ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(82) 2016小品展・珈琲館ドン

2017年01月18日 | 随筆
 12月に入るとクリスマスソングが聞こえ始める。そうなると有難いことに、「今年も小品展するのでしょう」と声をかけられる。
 2013年11月から3年間、個展ができていない。2014年は病気治療のため作品ができなかったが、2015年からは描けたはずなのに果たせなかった。個展は私の最優先の課題の筈であるから、僅か10点の小品展で時が過ぎ去っていることは大いに反省すべきである。どうも絵を描くのに身構えてしまっているのが根っこの原因のようだ。放浪の旅に出て、無心になってみたいところである。


「スヅツキイズコ」M20 2016.11作

この絵は北九州市若松区の若松港の出入り口にある軍艦防波堤の名残を描いたものだ。2010年に駆逐艦涼月元乗組員の話を直に聞いたことが、この絵を描く強い動機になっている。2011年の私の個展にも登場したモチーフだが、構図を変えてもう一度描いてみた。
 画題の「スヅツキイズコ」はほとんどの方に通じなかった。この画題は、戦艦大和への特攻出撃に編成された9隻の駆逐艦中の「凉月」と「冬月」との交信電文からとったものだ。全く成功の見込みのない戦艦大和の特攻は、日本側の犠牲者3700人となったことは戦史上知られているが、大和は沈み、「凉月」は満身創痍、奇跡的に軽傷だった「冬月」が、「凉月」を救おうと「スズツキイズコ、ワレフユツキ」と打電した実話からとった画題だった。詳しくは松尾敏史著「若松軍艦防波堤物語」福岡県人権研究所発行を参照願いたい。Wikipedia「若松軍艦防波堤」でも掲載されている。
 今回の小品展をお世話下さった珈琲館ドンで、いつもおいしいコーヒーを淹れてくれる店員さんには、この話が通じた。聞けば海上自衛隊上がりのひとだった。


「博多献上」M20 2016.9作
 この絵の敷物は、絵画クラブのメンバーの方から頂いた帯だ。帯に何かを載せて絵にしようと思っていた時に、何を置いても帯の存在感に負けそうなのでしばらく放置していた。数日後、その帯を主役にすれば悩むことはないではないかと閃いた。そこでできたのがこの構図だ。透明なガラス容器もキラッと光って帯に負けない存在感を醸してはいるが、画面上の占有面積が小さい分、脇役でいてくれそうに思った。
 博多織を調べると、「博多献上」と名づける歴史があり、文様は仏法事に用いる仏具由来であることも知った。この帯を下さった方はクラブの最古参メンバーの一人だったが、私より10歳年上で、つい先日退会を申し出て来られた。その理由は、一年前から始められた裁縫教室の人数が増えて多忙になったからとのこと。いつの時も高齢で退会される時は寂しく悲しいものだが、この人には拍手とエールを贈った。

ギャラリーNON(81) 12th クラブN水彩画展

2016年04月26日 | 随筆
 12回目のクラブN水彩画展が終わった。最終日には1時間半をかけて全作品を寸評する時間を持った。作品のレベルはどうあれ、どれをとっても熱心に描いているのが分かるので、楽しみの絵が苦しみの絵になるようなことは言えない。技術的に未熟な点と表現の未熟な点とを分けて、技術的な点については的確に言い、表現については正解・不正解などない領域なので、何を描きたかったのかを聞いた上で、「それなら別の方法、あるいは今の方法をもっと」などと刺激するにとどめる。
 まあ、こんなことを繰り返してはきたが、どれだけの効果があるか分かりにくいことだ。ただ、みなさんの目は肥えてきて、他人の作品に対しては良さとまずさが分かるようになってきている。自分のまずいところは皆同じで、分からないし、分かりたくないこともある。
 
 
「山の音」M50、2016.4
 これは同展に出品した私の作品である。
 山の音を感じるような景色はないか探していたら、まあこれなら妥協できる景色を見つけて描き上げた。小倉南区辻三という所。丁度、腰かけてスケッチをするところがあって、好天にも恵まれて二日間スケッチに通った。

 展覧会最終日の夜、打上げ(懇親会)を催した。会の途中でスピーチの時間が与えられ、「絵画の基本中の基本」について考えてみたことを話してみた。
 
 60歳の定年が近づいてきたころ、私は市民センターの絵画クラブで、絵の助言や指導を乞われてするようになっていた。形を描く、色を作る、陰影を表す、にじみやぼかし、タッチやトーンのいろいろ等、絵画の基本については何とか分かっているが、何か絵の軸になる理念が欲しかった。たかが生涯学習のお遊びと茶化されても、教えることをいい加減に行いたくなかった。そんな時、ゴルフのインストラクターとの会話の中から大きなヒントをもらった。
 
 ゴルフは方向性の競技。100人100様のスウイングをしていても、まっすぐ飛ばすにはまっすぐ振るしかないのだ。これが基本中の基本。人間の体はハンマー投げのように体を独楽(こま)の芯棒のようにしてクラブを振り回すことはできるが、その振り方はゴルフには使えない。そこで肩の線を目標方向に合わせて弓道のような立ち方をする。それでもって地面にあるボールを長いクラブの先についているヘッドで打って目標方向に飛ばす方法をとる。この動作は人間の自然な動きからそれている。傾斜したクラブヘッドの円弧の軌道でまっすぐの瞬間などないに等しい。だけれども、まっすぐ振らなきゃならんので、それを基本中の基本として教えているという訳である。だから、100人100様であっても教えることはそのこと一つなのだと。
  
 絵を描くことの基本中の基本は何だろう。なかなか答えが見つからなかったが、最近、答えに近いところに辿りついた。それは、漢字一字でいうなら「惹」(読み:ジャク、意味:ひかれること)で、“惹かれる対象を見つけること”だ。 絵は表現の世界にあり、ゴルフのように技術的な要諦はなく、むしろ抽象的な要諦がある。私はそれを「惹」とした。

 よくあるパターンで、きれいな写真を見つけてこれを描きたいと言ってこられる。なるほどきれいな写真で、誰もがこの写真には惹かれる。しかし、それは写真家のオリジナル作品(最初の独創的作品)に惹かれているのであって、それを自分の演習に使わせてもらっても作品にすることはできない。たまたまジャンルが写真だったが、ある人の描いた絵に惹かれてそれを真似て描くことと違いはない。どんな物事にも惹かれることは大いに結構だが、惹かれれば何でも作品にして良い訳ではないのだから、やがて自分が独り立ちして見つけていかなければならない。

 人間の営みの中の惹かれるものを自分で見つけていくのが絵画の要諦であろう。そう思って毎日を迎えると、いつの間にか、向こうから魅力をアピールしてくる。難儀なことの多い毎日だが、難儀や、悲しみ、辛さも惹かれる対象になる。老人の来し方の難儀を刻んだ皺もまた惹かれるモチーフになる。言い換えると、絵描きは惹かれるものをしっかり見つめてお得な人生を過ごしているのだ。一途に、惹かれるものを描き切るために孤高の絵描き人生を送る人だっている。惹かれることは絵画制作エンジンのスイッチで、「掴む」、「握りしめる」、「放つ」の制作工程を最後まで走り切る燃料の働きもする。だったらこれは、絵画の基本中の基本と言えないか。

ギャラリーNON(80) 小品展2015・珈琲館ドン

2016年02月02日 | 随筆
 年の瀬が迫ってくると、今年の小品展はいつからですかと尋ずねられるようになった。年内にやっておこうと思ったことが溜りに溜まって落ち着かないが、結局やれることから一つ一つこなすしかない。小品展も年内にやらなければならないことの一つだ。こつこつ描きためるか、一気呵成に描くかは選択肢ではなく、やはり何を描くかだ。“私は最近こんなことを考えています”と発表するようなものであろう。
「香り・2015」
 実は、この作品は、高橋永順著「永順花日記・1991」の中の一枚の写真をモチーフに2001年に描いたことがあり、それを14年振りに再び描いたものだ。自分で比べてみたかった。違いはタッチだけだった。2015には筆が彷徨った形跡はなく、何をどう表現するか意志が決まって描けたようだ。14年間で変わったのは、少し場馴れして大胆になったという事か。筆数少なくすっきりと思いを伝えられる筆さばきの人になりたいのだが。
 花は「デモルホセカ」という名で、熊本県三角町戸馳(トバセ)という島を訪れたときの日記に記してある。
「切り花」
 花は「デルフィニューム」。茎の先端まで咲き揃ってきれいな青色を発色する。花のところを切って無造作に投げ入れたところ。測ったわけではないが一時間でほぼ描けたような気がする。
「天恵・エスキース」
  50号で「天恵」を描こうとしたときのエスキースだ。絵を始めたばかりの生徒さんが、自分で掴んだモチーフがこの梅の木を下から見上げた時の魅力だった。我が家にも梅の木があり、丁度実が色付き始めるころだったので見てみるとやはり魅力的だった。
「野葡萄」
 これも我が家の庭にはびこる野草の一つで、冬の初め頃、真珠のような大きさの色鮮やかな実を見せつけられる。食べられないので眺めるだけだが、毒々しく見える色でもある。つるを切って切り株にもたれさせるときれいな影が投影された。

ギャラリーNON(79) 北緯36°51’

2016年01月30日 | 随筆
 最近の私の制作手順は、次の絵にかかろうとする度に、もう少し増しなものを描きたいと思うがために、あまり詰まっていない自分の頭を揺さぶってみるが、いつもの軽い音しかしない。それでも何日か続けているとコロンと音がするようになる。それっとばかりにクロッキー帳に鉛筆を走らせてみるが描いてみると気に入らなくて手が止まる。また数日が経ってやっぱりこれだと新しいページに鉛筆を走らせる。どうも極端でいけない。テーマに沿った資料などを広げているとまたコロンと音がする。どうにか絵になりそうな感じが強まり構図の検討に入る。6、7枚の構図案を描いた末に1枚の構図に落ち着く。色デッサンは大体頭に浮かんでいるのでそれでよしとして、エスキースはせずに一気にM50号の画用紙に描く。とまあこんな感じだ。
 この作品の場合は、今までとはちょっと違うタッチが浮かんできて、その勢いであらかた全体に着彩した。二日目はその調子守って手が進み、一気に完成した。

 NHKのサポートする「明日へブログ」のブロガー,井上淑恵さんの2015.12.22投稿記事、「北緯36°51’行きたくても…行けない海域」からイメージした作品ができた。画題もブログの題から「北緯36°51’」とした。
 「北緯36°51’」M50
 五浦の崖の向こうは行けない海域。繋がっていない海や空気などないのに立ち入り禁止の線引きをする。それはまだ事故の始末ができていない証。現にこうして事故が起こって解決の道ができていないのに、心配ないと言われるとますます不安が募る。再び大事故が起きたらどうするのかと問うたら、大事故は起きないからその問いに答える必要がないと答えるほかに答えようがない。福島から遠い九州でも、大事故が起きたら想定外だったと言うのだろう。
 交通事故死は戦後70年の積算でざっと50万人を超えると思うが、保険制度や、交通法制で車社会を容認している。放射能の存在を容認する社会など考えられない。

ギャラリーNON(78) 吉里吉里人

2015年03月27日 | 随筆
岩手県大槌町吉里吉里地区からの「明日へブログ」は関谷晴夫さんです。3.11震災でインフラが絶滅して孤島のようになった避難所から被災状況を発信し始めた方で、その活動は今も「明日へブログ」への執筆活動に繋がっています。
 2013年8月の「吉里吉里通信・夏号」の記事には、ヤマセ(海面を移動する濃霧)に包まれた吉里吉里港、海水浴で賑わった吉里吉里海岸、お神輿の練り歩く夏祭り、やがて秋になると見られる海からの日の出、を紹介しながらも、これからの嵩上げ工事や防潮提工事で、昔ながらの眺めや音や色、それに吉里吉里人たちの声がなくなる寂しさを綴っています。復興の槌音の頼もしさの裏に、無くなり様変わりする寂しさが心の底にあるのだろうと読んで感じます。
 この記事の中に、吉里吉里海岸で遊ぶ二人の女の子の写真があります。その子らが2014年7月の「ふるさと吉里吉里通信・梅雨号」にも登場しているように見えます。同じ吉里吉里海岸でのスナップと思われますが、鯨山を背景に、今度は傾いた防潮堤で遊んでいます。筆者は、倒壊した防潮堤は、普段穏やかだけれどもひとたび暴れると人間の抗し難い力を表わすモニュメントだと言っておられます。あのカタカタカタ・・・と横倒しの防潮堤を取り壊す音が消えたらそれを忘れてしまうのではなかろうか。そんな気持ちがスナップ写真から感じ取れます。

 その思いを絵にしてみようと取り掛かりましたが、スナップ写真そのものが絵になっており、その写真をM50号の絵にしてみました。


「吉里吉里人」2015.3制作 M50

ギャラリーNON(77) 再会

2015年01月18日 | 随筆
 新しい年を迎えた。一年と3ヶ月ぶりにNHK明日へブログを開いた。

 名取市の高橋久子さんのブログ「ハマボウフウに再会」では、閖上海岸で3年8ヶ月振りにハマボウフウに再会した感動が記されている。あの津波に耐えて生き残り、私達に無言でエールを送ってくれていると。

 ハマボウフウはセリ科の植物で、海岸の砂地に自生し、深く根を下ろして砂浜を守ってくれるそうだ。高橋さんが閖上海岸を訪れたのは11月、写真で見せて下さっているハマボウフウは、開花を終えて黄ばんで朽ちようとしている。どこか悲しいのは、その砂浜に7mの堤防が築かれていることだ。ハマボウフウは自分の役目を知っていて、健気にもその役目を果たそうとして地下から這い上がって来たのに、7mの防潮堤は冷たく立ちはだかっているようだ。
 私なんぞはど素人だから、防潮堤よりも滑走路を高地に向けて走らせて車や飛行機での素早い避難に使ったらどうかと思うのだが。

 高橋さんは、被災で汚れ傷ついた写真の閲覧会(瓦礫撤去作業中に見つかったものなど)に出掛けておられ、そこで、昔や直近の傷だらけの写真に再会しておられる。

 「再会・ハマボウフウ」M50 2015.3
 高橋さん撮影したハマボウフウの写真を私の中でイメージを膨らませて作品にしてみた。

ギャラリーNON(76) スケッチ展・2014 ドン

2015年01月11日 | 随筆
 今年は個展ができなかった。いい加減な作品で自分に課した毎年個展を維持しても意味がない。12月下旬の珈琲館ドンでの小品展がパネリストになっているので、これだけはなんとか穴を開けまいと10点の作品を展示した。そして、いつも個展には来て下さる方で開場近くの方には案内はがきも出して、復帰して元気でいることだけは伝えたかった。
   
  案内はがきに用いた作品がこの写真。11月下旬に訪ねたあるギャラリーのアプローチの土手に、紅葉が散り始めた錦木があった。小春日和の陽射しに秋の終わりを感じた。

夏のスケッチ。槿(むくげ)の花を見ただけで暑いが、この花は厚苦しくはない。どこか涼しささえ感じる。
   
教室を屋外スケッチにして、熱帯植物館に行った。サボテンは植物の中でも特異な姿をしている。なぜこんな姿をしているのか惹かれる。
   

ギャラリーNON (75) 忙しい日々の再来

2014年12月26日 | 随筆

 2014年の何と短かったことか。そう感じる理由は明白で、初体験の連続だったからだ。次から次へ事態が変わり、取り組んでいるうちに一年が終わってしまったのだ。今年のスタートはこんなふうだった。
 ・1月6日、前月のクリスマスイブを迎える日の午前中、クリニックでの内視鏡検査で胃癌の疑い濃厚との所見が告げられていて、そのときの生検結果が出る日だった。診察室に着席してすぐに、私の顔を正視するわけでもなく、パソコンからちょっと眼を外して、軽く、あっけなく、胃癌と告知された。初体験である。
 ・1月8日、クリニックから病院に移り、病院としてクリニックの診断を追認する検査があり、その際十二指腸にもリンパ腫と見られる病変が見付かった。そのためさらに広範囲の検査が必要となり、その検査は1月14日、15日の両日と決められてその日は帰宅した。帰ってリンパ腫をネット検索してみるが、どうもよく分からない。初体験の眠れない一夜を過ごす。
 ・1月15日、昨日から2日間かけて色々な検査が終わり、消化器内科医からはっきりと胃癌と十二指腸悪性リンパ腫の診断が言い渡された。治療方針については外科医と血液内科医の方で決められるのでその日のうちに二人のDrに会うことになった。外科医からは切除の方針、血液内科医からはR-CHOPと称される化学療法の方針が示された。付け足されてDrから告げられたことは、「セカンド・オピニオン」が必要なら早めに申し出てくれということだった。私は診断された病気について何を質問したらよいか分からないでいるのにセカンド・オピニオンの必要性などにはとても考えが及ばなかった。それよりか、つい先日まで健康でいた筈の私が、急に生死に繋がる病を抱えた人になったことが受け入れられずにいる始末だった。二つの癌の告知という衝撃と「治療をどうしますか」と迫られる事態にまた眠れない夜を過ごした。今度は3日間も。うとうとしているとき以外はパソコンにかじりついていた。こんなことはもちろん初体験である。
 その後の闘病体験を書き綴るのはよすが、こんな調子で次から次へと衝撃と難問が襲い掛かってきた。治療計画に異存がなければ治療スケジュールを決めたいと言うことになって、2月の初めに胃癌、術後が順調であれば4月からリンパ腫の治療に入ることになった。 クラブやカルチャーをどうするか、妻をどうするか、息子たちにはどう対応させるか、この一年放置すると竹薮になってしまう庭をどうするか、切除以外の治療法はどうなのか、R-CHOP以外の治療法ってどんな方法があるのか、5年生存率ってなんだ、治療が長引いたらどうするか、寛解とか完治ってどういうことか、副作用の苦しさはどのくらいか、治療費の準備をしなくては。頭の中は混乱し始める。
 ふと思い出した。研究開発業務に携わっていた現役時代、問題の質こそ違うが次々と問題が発覚して、それを突破しなくてはならない日々があったことを。その頃はたしか「忙しい、忙しい」と連発していたような気がする。仲間には「ここ一番というときに頑張らないでどうする」と、偉そうに言ったものだ。そうだ、私の今のこの事態はその時が再来したのだと思えるようになった。かくして眠れない3日間ですっかり疲れ果てた体に、じんわりと平常心と挑戦心とが生まれてきたようだった。 



  「北九州市立美術館からの眺め」 2014.11スケッチ

 6月下旬、当初の予定通りの治療で寛解に達したことを告げられ、7月から普通の生活に戻った。庭の手入れなど始めるが、刈り込み挟みを30分もカチャカチャやってると腕に力が入らなくなって、すぐ休憩してしまう始末だった。しかし、生きてる実感が湧いてきて嬉しくて嬉しくて眼が潤んだ。
 



ギャラリーNON (74) 花のように

2014年10月30日 | 随筆
秋の只中となった。制作の意欲は盛り上がってきているが、どことなく心の整理が付かず、苛立たしさも混じる。
 you tubeを開いて歌謡曲など拾っていると、「花のように 鳥のように」という阿久 悠の作詞した歌があった。

 そこにあるから追いかけて
 行けば儚い逃げ水の
 それが幸せあるよでなくて
 だけど夢みる願かける
 花のように鳥のように
 世の中に生まれたら一途に
 あるがままの生き方が
        幸せに近い

 “逃げ水”という言葉、久しぶりに聞いたような気がする。この言葉だけで絵が浮かぶ。水彩画が似合うモチーフかもしれない。“幸せに近い”という言葉も絶妙だ。流石、阿久 悠さんは詩人だ。

 しばらく花の絵を描いていない。久しぶりに描いてみるかと思い立って、花屋に走った。大輪のガーベラが眼に留まった。スケッチしてみるが面白くない。ガーベラは茎が長くて縦にしないといけないのだが、画面の中では横向きに並べた構図にしたら何とか絵になりそうに思った。




ギャラリーNON(番外) HELP

2014年07月31日 | 随筆
 妻の親友が困って訊ねて来られた。
 娘婿が心臓を患って、長い間臓器提供者を待っていたが、このほど提供者が見つかり移植手術を受けた。手術は成功し、自宅療養の見通しがついたとのこと。家族の喜びははかり知れないほど大きなものであろう。
 ところが、自宅の環境を整備する必要が有り、その一条件にペットを飼ってはいけないのだそうだ。かわいいミニダックスフンドが二匹写った里親探しのチラシをつくって我が家に持ってこられた。
 つい今の今まで、私の入院や療養で大変お世話になった方の困り顔を見ていると、何とかならないかと思うのだが、私自身、無菌室に入って治療を受けた身であって、どうにもならない。
もし、この記事をみて、里親に成ってくださる方がおられたら、助けてあげて欲しい。



ギャラリーNON (73) 弁慶の刀狩り

2014年07月27日 | 随筆
 治療終了した直後、地元の若松美術協会の会員展の知らせが来て、出品規定が送られてきた。復帰第一作はなんとしようか。しばし考えた末、昨年の暮れにスケッチした蓮池を作品にしようと決めた。
 睦月、卯月、弥生と始まって神無月までの10点を昨年12月の個展に出品したが、あと霜月と師走がない。なぜこんな形の連作をしたのか自分でもはっきりしないのだが、ただ、同じモチーフを何度も描いてみることはやってみたかった。結果として、M50号という大型で、全て縦形構図をとったが、同じ風景の切り取りはせず、描く月を変えた。“それがどうした”と言われてもしかたないが、自分にとってはもう対象を描き取ることに飽きていつの間にかイメージを優先した絵になってしまったことが嬉しくて仕方ない。脳裏に浮かんだものが描ける開放感ということだろう。その作品は「葉月」だ。去年の12月の個展では、その作品の前で何人かの方が足を留めてくれた。
 弁慶の刀狩ではないが、「師走」ができたのであと一点、「霜月」ができると、12ヶ月の作品が揃う。この次の作品は是非「霜月」にしたい。そうしたら、義経のような人物か、それに代わる素晴らしい出会いがあるかもしれない。
 「師走」2014年6月作
 静かな年の暮れ、宵の明星と月が二重奏を演じている。

ギャラリーNON(72) 大切に生きよう

2014年07月10日 | 随筆
 今年の正月は辛くて長い時間を過ごした。昨暮れのクリスマスの日に胃カメラ検査をした。12月初めの人間ドックの胃透視で、入り口の天井の粘膜に異状があるから胃カメラで精査するよう勧められたからだ。胃カメラの医師は、カメラを押し込みながら入り口の天井の粘膜異状などないよと言って、さらに押し込んで行くと「うっ」と声を発した。胃の出口近くに、見た目に癌と分かる病変があったらしいのだ。丁度正月休みにかかるため、生検の結果は1月6日になると言う。結果がはっきりする前に妻や家族に言ってしまうのは、みんなの休みを台無しにしてしまうと思って、一人で苦しむことにした。夜はまあまあ眠ったが、孫たちが遊んでいるのを見るにつけ切なくなって、間違いであってくれと願いながら過ごした。その時間はとても長かった。
1月6日になった。覚悟をして医者の前に腰掛けた。「やっぱり癌でした。胃の中ほどにポリープがあり、それも癌でしたので、おそらく胃切除手術となるでしょう。」と告知された。「それからもう一つ、12指腸の壁にリンパ腫のような病変が認められたので、病院へ移って精密な検査を受けてください。」と言われた。私は何を言われたのか質問することもしないで、ボーっとして聞いていた。
 早速、胃カメラの動画記録カードを預かって病院へ行った。2日かけて手術前の全身検査がなされ、1月13日、Dr.Hの前に腰掛けた。そして告げられた。「胃癌と十二指腸悪性リンパ腫です。」と。今まで入院や手術をしたことないので、一気に二つの重大な病名を告知されたことは、大変なショックだった。家に帰って、全く無知であったリンパ腫について調べてみると、大変な病気で、いわゆる血液の癌だった。調べ疲れて眠ってしまうが2時間くらいで目覚め、それから朝まで色々な思い巡らしが始まる。そんな夜が三日続き、病人になったように疲れた。疲れたらもう病気について詳しく知る意欲が薄れ、だんだんと、もう少し生きるためにはどうしたらよいかを知りたくなって行った。
 告知から一週間経ち、医者と治療計画について決める時が来た。たちまち予定が確定し、私はまな板の上のひとになった。福岡に暮らしている子どもたちも、次第にことの重大さが分かってきたのか、いろいろ気遣ってくれ始め、水彩画教室やカルチャー教室も、長期休講を配慮してくれたり、何よりも復帰を待つと言ってくれたことは励みになる言葉だった。美術協会の仕事も事務局や役員がすべてカバーしてくれた。
 2月3日の胃の切除手術、4月1日から三ヶ月の予定でリンパ腫の化学療法がなされた。そして、計画通りの治療が終了し、もう癌は消えたかどうかの判定日、6月18日が来た。何度か座ったDr.の傍の丸椅子にまた座った。検査医の検査中のコメントで良い結果だろうとは予測されたが、Dr.の口から聞くまでは・・・。「寛解が得られましたよ」と笑顔で告げてくれた。これからの人生、大切に生きようと痛切に思った。
 

ギャラリーNON(71)  絵画の飾り場所

2014年02月27日 | 随筆
  手術後4日目、体は一日も早く動かした方がいいと言われて点滴のキャスターを引き回しながら廊下を歩く。廊下の壁のところどころに絵が架けてある。印象深い作品もあるが、ほとんどは患者さんが入院中に描いた色紙や写真、水墨画、書、俳句・俳画のようなものである。病院が患者さんから頂いた作品を選んで掛けるわけにも行かなかったのだろう、所狭しと並べてある。もちろん、同じ壁に病院としての案内、注目されている治療法の説明、病院の基本理念、注意事項なども掲示されている。
  私はふと思った。病院にはディスプレイのセンスが作動していないのではないか。病院の雰囲気作りをするのはどこなんだろう。患者と接する看護師でもない。もちろん、外来・入院病棟を休みなく立ち回る医師たちでもないだろう。検査医、設備保全、清掃の方たちは時間も権限もなさそう。やはり総務的な部署に適した仕事だなと思って、何処にそんな部署があるのか見回すが見当たらない。入退院の手続きや、会計窓口は総務系の仕事に見えるけれども、本当にこの病院に所属している職員とは思えない向きもある。病院の全病棟の略図を調べると管理棟と言うのがあるが、ここにどういった部署が入っているのか記載がない。ここは、患者には直接係わりがないので表記していないのであろう。
  掲示や展示は病院発の意思によって成されるものではないだろうか。基本理念を実践するために日々どのような医療活動をしているかをディスプレイして欲しいと思うが、HPを参照してもそこまでは示されていない。絵画は鑑賞するものであるが、音楽も台詞もなく、画面は静止して動かない。しかし、その前に立つとその人なりの思い巡らしが始まり、しばらくの間絵に誘導された空間に立たせる力がある。だから、せめて掲示物のなかに混在させないディスプレイをして欲しいと願う。  
  
  

ギャラリーNON(70) 小春日和

2014年01月29日 | 随筆
 73歳にして病を得た。
健康を自慢してきたし、今も体に何の異常はないが大変な病気なのだと思うと、
見掛け倒しのこの体をなんてざまだと叩きながら涙してしまう。
60年前のことだが、母の胃癌は血を吐いてようやく病気に気付き手遅れだった。
医学の進歩を意味するこの無症状での病の発見を喜ばなくてはいけないとも思う。

 それにしてもここ数日、小春を感じる日が続く。
我が家は土に囲まれており、雑草が陽を浴びてみるみる伸びているように感じる。
このままほおっておくと、夏には人の背丈になる草もあり、何とかしなくてはいけない。
しかし、もう時間がない。明日の午前中に入院しなくてはならない。

 除草剤を通り道だけでもと噴霧した。
突如、ポケットの携帯が鳴ってすぐ止んだ。
ショートメールが入ったようだ。
「雑念を払ってファイト!」とあった。
ありがたいものである。
今日のこの日和のおかげで雑念はなかったが、自然のありがたさや、美しさや平穏を感じる。
明日から闘病だ。

ギャラリーNON(69) その時と今と

2013年10月12日 | 随筆
  NHKのサポートする明日へブログでは、3・11被災地から生のお話が聞ける。宮城県東松島市牛網地区からは専業農家の熱海和美さんからの便りがある。津波被害で離農する農家が多く、市に買ってもらうために更地になり、そのため冬の冷たい風が吹き抜け、夏の暑さをしのぐ木陰がなく、離農で広がる1km四方の圃場を少ない人手で管理しなくてはならない日々を語っておられます。
  そんな中、一緒に生きてきた庭のケヤキが今年も葉をつけ、その木の下は気持ちのよい風が吹き抜けると。ここは、おばあちゃんが子守りをしながら編み物をしていたところ、「あの時と今と、木の下にいれば何も変わりません」「木は人と一緒に生きている身近な存在で、精神的にも現実てきにも頼りになる存在」だと。
  
  「その時と今と」 M50水彩

  
半世紀も前のことだが、私の姉の嫁ぎ先が農家で中学生時代に居候したことがある。手伝いは草刈が主で、時期には、田に牛小屋の堆肥を撒いたり、畦づくりや、稲の苗束を田に配ったり、、稲刈り、稲こぎ、臼引きの手伝いのしんどかった思い出がある。
今は休日しか農業の時間がとれないサラリーマンの息子と、若くして主人を亡くした娘とが、無農薬で植えるだけの、言ってみれば“やりっぱなし方式”で細々と米をつくっている。それでも伝来の土の良さでそこそこの収量を保っている。そんなわけで田圃の土の大切さは知っている。このブログには、津波の被害を受けた田圃の土は、瓦礫と一緒に表土が剥ぎ取られ、素性の知れない土が入れられ、2年つくっても収量があがらないと。これだけ聞いただけで気が遠くなるような苦労が想像される。

   山や川、田や畑、そして海。自然は繊細な作用をもたらすが、経済感覚だけでは左右されないどっしりとした大きな力を本来もっている。そしてそんな自然の中で暮らす人は、津波がさらっていった桜の木を探し、植え戻し、今までと同じように暮らそうとする。熱海和美さんの近況報告からは、生来の自然と共存する人間らしい生活を感じる。