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鎌倉近郊を歩く22.上杉謙信の祖先の地・長尾台

2012-06-01 08:00:23 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 22
        上杉謙信の祖先の地・長尾台

                       (写真はクリックして見てください)

 春日山城主の越後守護代・長尾景虎は小田原北条に追われて逃げてきた関東管領・上杉
憲政から、上杉の名跡と関東管領職を譲られました(1552)。越後守護の上杉定実は病弱で
子どもがいませんでした。

 景虎は永禄4年(1561)長駆して、小田原城の北条氏康(早雲の孫)を攻めました。氏康
は堅固な城に籠もって防ぎました。鎌倉に入り上杉の家督を継いで関東管領となり、上杉
政虎と改名しました。後世には上杉謙信の名で呼ばれ、信濃川中島で武田信玄と何度も戦
ったことで知られます。長尾の発祥の地が、長尾台(横浜市栄区豊田)です。

歩く:JR大船駅下車 駅西口から柏尾川沿いに上流へ 鷹匠橋(最初の橋)を渡る

 橋を渡って5分ほど上流に向かって歩くと、左側に長尾台御霊神社がまします。この付
近が長尾の発祥の地です。後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政を祀った藤沢村岡の御霊
神社の分社です。権五郎の子孫はみな、「景」の諱(いみな)をつかいました。梶原景時
も権五郎の子孫の一人です。

 そのころ大船駅の辺りは柏尾川の川底で鎌倉の山内まで水辺が拡がり、底が平らな粟船
が人や荷物を載せて往来していました。長尾は鎌倉時代の中ごろ、京都から鎌倉に下って
きた上杉に仕えました。長尾台から粟船で山内の上杉家に出勤する光景が頭にうかびます。
上杉清子が京都室町に幕府を開いた足利尊氏を生んだことで、長尾は関東管領・上杉に従
って関東各地に展開しました。

 長尾台御霊社の横を上ると平地があり、その左の高い所が長尾砦の跡だそうです。たい
へん見晴らしがよい所です。戦国時代、玉縄城の出城となりました。早雲が小田原城をと
り、さらに玉縄城を陥しました。上杉も長尾も北関東に逃げ、越後の上杉・長尾をたのみ
ました。

 それにしても、謙信は越後から相模まで、はるばると遠征してきたものです。北条が守
る堅固な小田原城や玉縄城を簡単に落とせるとは思っていなかったでしょう。鎌倉を見た
い、先祖発祥の長尾台を訪ねたいという強い衝動にかられたに違いありません。しかし、
長尾台は玉縄城の出城となって、北条の三鱗の旗が翻っていたはずです。柏尾川を隔てて
先祖発祥の地・長尾台を眺め、春日山城に帰ったのでしょう。

 天正18年(1590)小田原北条は豊臣秀吉に滅ぼされ、関東の地は徳川家康に与えられま
した。家康は玉縄2万石余として、謀臣・本多正信に与えました。鷹狩りを好み、よく歩
くことで75歳まで長生きして天下をとりました。鳥獣の多い柏尾川流域を好んで歩きま
わったようで、近辺に家康の足跡を残しています。鷹匠橋の辺りに鷹匠たちを住まわせて
いました。難攻不落の大阪城をどう攻めるか、家康は正信と相談しながら鷹狩りに興じて
いたのでしょう。