ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その7)

2007年05月05日 | 随筆
 1970年10月画廊開設5周年を記念してグループ北斗展が行われた。
 北斗は新日鉄八幡製鉄所と同八幡化学の絵画グループから選抜されたメンバーの集まりである。
 村田東作、星野順一、首藤末雄、寺田一男、平田逸治、米田和美、佐野正隆、円福清隆、木浦寛治、原田靖雄、吉田邑、谷川義和」らの面々である。村田さんは北九州美術家連盟の会長で、地方画壇の実力者です。
 開設5周年の祝いの会は、この北斗展の面々の他に、遠方や地元の絵かきさん、それに画廊の支持者が集まり、料亭「にしき」で行われた。その席で、 村田さんは画廊主らしくなった光安鐵男に頼んだ。
 「若いころ、一緒に絵を描いた仲間が若松の自宅で闘病生活をしています。彼が生きているうちに、ぜひ一度個展を開いてやってください。古い絵だったら持っているはずです」
 数日後、肺結核でふせっている森鉄蔵さんを訪ねた。
 「毎朝、私には大変な『行』があるとですよ」
といって、肺にたまった水を一時間かけて洗面器に吐き出す。
そんな寂しそうな顔を見て、個展を勧めるのは残酷な気がしたが、勇気を出して切り出した。
 「先生の手は一切煩わしません。絵だけお貸し下さい」
弱々しい小鳥の目のような眼差しが一瞬キラリと輝いた。
 「ふるーい絵は、見せたくなかですよ・・・。しばらく待ってくれませんか」
という返事。
 一年後の1971年11月、森鉄蔵さん満71歳の初個展が開かれた。なにがなんでも絵を描きたい一心がクレパス画を思いつかせ、作品は基本を崩さない朴訥さが滲みでており、その情念が見る人の胸を打ったと記録がある。。
 来客の一人ひとりを10日間、終日画廊で相手をします。健康な人でも個展は疲れるものですが、日に日に元気になっていくようだったと光安鐵男は述懐している。
 森鉄蔵さんは小倉師範の柔道部出身、卒業して最初に就職したのが八幡高等小学校、まさに体育系の巨体の持ち主、しかし意外なことに図工主任を命ぜられます。それならと文部省検定試験で美術教師の資格を取るため、上野美術学校をでた安藤義茂先生の隣の家に引越し、指導を受け始めます。同先生に教えを請う仲間が自然に増え始めたなかに村田東作さん、船越達雄さんらがいた訳です。
 森鉄蔵個展はその後八年間続き、さらに81歳まで生きられたそうです。

(この文章の一部は1990年に西日本新聞連載の「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)