goo

40 生命-道具、ひとつながりの関係性

テクノ=ナルキッソス/フェティシズム
 からくりという言葉に込められたもうひとつ、つくりだされたモノそのものに対して向けられた、親しみ、愛情、楽しみといった感情。それは“技術”に対する愛着といえるが、マーシャル・マクルーハンが『感覚麻痺を起こしたナルキッソス』と呼び、デリック・ドゥ・ケルコフが『テクノ・フェティシズム』と呼ぶ*01技術に対する“極端な執着心”とはそれはまた違うものである。
 マクルーハンは、車輪は足の延長であり、本は目の延長であり、衣服は皮膚の延長であり、電気回路は中枢神経系の延長である*02といい、人間のいずれかの能力―心的または肉体的能力の延長として人間はテクノロジーを生み出したという。さまざまなテクノロジーが何かの能力を広げてくれる度、生身の身体が持つ限界を超えさせてくれる度に、我々は自分の身体が増強・拡張されたことを実感する。我々はできるだけ最新機能の付いた機械をほしがる。それはすべての機能を活用したいからではなく、機能がそろわないことには、自分が不具であるような、十分でない存在のように感じられるからだとケルコフ*01はいう。
 すなわちテクノロジーは、拡張された自分自身であり、それに対する愛着とは、自己愛に通じる執着心であるというのだ。これらの主張の根底にあるものは、テクノロジーはあくまで、つくりだしたヒトそのものであり、ヒトから外化(拡張)しながら再びそのヒトに戻ってくる(同化する)ものだ、ということだ。


ヒトの“好み”に染め上げた“モノ”

生命と非生命をわけへだてない伝統
 これに対し“からくり”の中に込められたそれは、テクノロジーはつくりだしたヒトとは別のものだ、という感覚ではないか。つくりだされたものは、つくりだしたものとは違う性質をもち、それ自体がヒトとは違う命をもつ。そこには自然のなかのあらゆる事象・事物に命がある、あるいは神が宿しているという日本のアニミズム(多神教)的伝統と共通した感覚がある。
 日本には、たとえば箸供養のように常日頃利用する道具の霊を祀り、供養する伝統行事がある。そこでは生きていくために食するあらゆる生命と、その食を提供する自然に対する畏敬と感謝の念を、その食のために利用する道具に代表させて祀り、供養するという、生命と自然と道具とがひとつながりになった関係性がある。ここには生命と非生命、つくりだしたものとつくりだされたものをわけへだてない伝統がある。

多神教のテクノロジー
 中沢新一*03はそうした日本の伝統的マニュファクチュアを異質領域の間を、次々と接続していくインターフェイスのつながりとしてとらえた。異質なものの異質性を保ったまま、お互いの間の適切なインターフェイス=接続様式を見いだす。一方的に自己の論理を他方に押し付け、自然を制圧し、変化させようとするのではなく、自然の側からの反応や手応えによって、人間側を変化させる。そうした人間と自然の対称的な関係、対話の様式としてのテクノロジーである。中沢はそれを多神教のテクノロジーと呼び、単一の原理に無理やり従わせ均質にする、すなわち従属させるテクノロジーを一神教のテクノロジーと呼んだ。
todaeiji -weblog

*01:ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ/NTT出版 1999.07.05
*02:メディアはマッサージである/マーシャル・マクルーハン他/河出書房新書 1995.11.20(原著1967)
*03:精霊の王/中沢新一/2003.11.20 講談社


ポストメディア論―結合知に向けて
デリック ドゥ・ケルコフ
NTT出版

このアイテムの詳細を見る
メディアはマッサージである
マーシャル マクルーハン,クエンティン フィオーレ
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
精霊の王
中沢 新一
講談社

このアイテムの詳細を見る

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )