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鎌倉近国を歩く27 山北町の河村城趾

2018-06-14 10:50:17 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 27
             山北町の河村城趾



                   (写真はクリックして見てください)

 吾妻鏡建久元年(1190)八月十六日の条にある、河村義秀が鶴岡八幡宮の神事・流鏑馬で
妙技を披露して源頼朝を感銘させ石橋山での旗挙げ合戦の敵対を許された記事が気がかり
になっていました。好天の日、神奈川県山北町の河村城趾を訪ねました。

 歩く:御殿場線山北駅下車 駅の南側の山に向かって歩く。約40分で頂上の城趾。

 静かな山北町を案内の矢印に沿って歩き、やがて険しい山道にさしかかりました。登り
口に地図が書かれた看板があり、「この地は城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川に
よって周辺山地と分断された自然の要害。標高は225mで酒匂川との比高は130m」とがあ
りました。

 山道を登り終わると、そこは平らな城趾が拡がっていました。入り口に山北町の詳細な
城史碑があり、その要旨は次ぎのようです。

 「足柄平野の辺部には松田城や沼田城など多くの城趾があるが、なかでも河村城は甲斐、
駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している」「平安時代末ごろ秀郷流藤原氏の
一族・波多野達義の二男・河村秀高が築城したと伝えられる」

 「秀高の子が義秀。源頼朝の石橋山挙兵の際平氏に属したため領地を没収されるが、
鎌倉で流鏑馬の妙技により本領河村郷に復帰できた。町指定無形文化財・宝生神社流鏑馬
はこれによるといわれる」

 「河村城は南北朝時代に足利と新田の争い、戦国時代に小田原北条と武田の争いで激しい
攻防戦があり、1590年秀吉の小田原征伐で落城し廃城となった」

 案内図を見ながら歩くと城趾は三つの尾根からなり、深い堀切に立派な木橋が架けられ
ていました。橋を渡って東の浅間山に連なる尾根に進むと、足柄平野が一望できました。
橋に戻って南尾根の南端山道(大手道)を下山しました。

 数日前に大雨が降ったせいか、酒匂川は激しい水流でした。川に沿ってなだらかな道を
登ってゆくと「酒水の滝」が目前にありました。水量が豊かで、見上げるような高さから
流れ落ちる滝は見事でした。

 帰って図書館で、「神奈川県の城・朝日新聞横浜支局編」を目にすることができました。
「河村城は平安末期に創築され戦国末期までの五百年余にわたり、使われた。南北朝時代
には新田氏側、つまり南朝軍に投じて足利尊氏の討伐軍に攻撃されることになった。松田氏、
河村氏、酒匂氏など六千余兵は籠城して、刀折れ矢尽きるまで戦い抜いて、2年後遂に
落城した」とあります。

 河村城は交通の要衝に位置していて、上杉、大森、武田、小田原北条、など南北朝時代
から戦国時代まで城の攻防戰が繰り返されて多くの血がながされました。豊臣秀吉の小田原
の役をもって廃城になりました。

 歩いて来た山道には多くの血が吸い込まれているんだなあと思いました。