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男女の役割

2017年07月09日 | 人生

「男女は、本質において平等であっても、役割において違いがある」という認識が根本です。

 

「男女は競い合うものではなく協力し合うものである」ということを知らなくてはなりません。

 

男女は協力し合って生きていかなくてはならないものなのです。女性は女性として尊く、男性は男性として尊く、それぞれの長所を尊敬し合いながら、互いに補完し合って生きていくのが、その原点なのです。男女を同じ物差しで測ってはなりません。

 

特に男性は、責任感というものを通して魂が磨かれていくことになっています。その責任感とは何でしょうか。

 

一つは、「妻や子供を養っていくための経済力を持たなくてはならない」ということであり、経済力の根拠は、「仕事が充分にできる」ということです。もう一つは、「家庭を外敵から守るために、雄々しく戦う」ということです。

 

こういう責任感が、実は男性を伸ばしている力であり、これを取り去ったならば、男性は男性でなくなります。これを男性から取り去ることは、犬に対して「猫になれ」と言うのと、まったく同じことなのです。家庭や社会に対する責任感こそが、男性なるものの魂の出発点なのです。それを阻害するような考え方は、魂を生かす方向の考え方ではありません。

 

それでは、女性なるものの魂の本質は何でしょうか。

 

その根本にあるものは、世界を調和させようとするエネルギーです。この調和のエネルギーが、女性の魂が出している最も大きな力なのです。

 

そして、その出発点は家庭にあります。家庭を調和させることが出発点であり、ここから社会の調和が始まっていくのです。

女性が、「調和」という聖なる使命を捨て去ったとき、放棄したときに、社会や国は、そのピークを過ぎ、下り坂に入ります。

 

断じて、男女の魂に優劣の違いがあるわけではありません。あるのは役割の違いです。家庭のなかで、夫と妻のどちらかがやり遂げた仕事であっても、結果としてできたその事業は共同のものなのです。

 

一例を挙げましょう。ドイツに出た宗教改革家に、マルチン・ルターという人がいます。ルターの生涯がいかほど激しいものであったかということは、みなさんもご存知でしょう。既成の教会の権力と戦って、独り立ち、獅子吼をし、獅子奮迅の活躍をした人です。

 

その外見は鬼気迫るものがありましたが、彼のなかには優しい心がありました。彼は言っています。「このドイツの国をくれると言われても、私は、それよりも、優しい妻がいる家庭を選ぶ」と――。あのルターにして、あの激しいルターにして、家庭の人、愛の人であったのです。

 

「家庭の安らぎこそ、最高の価値である。優しい妻がいる所に私は帰る。それが、私のこの世における仕事のエネルギーの源泉である。国をくれる、世界をくれると言われても、私は要らない。私には優しい妻がいる家庭があればそれでよい。その家庭があるかぎり、私は戦いつづけることができる」

 

このように彼は言ったのです。

 

彼の妻の名を知っている人は少ないでしょう。しかし、彼女の仕事の値打ちは、どうでしょうか。一万人の男性の僧侶たちの仕事より劣るでしょうか。全ヨーロッパの兵隊たちの力より劣るでしょうか。そんなことはありません。あのルターを強くしたのは、妻の優しさであり、愛だったのです。それを、全キリスト教会を変えていくエネルギーとして、ルターは戦っていたのです。彼女の仕事は素晴らしい仕事です。

 

一人の勇者、英雄が出て、世界を支えんとするときに、その勇者を支える女性ありとすれば、この女性たるや、いかなる値打ちを持っているか、分かるでしょうか。ものすごい力です。ものすごい仕事です。大変なものです。

 

ヘラクレスが地球を持ち上げるときに、そのヘラクレスを支えているものがあるとすれば、この支えたるや、絶大なものです。仏の力にも似たものです。

 

女性たちよ、聖なる仕事を捨ててはなりません。それは無名のものかもしれませんが、女性の徳は、そういうところにあるのです。

 

優れた女性たちが自己顕示欲のままに生きていったとき、女性の徳は滅び、消え去っていきます。そこに残るのは、ただ、「一人の人間が、何がしかのことをして死んでいった」という事実だけです。

 

「女性には、仏にも似た大きな力が与えられている」ということを忘れてはならないのです。

 

また、「男性は家庭のなかで模範的な存在でなければならない」ということは、言うまでもありません。外においてだけ素晴らしく、家庭においては素晴らしくない男性であるならば、尊敬に値しません。外なる仕事が内なる犠牲の下に成り立っているならば、尊敬に値するほどの仕事をした人であるとは、とうてい言いがたいのです。

 

強き男性であるからこそ、優しさが溢れてくるのです。強くなければ、真に優しい男性とはなれません。その強さとは、責任感に裏打ちされ、「この世のなかにおいて、みずからの命を燃やさん」とする仕事のなかに発揮される強さでしょう。その強さあってこその優しさであることを忘れてはなりません。

 

男性が優しくなるということは、男性が女性化するということではありません。そんなことではないのです。

 

そして、真に優しき女性とは、勇気ある女性でもあります。夫が、いかなる苦難・困難のなかにあっても、それを支え、励まし、偉業をなさしめるのは、妻の力です。ここで要求されるのは勇気なのです。

 

勇気ある女性こそが、また優しいのです。優しさとは、「弱々しい」「女々しい」ということではありません。優しさとは、逆に人間を強くしていくものです。それを忘れてはなりません。

 

---owari---

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