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明治日本の躍進を生んだ人々はいかに育ったのか?(前編)

2022年01月17日 | 日本
古典教育を通じて情(共感)、意(利他)、知(処を得る)のバランスのとれた偉人たちが近代国家を作った。

(根っこ、幹、花の「全人モデル」)
今回の「教育」シリーズの柱としたのは、「全人モデル」というフレームワークです。これは樹木をモデルとして、

   根っこ:共感の「情」
   幹:利他の「意」
   花:処を得るの「知」

として、知情意のバランスのとれた全人教育を目指すべき、という主張です。明治日本の躍進を担った人物として、明治の日本人の10人に1人が読んだ『学問のすすめ』の福沢諭吉、近代日本最初の世界的医学者・北里柴三郎、世界最先端の自動織機を開発した豊田佐吉を例に、それぞれの知情意を紹介しました。

たとえば、福沢諭吉は上海で英国人に侮蔑されている中国人の姿を見て、日本人同胞にはこういう思いをさせたくない、という「共感」の「情」を持ちました。そこから「一身独立して一国独立す」と国民一人一人が独立精神を以て国家の独立を維持しようという利他の「意」を抱き、その結果、『学問のすすめ』という大ベストセラーを出して教育者としての「処を得」ました。

現在、教育というと「知」ばかり着目して、早く花を咲かせるよう詰め込み教育を行っていますが、しっかりした幹なくして、立派な花が咲くはずもなく、また深い太い根っこなしには立派な幹も育ちません。根っこも幹も無視して、ただ花を咲かせようというところに、現代教育の徒花(あだばな)ぶりが見てとれます。

(共感と利他は人間の本能)
利他心とか、世のため人のための志などというと、いかにも古めかしいという批判を受けそうですが、実はそういう考え自体が時代遅れとなっています。現代科学は、人間が共同体の中で助け合って生き延びてきた生物であり、進化の過程で共同体を維持するために、他者との共感や利他心を発達させてきたと考えています。

共感と利他心が人間の本能である以上、これらを無視した知のみの詰め込み教育は人間の本性にそぐわない非人間的なものとなっています。「一流大学に行き一流企業に入るために、しっかり勉強しなさい」と、利己心に訴えるような教育では、子供たちの心の奥底からのエネルギーは出てきません。

それよりも、「世のため人のために尽くせる人間になれるよう、しっかり勉強しなさい」と子供の共感と利他心に訴えるべきです。そして、その根っこと幹を育てるために、古典や偉人伝を読み聞かせたりするのが教育の基本となります。

明治の日本人たちが世界史に残る躍進を実現できたのも、共感の情、利他の志、処を得るの知を育てて、人間の心の奥底からのエネルギーをフルに発揮できたからです。

(なぜ、当時の人々は熱心に学問を求めたのか)
こういう明治日本の人作りの基礎は、江戸時代の寺子屋でできたと考えられます。幕末期には全国で1万6千もの寺子屋がありました。現在の小学校が2万7千校ですから、その6割ほどの数の寺子屋が、人口が現在の1/4ほどしかない時代に作られていたのです。

それらはすべて有志のお師匠さんたちが設立したもので、それだけの寺子屋に子供たちを学ばせようとする親も多かったということです。我々の先人たちの教育意欲、学習意欲には驚かされます。どうしてそれほど教育、学問に対する意欲が高かったのでしょうか。

農村自治での徴税はすべて文書でやりとりされており、読み書きは農民にとっても必要であったこと。また農業技術を解説した「農書」が多数、出版されており、それらを読むことで、出来高を上げることができた、等々の実利的な面がありました。

しかし、それだけでなく、たとえば江戸時代初期の中江藤樹が真心を磨くことを説いた平明な学問が広く農民、商人、職人にまで浸透していったり、中期の石田梅岩が商人としての道を説いた石門心学が広まったりと、当時の学問は、人としての生き方を説くものでした。寺子屋でも、論語の素読で、まずは「仁」「忠恕」など、人としての思いやりを教えました。

花ばかり教えようとする現代教育では、子供たちは勉強の目的も分からないので、学習意欲がでるはずもありません。江戸時代の教育はまずは根っこや幹を育てようとしたのです。人間の本能である共感と利他心を刺激すれば、そこから勉強しようという学習意欲も湧いてきます。

寺子屋の先生をしていた事を系図に残すような人は、周囲からも尊敬され、一族にとっても誇りだったのでしょう。利他の心からボランティアで寺子屋を営むお師匠さんたちの生き方それ自体が、子供たちにも、立派な人間になりたい、そのために勉強したい、という気持ちを奮い立たせたことでしょう。

そう考えると、共感も利他心も教えず、「知」ばかりを詰め込もうとする現代の教育は、子供たちから学問を求める心を奪い、知情意兼ね備えて幸せになる道を閉ざしているのではないでしょうか。

(「教科書の墨汁塗りつぶしを経験した」)
そもそも現代の教育がなぜ共感や利他心を黙殺してしまったのでしょうか。目黒佳子さんが、次のような体験談を語って下さいました。
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大変興味深く拝聴させて頂きました。日本の敗戦は私の小学校5年の夏でした。秋からは教科書の墨汁塗りつぶしを経験した世代です。今日伺ったお話の大半は修身や国語のテキストで既に習っていましたが、私の直ぐ下の世代は黒く塗りつぶされ学んでいません。教育勅語や五箇条の御誓文も禁断の書となりました。

両親はこの二つを書家だった叔母に書いて貰い額に入れて子供部屋の壁に掛けてくれました。そして教育勅語は人間の守るべき道、五箇条の御誓文は民主主義の根元が示されているから「毎日読んでよく吟味せよ」と言われて育ちました。今日のお話を伺い、新しい価値観が怒涛のように襲って来て変形して行く教育環境の中で「よくぞ護ってくれた」と両親に改めて感謝しました。
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「今日伺ったお話の大半は修身や国語のテキストで既に習っていました」というご感想に、ご先祖様たちからの声援をいただいたようで、改めて心強く思いました。
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今でも教育勅語が出てこないというのは、どういう理由からなのか? 少なくとも占領が終了して60年も過ぎている。
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 まことにごもっともなご質問です。共感という根っこ、利他という幹を奪われては、徒花(あだばな)の知しか残されません。根のない知は占領軍の「墨汁塗りつぶし」にやすやすと操られて、「教育者は労働者」というような浅薄な左翼思想に騙されてきました。まずは「墨汁塗りつぶし」を消し去って、共感という根っこ、利他という幹を蘇らせる処から始めなければなりません。

---owari---
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