ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その9)

2007年05月21日 | 随筆
  1968年、1969年、1973年、1974年、1976年とマルミツ画廊での個展の記録があるその人は、谷川義和さん(現75歳)。八幡製鉄の朱画会で腕を磨き、1951年ころから出展活動を始め、市展、県展、西日本展、中央展(独立展)と歩を進めた。力漲っていた1961年、1962年の県展では二年連続で受賞し、大賞を受賞した作品、「結合の進化」は当時の絵かき仲間の目に焼付いている筈である。 しかし、谷川さんは家業の造船所を継がなければならなくなり、八幡製鉄を退社、若松に移り住み、若松の谷川造船所の社長業で忙しくなる。だから、文頭のマルミツ画廊での個展には新作だけを並べることは困難だった。にも拘らず昔の絵描き仲間は洞海湾の渡船に乗って若松の画廊へやってきた。社長になったアーチストは、そんな仲間との画談義がなによりの安らぎだった。そして、飲んで裸踊りをする絵描きたちと、これをまとめる磊落(らいらく)陽気な谷川さんの人脈パイプを最大限に利用したのは画廊主だった。
 谷川さんは、後に、自分の経営する造船所の近くで、岩手県・盛岡発、北海道、青森、秋田、東京、大阪、広島経由で北九州に入ってきた放浪の人、長谷川健治と出会う。そして画廊主と谷川さんとこの放浪人の3人が素晴らしいドラマを演じることになる。

 1977年2月、長谷川健治油絵展が催された。
 谷川さんは、
 「初めて彼と会ったと時、何かある・・・と感じた。一見、長谷川利行(画家1940年没)を思わせる風貌の彼、ユニークな画法で熱っぽい感情は私を魅了させた。そんな彼の今後の活躍を期待してやまない。」
 と紹介しています。そして長谷川さん本人は、
 「牛をモチーフにした作品を中心に並べてみました。これを契機に20年の空白を作画活動で塗りこめてゆきたいと思っています。」
 としるしている。
 中学時代に絵をはじめ、釜石高校を卒業してから釜石の製鉄会社に就職、かたわら出品活動を始めていたが酒の失敗で離職、以後、北から南への放浪生活を始める。北九州小倉に入った頃は30歳半ばになってた。彼は相変わらず飲んだくれ、警察の世話になり、しまいに精神病院でアル中の治療となる。退院後の仕事先は若松のスクラップ業をしている梁川商店だった。そこでは牛50頭、ニワトリ30羽、犬7匹、アヒル2羽、ウサギ2羽、オウムとカメの世話。谷川さんの勧めで描き始めた絵は純粋な愛に溢れた牛や犬たちである。二年間かけて描きあげたときは40歳だった。
 この展覧会はひっきりなしの来廊者を呼ぶことになった。私もその一人だった。牛の目の愛らしさは長谷川健治そのものと私は感じた。しけた日の北港・船留め風景は今も私の目に焼付いており、大体の構図は目を閉じれば今でも模すことができる。
 この放浪人とげってん人が心通わないはずはない。画廊主は手を尽くして長谷川健治の実家に個展の案内状を送った。返って来た手紙は音信不通だった姉からのもの。その末尾には、
 「さすらいし絵筆に春のめぐりきて弟またず逝きし父母」
とあった。なんとしたことだ、親の死も知らず放浪していたのだ。

(この文章の一部は西日本新聞掲載の「ふり返ると四半世紀」を引用しています)