前掲の鉛筆画に彩色しました。
卯建が煉瓦で積み上げられています。
海野宿の卯建は漆喰だったり板だったりですが、
煉瓦は明治以降のものですからこの卯建も
海野宿に比べたら新しいものです。
それにしても右奥から前に書いたのに反対側に回っても
まだ左側に家が続きます。
本当に奥行きの深い敷地です。
前掲の鉛筆画に彩色しました。
卯建が煉瓦で積み上げられています。
海野宿の卯建は漆喰だったり板だったりですが、
煉瓦は明治以降のものですからこの卯建も
海野宿に比べたら新しいものです。
それにしても右奥から前に書いたのに反対側に回っても
まだ左側に家が続きます。
本当に奥行きの深い敷地です。
レニーとマリーは南フランスに住む友人サージさんの双子のお孫さんです。
私は二人が生まれて20日後に会っています。、
去年はサージさんには会ったのですが、レニーとマリー二は会えませんでした。
今年は北ドイツ方面に行くのでサージさんには会えないとメールしたら、
二人の写真を送ってくれました。
もうすぐ3歳になる可愛い盛りです。
私も来年は是非会いたいと思って居ます。
♪信州信濃の新蕎麦よりも私ぁ貴男の傍が良い♪
と言う歌(中野温泉小唄?)の文句がありますが、
私は目下、炭水化物摂取制限ダイエットを行っている最中なので、
蕎麦処・信州をドライブしていて、美味しそうな蕎麦屋があっても
入れないのです。
タンパク質と脂質はOKなので松井農園に行き焼き肉と野菜を貰いました。
ヤマメの塩焼きも食べました。
炭水化物摂取制限ダイエットは炭水化物以外のものは
何を幾ら食べてもOKなのです。
我が家には津波で傷つき野晒しになっておられた恵比寿様を祀ってあります。
恵比寿様と大黒様は対になって飾られているのが多いから
我が家も恵比寿様もお寂しいのではないかとかねがね気になっていました。
海野宿の骨董屋に、やはりお一人だけの大黒様がおいででした。
この大黒様も買えない値段ではなかったからお連れして、
今は恵比寿様と大黒様を並べてお祀りしています。
大黒様は少し前屈みになっています。
おそらく高い場所にある神棚に祀るのを考えて
下から拝顔した時に良いような角度を考えて作られたのだと思います。
長い間の埃焼けで変色している部分がありますが、敢えて拭き取ったりせずに
時代を纏ったままにしておくことにします。
海野宿の中程に古道具屋がありました。
骨董店と看板には書いてありましたから骨董店と言うことにしましょうか?
そこでいろいろ眺めている内に、本物の鼈甲で出来た髪飾りを見つけました。
値段を聞くと私にも買えそうな値段だったから笄と櫛を何点か買いました。
鼈甲は、今はタイマイが捕獲禁止だから新しいものはとても高価なのです。
鼈甲は熱可逆性と相互接着性を持って居るから、
これで何か作れるのではないかと考えたのです。
店の女主人は私の買いっ振りが良いからと、これはどう?と
桐製の手あぶりを見せてくれました。
この小さな火鉢も手頃な値段だったので即、買うことにしました。
左から3番目の黒い笄はオマケに戴いたものです。
桐の手あぶりには牡丹と桔梗と葡萄の蔓が螺鈿細工で描かれて居ます。
使い込んで、時代も出ていて良い感じです。
冬になったら私も炭を熾して使って見るつもりです。
オマケに貰った笄は黒漆の両端に精緻な貝の螺鈿が施されています。
とても手のこんだ細工です。
髪に挿す時に使いやすいように鞘と芯に分かれるようになっています。
芯を刃物に換えれば護身用にもなったと言う事です。
とても良い買い物をした気分です。
時々眺めて楽しんでいます。
こんな事が切っ掛けになって骨董趣味にのめり込んだりするのでしょうね。
海野宿は栄えていたと見えて、卯建だけではなく鬼瓦も鯱風のがありました。
よく見ると鯱ではなく、獅子が逆立ちしているようです。
沖縄のシーサーを彷彿させます。
この宿場も間口の大きさで課税されたのか、奥が深い敷地です。
江戸時代そのままの街並みですが、電線は地中に、下水道も完備のようです。
カラーのマンホールの蓋は綺麗でした。
海野宿の特徴は家の形がいろんなバリエーションがあることだと思います。
私が以前描いた日光街道の建物は、全部少しずつ違っては居ても
大まかな形は統一が取れていました。
海野宿の家たちはそれぞれが違う形で自己主張しています。
それと卯建の形や材質にも違いが見られます。
おそらくこの宿場にはいろんな商売の家があり、
養蚕農家も有ったりしていたために
使いやすく効率的な家の形を追求していったのでしょう。
卯建には防火壁の役割があったのですが、海野宿の卯建はそれ以外に
富の象徴的な意味合いが強かったのではないでしょうか?
木製の卯建など防火の役割りは期待出来ません。
デザインとしての卯建だったのだと思います。
軒下のツバメの巣です。これもツバメの建造物ですよね!
看板の上にある巣は壊れています。
もしかしたら建物の所有者が「看板にドロを塗られては困る。」と
撤去したのかも知れません。
無事にツバメの子ども達が巣立ってくれていると良いのですが・・・・
海野宿入り口に「白鳥神社」がありました。
何でも平安時代にはこの地に鎮座されておられたそうです。
私が気になったのは神社横に慎ましやかにお並びになっていた
『恵比寿・大黒様』でした。
我が家には、気仙沼からお越し戴いた恵比寿様がおいでになるから
そちらに目が行ってしまうのです。
我が家の恵比寿様の三倍くらいの大きさです。
恵比寿様・大黒様、どちらも穏やかな優しいお顔付きでした。
七生寮でご一緒下先輩海谷さんの奥様が教えてくれた
海野宿に向かいました。小諸からは20kmくらいの所です。
東御市海野宿は見事に昔の街並みが保存されていました。
それも木曾の妻籠宿などのように無理に昔の街並みにしている、
と言った作為のない自然な感じで保存されています。
街並みについては次回UPします。
懐古園の料金は二通りあって、散策コースは300円、
フルコースは500円でした。
どう違うかというとフルコースは資料館とかなんとか館とかにも入れるし、
散策コースは園内散策と動物園に入れるのだそうです。
かび臭い資料を見せられるよりも動物を見る方が楽しいから
300円の入場券を買いました。
この大木は欅の木で樹齢が500年くらいだそうです。
このカメラマン、女性にいろんなポーズをつけさせて
写真を撮って居ました。
500年の樹の前にいれば80歳だってひよっこですからね。
きっと若くて綺麗に見える写真が撮れたことでしょう。
動物園には猿も鳥も熊もライオンも居ました。
ペンギンも可愛く歩きまわっていました。
この熊は男の子でしたが、リラックスしています。
女の子だったらあられもない姿ですけどね。
前回の七生寮では他に利用者が居なくて少し寂しい思いでしたが、
今回は先輩と後輩のご夫妻がおいででした。
上の写真は10年以上後輩の加藤ご夫妻、
ご夫妻は墨田川高校での同期のカップルだそうです。
下の写真の右側はは7年ほど先輩の海谷ご夫妻です。
海谷先輩は有楽町で弁護士事務所を開いておられ、
今でも毎日ご精勤なさっておいでです。
海谷先輩には私が以前、八重洲画廊で個展を開いた際、
同窓会で絵を購入して下さり、今は母校の校長室に飾られています。
下の写真の左の人は現在、寮の管理をなさっておいでで、
加藤さんよりちょっと先に卒業された私にとっては後輩の清澤さんです。
私はしばらくアルコールを飲んでいなかったのですが、
加藤さんから美味しい薩摩焼酎を戴き、
先輩と後輩を交えた楽しい語らいもあって、
心地よい酔いが回りました。
七生寮は利用者が少ないから、厨房に人は居ません。
夕食は上田市の障害者施設で作ったものを配達してくれます。
2人分でもOKだそうです。
朝食は管理している方が近くのコンビニで弁当を
その日の朝、買いに行ってくれます。
近くと言っても5km位はあると思います。
我々のためにと思うと申し訳ない気持ちです。
帰り道はのんびりと17号線の旧道を走ってみました。
私が若かりし頃、毎週のように冬の間、志賀高原に通っていた道は
関越道はおろか、碓氷峠のバイパスもなくて、この旧道を通るだけで
4,5時間掛かることもありました。
カーブがきついから大型バスやトラックが曲がり角で鉢合わせすると
お互いに二進も三進も(ニッチモサッチモ)いかなくなり、大渋滞となるのです。
今は殆ど通る車もなくて、旧国鉄のアーチ橋などを見物しながら
峠下りを楽しめます。
ブログでは帰宅の途についたところですが、
埼玉の暑さにはほとほと参ってしまいました。
軽井沢の涼しい空気が恋しくなり、また今日から七生寮へ行ってきます。
と言うわけで、またブログの更新はお休みさせていただきます。
ちょっと遅めのお盆休みと言ったところです。
金曜・土曜の2泊のみで、日曜日の夜には帰宅の予定です。
追分というのは分岐点、今様に言えばジャンクションです。
追分には記念碑などがあって往時が偲ばれます。
追分宿にはあまり古い建物は残って居ませんでした。
考察が展示してありました。
アップしたのを見て下さい。
お読みになれますでしょうか?
本陣も残って居ません。標札だけです。
下の雑貨屋さんはかなり古い感じです。
骨董なども置いてあり楽しいお店でした。
浅間山は鬼押し出しの溶岩地帯に入るには入場料が必要なので
駐車場で写真を撮って退散しました。
恐山や忍野も柵で仕切って入場料を取るのは不愉快だと思って居ます。
京都などの寺社が拝観料と称して入場税を払わないのは
もっと不愉快ですが、、、
追分宿には資料館があって、車を停めた場所に気象庁のアメダスを発見。
資料館には入場料が必要だがこれは払っても見たいので入館しました。
御神輿の原型がありました。
お社の形をそのまま担ぐので、これが御神輿本来の姿だと思います。