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鎌倉近国を歩く30 武蔵の高麗神社

2020-05-16 09:27:51 | Weblog

鎌倉近国を歩く 30
                武蔵の高麗神社
                                                      写真はクリックして見てください


 神奈川県大磯町の高来神社に参詣して、元の名は高麗神社だったことを知りました。
明治になって改名したのだそうです。

 神奈川県史には、「伝説によると、若光は故国(高句麗)を去るや、一路東海を目指し、
遠江灘からさらに東して伊豆国を過ぎ相模国大磯の浜に着き、霊亀2年(716)武蔵高麗郡
に封じられるまでそこに居住した」とあります。

 朝日新聞(2016年10月1日)に埼玉県日高市の高麗(こま)神社の記事が出ていました。
古代、高句麗(こうくり、北朝鮮)から渡来した王族の一人・若光(じゃっこう)が、朝廷
から東国の新田開発を命じられて、同胞たちを統率して武蔵国高麗郡(埼玉県日高市、
鶴ケ島市の全域、飯能市などの周辺)を設置したという記事です。

 北朝鮮の高句麗(高麗)は中国・唐に攻められて滅亡しました(668年)。王族・若光と
多くの高句麗人たちが日本に亡命して、関東各地に住んだのでしょう。その地に高句麗神社
が開かれ、若光が祀られました。

 埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねてみました。

 歩く:JR茅ヶ崎駅から橋本駅へ。橋本駅から八王子駅を経て、高麗(こま)川駅で下車。

 車窓から相模川と大山を眺めていると、大磯に上陸した若光も同じ景色を眺めながら北上
したのだろうと思いました。大磯から八王子まで42キロ、八王子から高麗川駅まで36キロ
です。当時の人は健脚だから、2日か3日の行程で踏破したのでしょう。

 高麗川駅に降り案内板を見たあと20分ほど山に向かって歩くと、高麗神社の入り口に
着きました。見慣れないトーテムポールが二体立っていました。「天下大将軍」と「天下
女将軍」です。案内書に、「これは朝鮮に伝わる悪魔退治・災厄防除の守り神」とあります。

 入り口の看板に「高句麗の王族・高麗王若光を祀る神社である。高句麗人は中国大陸の
松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部
を領有し、約700年君臨した」とありました。読んでいるうちに、北朝鮮の労働党委員長
金正恩の顔と肥満した体躯が脳裏に浮かびました。

 鳥居をくぐり本殿に向かいました。どこにも見られるような神社建築でした。北朝鮮や
韓国でも同じ神社建築なのか一度訪ねてみたいと思いながら、本殿前で日本風にお賽銭を
入れて拝礼しました。
                                                                          
 御参拝光栄録の看板に、平成29年天皇・皇后とあり、遡って浩宮や三笠宮など計18の
皇族方御参拝名が列挙されていました。明治天皇や大正天皇は飯能町や川越町で高麗氏系図
を御覧とあるので、高麗神社に参詣さたのだろうと思いました。
    
 なぜ、天皇をはじめとしてかくも多くの皇族方が御参詣になったのだろうかと考えなが
ら、山麓に向かって10分ほど歩くと聖天院に着きました。案内書に「高麗山勝楽寺と号
するが、聖天尊(歓喜天)を本尊としているので、聖天院の通称がある。若光の子・聖雲
と孫・弘仁が建立したもので、いわば若光の菩提寺といえる」とありました。

 山腹に位置する境内から、日高市が一望できます。高麗神社入り口の看板に「続日本紀
霊亀2年(716)東国7カ国に住む高麗人1799人が武蔵国高麗郷に移された」とあった記事
を思いだしました。

 景色を眺めていると、「彼らの先祖は騎馬民族だった」という看板記事の続きが頭に浮
かびました。大陸風の牧場を開き馬・牛・羊などを飼育し、乗馬術を広めたのでしょう。
関東武士といえば騎馬武者の姿が頭に浮かびます。その淵源の地ともいえそうです。

 東京都の歴史(山川出版社)をみると、「武蔵国は牛馬生産が盛んな土地であった。官牧
として檜前馬牧・神崎牛牧、勅使牧として石川・由比・小川・立野の4牧場があった。毎年
50疋の貢馬が定められていた」とありました。民営の牧場も多く在ったでしょう。

 「優れた養蚕・生糸・絹織物の技能をもち、後に八王子にかけて絹織物の産地となり江戸
時代末から明治にかけて輸出品の中心となった」という記事もありました。彼らは養蚕・
生糸・機織りの術にも優れ、秀でた絹織物を提供し、武蔵・相模から関東全域に、そして東北
や西国にもその術が広められたのでしょう。


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