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鎌倉近郊を歩く27横浜の奥津城・久保山墓地

2013-12-01 10:47:00 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 27
         横浜の奧津城・久保山墓地



                  (写真はクリックして見てください)

 先の大戦(太平洋戦争)のことを調べていて、A級戦犯が東京巣鴨で処刑され、横浜の
久保山墓地でひそかに火葬されたという記事を目にしました。なぜ、この地が選ばれたの
か気がかりがつのって、たずねてみました。

歩く:JR桜木町駅下車 保土ヶ谷車庫行きバス 久保山霊堂前下車

 バスから降りて目にしたのは、谷間をびっしりと埋め尽くした石墓でした。横浜市中に
寺院と墓地が見られない理由がわかりました。この地に集められたのでしょう。

 案内書に「ここに墓地がつくられたのは明治7年(1874)のことである。開港以来発展を
続ける横浜市内の中心部にあった寺院の墓地が、町の美観をそこなうとか衛生上もよろし
くないという考えで久保山墓地が設けられた。市中の多くの墓地がここに改葬された。
およそ3万基のお墓がある」とあります。まさに横浜市の奥津城(おくつき)です。

 管理事務所があったので、A級戦犯の火葬に関して何か手がかりになるものが残されて
いるかどうか聞いてみると、「何もありません」という返事でした。

 A.C.ブラックマンの「東京裁判」に、「1948年12月23日東条英機ら7人の処刑が執行
された。木製の棺は陸軍トラックに積まれて、小雨のなかを横浜火葬場へと護送された。
この火葬場は空襲で焼けた谷間にある。不格好でずんぐりした漆喰細工の建物であった。
戦犯たちの遺体は木と石炭を燃料に、七つの鉄製かまどで焼きつくされた」とあります。

 「この火葬場は銃剣をつけたアメリカの衛兵に厳重に警護されていた」「骨灰は黒い箱
に詰められてどこかに持ち去られ、風の中に撒き散らされた」とあります。

 ブラックマンの記事と久保山墓地の風景が頭の中で重なって、およそのことがわかりま
した。やはり現地に足を運んでみるものだと思いながら、大正12年(1923)の関東大震災
で犠牲者となった合葬碑に手を合わせました。

 なぜアメリカは久保山墓地を選んだのか、想像するしかありません。東に向かって山
を下ると大岡川から横浜港に出られです。安政元年(1854)横浜村で日米和親条約が結ばれ
ました。5年後の安政6年に条約通り横浜で貿易が開始されました。外人墓地もあり、
アメリカ人にとってヨコハマは特別な感慨を催す地なのでしょう。

 BC級戦犯は昭和20年12月より裁判が始まり、5700人のうち1013人が横浜地裁庁舎
に特設された法廷で裁かれました。51名に絞首刑の判決が下り、マッカーサーの許可を
とって順次処刑されたと横浜市史に簡潔に記されています。その人たちはどういう理由で
死刑を判決され、どこで処刑され、屍体はどう処されたのか触れていません。

 横浜港で海を見ていたら、昭和20年の空襲の夜を思いだしました。毎年8月になると、
総理大臣が靖国神社に参拝するかどうかテレビや新聞で取り上げられます。多くの犠牲者
を出した大戦の歴史的結着が、未だついていないない気がしてなりません。

 最近の新聞で全国65歳以上の高齢者が3千万人を越えたという記事を読みました。
一生懸命に働いて家を造り、子どもを育てました。これからお墓造りです。横浜市は今
以上に墓地が拡がるのは好ましくないとして、新しい墓地の造成を許可しないそうです。

 最近、東京都で樹木葬を募ったら10倍の応募があって、抽選になったという新聞記事
を読みました。新しい時代の奧津城の在り方だと思いました。