ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(49)-後藤愛彦(その3)-

2010年10月09日 | 随筆
 後藤愛彦(その2)を投稿し終わったとき、日本に明るいニュースが入ってきた。スエーデン王立アカデミーはノーベル化学賞に鈴木 章(北海道大学名誉教授80歳)と根岸英一(米パデュー大学特別教授75歳)とリチャード・ヘック(デラウエア大学名誉教授79歳)の3氏に授与すると発表したのだ。その研究内容は炭素と炭素を結合させる触媒反応。筆者の現役時代は効率よく炭素と炭素を触媒反応で切り離す(分解)仕事を生業としてきただけに、同じ頃、逆の結合させる研究をしておられたのだと思うと親近感さえ覚える。
 鈴木博士の受賞の感想スピーチがいい。
 「資源のない日本は、人と人との努力によって生み出す知識でしか生きていけない」
 蓮舫さんの「なぜ一番でなければならないのですか」という質問に、このスピーチは本質的な回答をしていると思い、胸を熱くした。

 資源の乏しい日本のことを考えた後藤画伯の辿り着いていた思いもこれと同じではなかろうか。

 後藤愛彦画伯は86歳(1991年)で人生を終えられた。制作のホームグランドとなっていた北九州八幡東区には、多数の遺作が保管されているが、没後19年経った今も静かに眠っている。その中から、ご子息の許しを得て、1950年代、60年代、70年代、80年代の人物画を選って10点の作品をマルミツ画廊に預からせていただいた。今一度、後藤画伯の言われたことを噛み締めてみたいと思ったからだ。「人と人との努力で生み出す知識で生きるしかない日本」といった鈴木博士、「日本の資源は人間しかない」と言った後藤画伯。捨てたものではない日本を感じる。

 

げってん(48)-後藤愛彦(その2)ー

2010年10月05日 | 随筆
 初日の午前10時、後藤画伯が画廊に到着する前に飛び込んで3点を購入した県立高校教諭。二日間で9点を購入した愛彦親衛隊。「嫁ぐ娘にプレゼントしようと思って」と「アントニーの街の中」など2点を購入した婦人。愛彦先生の絵が私の手の届く値段で買えて、それでチャリティーに参加したことになるのならと言う人。様々な思いで後藤画伯とマルミツ画廊の心意気にファンが集まった。 会場は次第に若い女性に彩られ、そこに長髪を後ろで束ね、ブルージーンズに身を包んだ後藤画伯があらわれると、男性客の居場所はなくなる。「先生だからできることと言えるが、絵描きにもこのような社会還元法があることを教えてくれた」と言って男は帰る。
 フランス、トルコ、アフリカでものにした作品が中心で、ゼロ号から8号の68点を投げ出したチャリティー展は、日に日に伝播して50点が売れた。
 
 5年前、サワラ砂漠を旅したとき、「日本の資源とは何だろう」と考え始めたという。それから「日本の資源を求めて」と、後藤さんなりの思索の旅が続く。その結論が「人間しかない」だった。「それには、愛と信頼で育てる以外にはないではないか」と強調する。そして今回の展覧会を「人間・・・そして愛」とし、その行動を「貧者の一灯」と表現した。
 「私みたいに、やりたいことをやってきた絵描きが、世のために出来る事はこのくらいのものです」

 八幡西区黒崎の繁華街の真ん中のキャバレーが空き家になり、そこをアトリエにして大作に挑む後藤画伯の世の中の見つめ方は、ただ今現在起こっている尖閣諸島やレアアースの問題の本質的な解決法を示唆している。いままで必要に迫られていなかった産出国は日本に快く資源を譲ってくれていたが、時代が変わり産出国自身が必要になったので、いままでのように快く譲ってくれなくなったのだ。日本にはさほどの天然資源はなく、人間だけが資源だとする人は多く、後藤画伯の考え方に通ずる。

 西日本新聞の社長はつぎのような感謝のDMを発信した。
「後藤画伯の心意気から始まった今回のチャリティー展は、大成功だった。純益をやすらぎ荘に寄付させてもらった。西日本新聞は郷土に密着して、真実の報道と共に、社会福祉事業に寄与するつもりであるから、皆さんの支援に感謝する。」
 谷 伍平 北九州市長も後藤画伯に感謝の祝電を打った。
 マルミツ画廊主の光安は、こう振り返った。
 「人口9万の若松でこれだけの反応。広範囲からのお客さんがみえられた。それはいかにも先生らしく、媚がない作品ばかりだったからでしょう。画伯の油絵人生のメモ帳ばかり出品されたようでした。」