ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(47)-後藤愛彦(その1)-

2010年09月26日 | 随筆
 1978年4月11日~20日 「後藤愛彦 個展」が催された。げってんさんの企画である。案内状の文面をそのまま転載しよう。
 「七年ぶりに後藤先生の個展を催します。アイヒコの無限の境地に特に貴方をご招待して堪能頂くよう、ご案内申しあげます。」
 私が光安鐵男をげってんと言うのは、これはと思った作家には、画廊企画にして全ての費用を自分持ちで展覧会を開いたことが、理由のひとつである。
今回が七年ぶりなら、画廊開設6年目のときに最初の後藤愛彦展を開いたことになる。画廊開設3年目には、木内 廣(国画会会員)展を開いている。いづれも奥深い作家との交流があったことはマルミツ画廊の礎となったに違いない。
 国際児童年に当たる翌1979年、光安は後藤画伯の心意気をくみとってチャリティー展を企画した。西日本新聞社に主催をお願いし、若松の画材店、野中響美堂とマルミツ画廊が協賛する形にして「人間・・・そして愛」と銘打ったチャリティー展を催した。もし、純益がでたら心身障害児療育施設「やすらぎ荘」(朝倉郡夜須町)へ寄付するというのが画伯の心意気である。ご自身では「貧者の一灯」だといって愛彦相場の4ないし5分の1で買ってもらうというのだ。果たして反響はどうだったのか。

 後藤画伯は旧制豊国中学(門司)を出て、八幡製鉄で数年間製図工をしただけで、後はキャンパス相手の油絵人生を送ってきた。1905年、東京は早稲田戸塚の生まれ。幼いころ若松にきて、その後八幡に移り、28歳で上京して絵かき修行。戦後は再び八幡に戻ってきてアトリエを構えた。八幡を本拠地にしながらも、フランス・アフリカ・東南アジアなどにふらりと出かけて、しばらくは住みつくといった人生でもあった。
 「ある人が、私を“無頼派”と言ったが、まあ、そんなものですよ」
とご本人は屈託がない。
 気ままに生きてきた70余年、東京に住めば東京が“ふるさと”になり、パリ、ビルマ、アルジェ、トルコなど外国旅行をしても、すぐに友人知己が出来て
 「いつごろから、ここにお住まいですか?」
と先方から問われることも一度ならず。もって生れたコスモポリタン的な後藤画伯の作品は、好んで太陽と海をモチーフにする。数年前フランスから帰国した画伯を目指して、中央から画商たちが殺到したほど、後藤作品には根強い人気がある。

ギャラリーNON(49) スケッチは楽しい(その2)

2010年09月13日 | 随筆
 何年通っても太陽がとろけて水平線に落ちて行く瞬間に立ち会うことが出来ないと言うカメラの男性は、柏原漁港の近くにお住まいなので、夕刻になればこの同じ場所にカメラを据えて時を過ごすとのこと。
「ファインダーを覗いてみますか。」
と言われるままに覗いてみると、右下に磯が配置され、左には遠くに突き出た半島が配置された構図。中央にはまだ水平線に落ちるまでは間がある太陽が真っ赤に輝いていた。
「いつもこの場所でこの構図で据えるのですか。」
「そう、こだわってる。芦屋の日没でなければいけないと決めている。」
「なるほど。」
「沈む太陽が大きくなって、それをバックにカモメが入ってくれるのを待っているんだ。」
「わー、そりゃあ大変だ。」
と悲鳴のような感嘆の声で応えた。続けて、
「絵の場合は、自分でカモメを描き込むことができるけど、写真はそうはいかないのですね。」
カメラの男性は、言われて気付いたように
「絵はそうなんだ。」
と感心されてしまった。

急に調子を変えて
「あんた、名刺もっとるね。」
と問われ
「持ってますよ」
と応えると、自分の名刺を持ってくるために、少し離れた駐車場へ行ってしまった。
フォト575の女性と二人で無言でいると、女性のほうから、
「この間来たとき、浚渫作業船が港に入ってましてね、もうすっかり暗くなった入り江から、あかあかと照明を点けて出港し始めたんです。とてもきれいな風景だったので、パシャパシャとシャッターを押し続けました。」
「カメラを触るようになって、人生感さえも変わったような気がするくらい何でもよく見つめるようになりました。」
立て続けに話しかけてくる。

名刺を持って戻ってきた。照明灯が少なくて顔もよく分からない中で名刺交換となった。フォト575の女性は、名刺を持っていなかったが、名前・住所・電話番号それにペンネームまで紙に書いてくれた。
「最近、入選するようになったんですよ。NHKフォト575を開いて、このペンネームで検索して下されば私の俳句と写真がでてきます。見てくださいね。」
とにっこり。
 又会う機会があればと言って3人は別れた。スケッチは楽しい。


ギャラリーNON(48) スケッチは楽しい(その1)

2010年09月11日 | 随筆
 もう何度か通ったスケッチポイント、芦屋町の柏原漁港。日没が近づいてきた頃、静かな入り江の一角に投げ捨てられたいくつかの魚の切り身に、たくさんの魚が集まり、きれいな波紋が出来ているのを眺めていた。そのうちカモメが寄ってきて右左に飛び交いながら、ときどき波紋の上をすれすれに飛んで行く。カモメが魚を捕まえる瞬間を目の前わずか5mのところで見られるかもしれない。サスペンスを感じながら凝視していると、少し離れたところから船のエンジン音が聞こえ始めた。入り江の中は小さな音だったのが、入り江の出入り口にさしかかると大きな音に変わって舳先が掻き分けてできる浪が夕日に映えて美しく見えた。今から出かけるのはイカつり船か。カメラを取り出しその瞬間を撮っておこうとレンズを船の方に向けたその時、カモメが目の前に着水してすぐさま飛び立っていった。あれだけハラハラしながら魚を捕獲する瞬間を待ち構えていたのに見逃してしまったのだ。
 太陽は帯状に拡がる雲をそして海をも赤く染め始めた。よくある夕日の風景だ。そうは思いながらも美しい時間の魅力に誘われて防波堤に近づいていくと、一人の男性が三脚に望遠レンズのついたカメラを据えて夕日の沈むのを待ち構えていた。歳格好は私とほぼ同じくらい。
「絶好のチャンスですね。」
と声をかけると、
「いやー、今日は駄目だと思うよ。水平線に接して雲がかかっているから、沈み始める少し前から太陽はその雲に隠れると思うよ。」
「なにしろ、太陽が水平線に接する直前に太陽の下部がとろけて水平線に垂れ下がる瞬間を、何年間もこの場所にきて待っているから分かるんだよ。」
話しているうちにも太陽はその雲に隠れ始めた。
「あなたの言われる通りですね。」
と感心して応えた。、
「あなたもカメラをやるのかね。」
と私の手に小さなデジカメが握られているのを見て尋ねられた。
「私は絵を描くのが好きなので、絵になる対象を捜してうろうろしています。カメラはスケッチを補うために持ち歩いているんです。」
そう言っているうちに日は沈み、高い空の明るさだけになった。
そこへ一人の女性が近づいて来て、
「漁火を撮りたいが、最近はなかなか沖の漁火が見えなくて」
とカメラの男性に話しかけた。この人も同い年に見える。
「漁火なら皿倉山の頂上から構えるほうがいいよ。最近のイカ釣りは昔よりずっと沖の方に出るから、港からじゃあ見えないよ。」
「そうなんですか。私は最近NHKのフォト575に写真や俳句を投稿してるんです。」
次第に空の明るさは衰え始めたが、見知らぬ3人は、もう少し話がしたくなった。