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鎌倉の近国を歩く 28 皇居東御苑の富士見櫓

2018-10-14 10:13:42 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 28
            皇居東御苑の富士見櫓





 日本の首都として東京(江戸)ほどの適地は、他にありません。鎌倉に住んだ太田道灌が
江戸に出城を設けました。その跡を徳川家康が受け継ぎました。そして明治になって東京
となりました。東京駅を出て高層のビルの向こうに皇居を眺める度に、家康の慧眼には
敬服します。道灌は江戸城を好み、次ぎの歌を詠んだといわれます。

 わが庵(いお)は松原続き海近く富士の高嶺(たかね)を軒端(のきば)にぞ見る

 江戸城の富士見櫓から富士山を見たいと思い、晴れた日に皇居東御苑に出かけました。
東京駅で下車して、江戸城大手門(御苑入口)から中に進みました。芝生の大広場があり、
天主台石垣が見えました。

 案内板に天守閣と本丸御殿の絵図が描かれていました。天守閣跡に上がった後、標識を
見ながら松の廊下跡から富士見櫓の下まで行きました。櫓の中に入れず、櫓の横から西を
向きましたが、その日は昼過ぎから曇って富士山が見えませんでした。

 なぜ、家康は道灌が築いた江戸城趾を選んだのか、いろいろな説があります。北条攻め
で家康は豊臣秀吉と共に落城間近の小田原城を眼下に眺めながら、「まもなく城は落ちる。
北条の地をそなたに進ぜよう。関東はどこに住まわれる?」と聞かれたそうです。学問好
きの家康は道灌の歌を思い出し「江戸がよろしいかと…」と答え、秀吉が何度もうなずく
姿が浮かびます。

 案内書に、「天守閣は明暦3年(1657)の江戸大火で消失以後再建されず、富士見櫓が
本丸の中心となった。関東大震災(1923)で大破したが旧状に復元され現在に至っている。
櫓下の石垣の造りは慶長から元和の特徴を示している。家康時代の石垣として間違いない」
とあります。

 なぜ富士見櫓という名なのか説明文がありませんが、たぶん、その地が江戸城内から
富士を仰ぐに絶好の場所だったのでしょう。

 家康は富士山を特別な感慨を持って眺めていたに違いありません。少年時代に今川の
人質として駿府(静岡市)に送られられました。富士山を見ながら、辛い毎日を耐えて成長
したのでしょう。秀吉の気持ちを忖度して、富士山が見える江戸城趾に本拠を移しました。

 慶長10年(1605)家康は将軍職を秀忠にゆずり、2年後に駿府に帰りました。その地で
10年ほど暮らして75歳で亡くなりました。「家康がなぜ江戸の地を選んだかって?富士
山が好きだったんだよ。御殿場に別邸を造らせたりして…いくら家康が偉いといって、
大江戸から今の東京を予想したとは思えないなあ」という人がいて、富士山を見るたびに、
案外それがほんとうの理由ではないかと思うようになりました。


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