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鎌倉近国を歩く21 伊東の伊東祐親像

2015-08-07 11:16:54 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 21 
            伊東の伊東祐親像



                      (写真はクリックして見てください)


「頼朝は治承4年(1180)の挙兵まで20年伊豆に居住した。その配所は蛭ケ小島(韮山町)
といわれるが、初めは伊東氏の住む伊東荘内(伊東市)であったという」(国史大辞典)。
この記事を目にして、伊東を訪ねてみました。

  歩く:JR伊東駅 下車

 伊東駅から南西に20分ほど歩くと、海が見える丘の上に伊東市役所のりっぱなビルが
見えました。その前の広場(物見公園)に伊東祐親(すけちか)馬上の像がありました。
祐親の館跡だそうです

 源頼朝は平治の乱(1159)で父・義朝と二人の兄とともに京都で平清盛と戦いました。
源氏軍は後白川上皇と二条天皇をいただく平氏軍に一蹴されました。父と兄二人は鎌倉に
帰る途中に命を失いました。14歳の頼朝は捕らえられて、京都・六波羅に移送されました。

 清盛の継母・池禅尼は、頼朝が亡き長子・家盛に似ているといって助命を嘆願しました。
許されて伊豆に流され、国衙(庁)の役人・伊東祐親と北条時政に預けられました。
それから、10年余がたちました。

 祐親が京都警護の大番役を終えて帰郷すると、3歳ほどの男子が庭先で遊んでいました。
頼朝と娘・八重姫の子・千鶴だと聞くと、祐親は激怒しました。千鶴を淵に沈めるとともに、
頼朝を殺そうとしました。九郎祐清の機転により、からくも伊東の地を脱しました。

 頼朝は息をきらして天城峠(約800m)を越え西伊豆に逃れたのでしょうか、それとも
小舟に身を潜めて北上し熱海に上陸して伊豆神社境内に匿われたのでしょうか。

 伊東市役所の観光案内でもらった地図を見ながら5分ほど歩くと、民家に挟まれた小さ
な墓地に伝・祐親の墓がありました。墓の横に浩宮徳仁親王御見学記念碑があったのは
意外でした。

 東林寺には河津三郎祐泰(祐通とも、祐親の嫡男で仇討ちで知られる曾我兄弟の父)の墓、
曾我兄弟首塚、相撲塚などがありました。帰路に駅へ向かって歩くと伊東大川の南側に
音無神社が在りました。ここで頼朝と八重姫がデートしたのだそうです。川の北側に日暮
神社が在って、祐親の北屋敷に住んでいた頼朝はこの神社の森で日暮れを待ちました。
 
 伊東の悲劇から2年ほど後、頼朝は時政の長女・政子と恋仲になりました。時政も京都
大番役から帰郷して二人の仲を知り、怒りました。政子は気が強く、暗夜雨の降るなか
頼朝のもとに奔りました。二人が許されて北条館に住むようになったのは、1177年ころ
と推定されています。

 年表を見ると、1177年鹿(しし)ケ谷事件、1180年頼朝の旗揚げ石橋合戦、1185年
平氏壇ノ浦で滅亡とあります。時政は平氏政権に対する不満が高まっているのを知って、
二人の仲を許したに違いありません。

 三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、徳川家康に頼まれ相模湾に入る大川の河畔で
西洋船を建造しました。東郷元帥が晩年に過ごされたのは、ここ伊東でした。歴史好きの
方は、この地を訪ねてみてはいかがでしょう。