した。
 この5年間、毎年「新春色紙小品展」を打ち上げたら新年会を催していたが、それには体調を気遣って画廊主を出席させなかった。しかし、この最後のパーティだけは出席させようと、和光亭の女将と相談した。
女将は
「そう、画廊を閉じるの」
と寂しそうにしながら、
「一階の“キャッツアイ”を使ったらどう」
と昔のキャバレー調の大部屋を開放してくれた。光安鐵男は言わばヨチヨチ歩き状態なので階段が使えない。私は、介護施設にお願いして当日は車椅子を借りて光安を移動させることにした。そしてこの際、光安鐵男の奥様にも出席していただくことにした。

 昔を懐かしむ一時にして欲しいと呼びかけたラストパーティには、35名の出席を得た。しかし、1965年の画廊開設から1980年の画廊が軌道に乗るまでに画廊を支え活躍された諸先輩の方々の出席は、亡くなられたり、体調不良で出席は叶わなかった。
 参加できないことを惜しんで、いくつかのメッセージが寄せられた。

 「閉廊パーティのご案内をいただき、数々の想い出に感慨無量です。鐵男さんへの謝恩は生涯忘れません。いろいろと有難うのひとことです。」

 「久しぶりに光安さんにお会いしてお礼の言葉をと思いながら、体調不良のため出席できず不義理をもうしわけありません。同封のお金は会費のつもりのもので・・・。」

 「残念ですが私事で欠席します。貴兄もいろいろ大変な時、画廊の支えにご尽力、敬意を表します。マルミツ画廊は私にとって画業の原点です。思い出は数限りないのですが、ご本人、奥様にくれぐれもよろしく感謝の意をお伝え下さい。」

 「闘病中(癌)で、間もなく再入院です。もう命が無いかも知れませんが、光安さんに感謝の意を伝えて欲しい。」

閉廊が決められたときは気が張っていてあまり感じなかったが、こうして別れの言葉が寄せられると寂しさが募る。

 パーティは一人一人にマイクを回してショートスピーチをいただいた。エピソードを聞くにつけ、画廊主が核になって大きな人の輪が出来ていたことが分かる。画廊という部屋は白い壁があるだけでドンガラなのだが、人が心を寄せる空間なのだと思う。ラジオのインタビュー番組で、30年前、商店街の大反対に遭いながら、商店街を活性化するため空いた店舗をギャラリーに改装して大成功を収めたという話を聞いたことがある。そこは今では文化ホールとなり、絶えず大勢の人を集め、商店街は今も潤っているとのこと。文化というのは、目先の経済性は分かりにくいが、大きな力を持っている。げってんさんも同様に無形の価値を創り上げたのだと振り返る私の感慨は間違っていないようだ。
 
 ラストパーティにはサプライズゲストをお招きした。げってんさんとそのゲストは当時、一市民と市長との関係ではあったが、市長が市民の声を聞く相手として話が弾む関係にあった。面白い話が披露されたが、ここに載せるのは割愛しよう。
 ハワイの踊り、フラダンスが披露されたりで、会は寂しさをかき消すように盛上がった。最後は、大正12年に作曲された「早春賦」を皆で唄って散会した。
 後には、本当に静かな時間が流れ始めた。一時代が終わったのだ。

 

 

 
 

ギャラリーNON (24)-新年会-

2008年02月04日 | インポート
  2008年のマルミツ画廊新年会を開いた。画廊の恒例となっている新春色紙展の打上げを兼ねて画廊をご愛顧して下さる方の集まりにした。
 新春色紙展は画家達の書初めの変わりと言ったようなもので、年の初めに心に期すことなどが作品に織込まれる。
 36人の作家の38点の作品は、みんな思いおもいのもので、画家だけでなく、陶芸家の陶板や鉄鋼工芸家の小品、木工芸家のネズミの彫り出しものもある。その人らしさがあって面白い。公募展ならこれに順位をつけるのだからおかしなことだとも思う。
 
 上の色紙は私の作品。無礼にも正岡子規の俳句を使わしてもらった。初めて自分の小さな工房ができたので、これからここで絵を描いていこうと思った次第。よろしくご批評下さい。
 合わせて、今年も「ボランタリー画廊」をご愛読頂きますようお願いいたします。

げってん(その20)-片山正信・版画-

2007年07月09日 | インポート
 片山正信さんの初個展は1963年(丸柏デパート)であるが、マルミツ画廊には1971年5月に小品展の最初の記録がある。片山さんは大正4年(1915年)の生まれだから、このとき56歳。小品展の案内状にはありきたりの案内文は一切なく、ただ次のように詩が書かれている。
 
 昨日も今日も何かが
 すさまじい音をたててころがっています

 ふと気づいてふりかえれば
 ああ・・・・・・もう見えないのです
 野原もとんでいた蝶も小鳥も
 木や花や小川の魚たち
 岬の夕陽は煙の中に墜落
 星はみえない波の音も聞けない

 昨日も今日も何かが
 すさまじい音をたててころがっています
        45-5-24 MK

「若松版画散歩」と副題をつけた展覧会。
この詩に詠っているように自然が傷つけられていることを悲しみ惜しむ気持ちを版画にぶっつけている。時は石炭エネルギーから石油エネルギーへの転換期、石炭積出港であった若松の姿をどんどん失っていく頃である。

 片山さんは昭和10年(20歳)から昭和20年までを兵役につく。昭和10年、小倉歩兵連隊に入営したが、昭和11年4月には満州派遣部隊として北満に駐屯。東部ソ満国境守備について負傷。12年5月兵役免除となるが第二次世界大戦の始まりにより再び満州へ。21年帰国。しばらく呆然としているが、やがて版画を始め、日本版画院展に3年くらい出品を続けて院友となる。そのころ日本版画院秀作展に選抜されて出品するも、巡回展が済んでも作品が返ってこなかったことを腹立たしく、そして空しく思い、ぷっつりと出品を止める。その後日本版画院の棟方志功に誘われて大阪の民芸協会に入る。協会のボスは三宅忠一さん。自家用のベンツに片山さんらを乗せて全国研修ツアーをする。「なにわ民芸店」を主宰する三宅さんの支店として若松市(現北九州市若松区)に民芸店を持つ運びとなる。
 オープンした民芸店の電話番号を届けるため信用金庫の窓口に並んでいた時、すぐ後ろに並んでいたのがマルミツ眼鏡店の電話番号を届けようとする光安鐵男だった。用件が同じで、それに電話番号も良く似ていた。二人は店も近いことから挨拶を交わし、そのときから親交が深まっていった。
 片山さんの民芸店はお得意さんの多い店になっていったが、開業から10数年後、頼りの三宅さんが他界し、大樹を失った片山さんはすっかり元気を無くして民芸店を廃業してしまう。兄の経営する鉄工所を手伝わないかと救いの手が差し伸べられるが、片山さんはこつこつ制作していた版画から離れられず、「これをやり遂げないと死なれん」と周囲の言うことを聞かなかった。
 先の、詩に詠われている心はずっと変わることなく片山さんは制作を続けることになる。現在92歳。体は細いが気骨な片山さんの話をもっと聞いておきたいと若松ケアハウスを訪ねる私である。