「磯見川」に向かって下ります。
来た道を振り返る。けっこうな急坂です。
左手小高い丘の上に、
「日本ペット診療所」。
右手遠くに海。
かつてはもっと向こうに陸地が続いていたのでしょうね。
ソバ畑。白い花が咲いています。
「磯見橋」。
河口付近に「通蓮洞」がありました。
・・・
今回ご紹介する「通蓮洞」は、「磯見川」の河口付近にある「洞窟(どうくつ)」のことで、「名所」として賑わい、「通漣洞」、「通漣坊」、「潮漣洞」とも読み書きしていました。
「千葉縣海上郡誌」の「潮漣洞」の「項」には、
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、一名「通漣坊」ともいう。
潮汐(ちょうせき)沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随(したがって)って一洞を生ず。
世俗之(これ)を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出(こしゅつ)するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象(けんしょう)となし、夏季観客常に絶えずという。」
と記され、「通蓮洞」の「項」には、
「小浜磯見川の河口に「通漣洞」あり。
往昔(おうせき)「安倍晴明(あべのせいめい)」、垣根長者の娘「延命姫」の慕(した)うところとなる。
「晴明」之(これ)を厭(きら)い、夜に乗じて逃れ去る。
姫追慕、踪跡(そうせき)を尋ねて此(ここ)に至る。
「晴明」履(くつ)を岩上に残し、去て「真福寺」に入る。
姫至り之を見て、「晴明」既に死せりとなし、身を踊らして怒涛(どとう)の淵に投ず。
空洞此(この)時より生じ、随(したがっ)て破るれば随て成る。
居民此処(ここ)を称して「延命が淵」と云う。」
と記されています。
要約しますと「陰陽師(おんみょうじ)」の「安倍晴明」と「夫婦」になった「長者」の「娘」、「延命姫」は、醜い顔の「痣(あざ)」のために「晴明」に嫌われ、逃げられてしまいます。
後を追った「延命姫」が「通蓮洞」のところに行ってみると、そこには「晴明」の「衣類」と「草鞋(わらじ)」が。
絶望した「姫」は「晴明」を慕って「海」に「身」を投げてしまいました。
しかし「晴明」は死んでおらず、「姫」を騙したという「悲しい物語」です。
上記のような「延命姫伝説」の「舞台」でもある「通蓮洞」は、「旭市」との境にあり、「小浜側」の「男竃」は、「小浜通蓮洞」、「上永井側」の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていて、「男竃」は明治30年代に消滅し、「女竃」は「岩山」の「残骸」が昭和30年代まで見られ、河口の「砂洲(さす)」が広く美しかったそうです。
また「岩」が「潮」を噴き上げる壮観な「景観」は、素晴らしく風光明媚(ふうこうめいび)な場所であったそうです。
現在「通蓮洞」へは「畑」の中の「道」を入った奥にある「空き地」に「車」を停めて、徒歩で「海岸」まで降りていくことになりますが、「通蓮洞」跡へ続く「遊歩道」は現在「立ち入り禁止」となっていています。
「悲しい物語」の「舞台」であり、風光明媚な「観光地」であった「通蓮洞」。
「通蓮洞」に想いを馳せ、「景勝地」「屏風ヶ浦」「刑部岬」にお出かけしてみませんか?
(この項「」HPより)
来た道を振り返る。
今度は上り坂になります(標高55m→4m→55m)。
振り返り、振り返り、上がってくる。
「小浜町」の集落に入ります。
左手の高台にずらり「青面金剛像」「庚申塔」等の石仏。
青面金剛(しょうめんこんごう)神は庚申とも呼ばれる。 中世以降、庚申といえば阿弥陀、山王権現、帝釈天などであったが、江戸時代に至って、6臂[ぴ]の像が盛んに造られた。 その像の足下に、「見ざる・聞かざる・言わざる」の3猿が彫刻されたものが多く、2羽の鶏が、使いとして彫られているものもある。
お昼前、のどかなひととき。
と、右手には風力発電の巨大な風車が。
おうちの森に重なるかのように。